憲法(前文と九条)の読み方:文脈(脈絡)・修飾を無視してはならない!

古川さん、

全的に同意します。
わたしとおなじように問題を発見し解決しようとしているひとがすぐ近くにいるとおもえるのは、
こころあたたまり、こころづよいことです。

さて、みなさん、

前文に関する古川さんの適切な指摘に屋上屋を架すようですが、
わたしがつねづねたいせつにしていること、そして、
世のひとびとが、往々にして、関心をむけないか、気もつかないでいることについて、
ひとことおぎなっておきたいとおもいます。

ひとつのまとまりのある文章を「つまみぐい」するな、ということです。
べつな言いかたをするなら、
ひとつは、文脈(コンテクスト)を無視するな、であり、
もうひとつは、修飾語(句)=形容詞・副詞(句)を無視するな、ということです。

小泉という名の総理大臣が、かつて、この「日本国憲法前文」をつまみぐいして
とんでもない曲解を平然とたれながしたことがありました。
該当するところは、つぎの文章です。

《われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと
努めている国際社会にいて、名誉ある地位を占めたいと思う》(原文は旧かなづかい)。

小泉氏が「つまみぐい」したのは、「国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う」
の部分、それだけでした。
原文では、この「名誉ある地位を占めたいと思う」のは、どのような「国際社会」であるのかを、
明確にしています。すなわち、この「国際社会」とは、
「平和を維持」し「専制と隷従」を、「圧迫と偏狭」とを、この地球上から「永遠に除去しようと」
努力している、そういう「国際社会」なのであって、まかりまちがっても、
アメリカという名の帝国主義国家による、アフリカやアラビアやアジアにある弱小国家や地域への
不法な侵略や干渉に明確に反対しないどころか追認すらしているような諸国のことでは、
けっしてないでしょう?

前文を、文脈にそって正確に読めば、こんな恣意的解釈のつけこむ余地などまったくないのですから、
小泉氏の「読み」はきわめて意図的なものと言わざるをえません。

前文の、ひいては「日本国憲法」全体の唯一の欠陥は、古川さんが的確に指摘し、
わたしもことあるごとに指摘してきた、主語の「ジャパニーズ。ピープル」の「ピープル」を
「国民」にすりかえた部分です。
これは、三権(立法・行政・司法)の大勢を当時具体的に占めていた
旧「大日本帝国」の支配階級による、意図的な、きわめて巧妙な手段による、
「日本国憲法」換骨奪胎の策謀でした。
天皇条項を残存させた(「元首」を「象徴」と変えたにせよ)行為と双璧をなしています。

その点をのぞけば、この部分を「美しくない」「翻訳調」の文章だといって誹謗は、
成立しえないでしょう。

まず、日本にくらす「われら」(これは「われわれ」よりもやわらかいひびきをもった語で、
しかも「かな」で表記されています)は、
まず、「恒久の平和」をねがっていること、そして、
「人間相互の関係を支配」している「崇高な理想」を
「深く」「自覚」する、と自分の立ち位置を明確に示す。
(ただ「自覚」するのではなく「深く」つまり「根底的に」自覚する。)

つぎに、「われらの安全と生存を保持」しようという決意がのべられるが、
その手段方法としては、唯一、「諸国民」の「公正」と「信義」とに
「信頼」することによって、であると明確化し、しかも
その「諸国民」とは、戦争をこととするようなひとたちではなく、
「平和を愛する」「諸国民」なのであることを、これまた明確に示しています。

ここからでてくる当然のこととして、
「全世界」のピープル(ひとびと)が、「ひとしく」つまりひとりの例外もなく、
「恐怖」と「欠乏」からまぬかれて、
「平和」にくらしていく「権利」をもっているのであることを
「確認」する、と、「われら」の決意のありかを明確に示し、

世界中のひとびとがこのようにくらすことができるようにするためには、
世界中の諸国家はどのような行為を為さなけらばならないのかを、
具体的に、「われら」の決意として、のべています。
すなわち、どの国家も、
自分の国のことにだけ「専念し」て、その結果「他国」を「無視」するような
ことがあってはならない。
これは「政治道徳の法則」であって、「普遍的」なものである。

したがって、もし、自分の国の「主権」を「維持」したいのなら、
この普遍的な法則にしたがうべきであり、
ほかの国家と「対等」な「関係」に立とうとすべきなのである。

さいごのしめくくりとして、これまでにのべてきたことを「崇高な理想と目的」と位置づけ、
その「理想」と「目的」を「達成する」のだということを、
「われら」は、日本国の「国家」としての「名誉にかけて、誓う、と明言しています。

わずか見開き2ページにおさまるこのみじかい前文のなかで、
人類が「平和」に生きていくとための条件がどこにあるのかを、
うたがいの余地なく明確に示しています。

もう、お気づきになったでしょうが、
カギとなる名詞と動詞(キーワード)には、すべて、適切な形容詞・副詞句がつけられています。
つまり、その名詞あるいは動詞をはっきりと「限定」しているのです。

あらゆる語は、根源的に、多義的なものですから、
恣意的に用いようとすればいくらでもできます。
そのような恣意的利用をさせないために、
名詞や動詞を「限定」しているのです。
ここでの「修飾」とはたんなる「おかざり」ではないのですね。

きわめて遺憾なことに、この前文と密接に照応しあっている条項は
第二章(第九条)におかれてしまっていますが、
本来は、この「戦争の放棄」こそが、前文にすぐつづいておかれるべきであったのですね。

ひこ

 

註1:これは、この前のコメント「日本大衆の憲法(13条)・一切衆生(前文と九条)」に対するコメントです。

2:「前文に九条が続くべきであった」という指摘は卓見で重要です。これは、前文と本文の本来の関係(憲法の三大原則の第二章「戦争放棄・戦力不保持」の心臓部が冒頭にあり、以下の第三章「人権の尊重」、第四章以下「主権在民」に続くべき脈絡にあった)ことを明らかにし、第一章「天皇」は旧憲法の「国体観」との妥協の産物であった事を示します。

日本大衆の憲法(13条):一切衆生の憲法(前文と九条)

みなさん

私は2000年来、憲法サークルをつくってきました。「前文あっての9条」と言って前文・9条の英文付リーフレットも開発もしてきました。

注意しなければならないのはpeopleの「日本国民」という訳です。

「日本大衆」ならば全うに学ぶことができたでしょう。
日本民族と読む者には全く前文を理解できません。彼らは国のかたちを「天皇をいただく」とすでに変えた改憲案をもったうえで、9条改憲と言っています。

私は2007年の憲法還暦記念日には「前文」を掲載することを全国紙・地方紙各社に要望書を送りましたが、一社も応えてはくれませんでした(赤旗も)。大きな網を掛けられていることを感じたものです。

池田さんの文章にも
日本国憲法(前文)からともに9条を考えてみませんかと改憲派には声をかけていません。護憲派もこの大きな網にかけられているとしか思えません。

前文を読んで初めて和田重正先生や、「国の理想と憲法」(野村昇平)の世界となれます。
だからせめて2015.9.19以降は、第13条(個人の尊厳)から9条改憲問題を考えようじゃないかと言っています。

2017.7.7以降はアメリカの核兵器の前で国のかたちを天皇をのこしてアメリカ隷従としか考えてこなかった自民党がある。

日本国憲法からはまわりの国々といかに仲良くしていくかしかないのです。
主権を維持しアメリカの悪魔の兵器をきっばり拒否するしかありません。

北東アジア非核兵器地帯の中核に日本がならなければなりません。

核兵器廃絶署名を先行させながら3000万署名をしなければ「アベ」への軽蔑の波動とおもわれて99.99%の団結にはなりません。

大衆が二分することになれば必ず負けます。(安保反対闘争が憲法実現とは無縁でした。いまや日米同盟ですよ)

2018.2.28  憲法語らい場  古川ひろすけ

 

註:「日本大衆」については、People をどう訳すかで「国民」は「国家〔権力)」に利用される惧れがあり、「民]には「目を潰された者」の原意が付いて回るので「大衆」はどうか、しかも元来の「ダイシュ(ゥ)」とすれば重厚感があるという討論がサークル内でありました。「池田さんの文章」とは本サイト掲載の「ノンポリ市民の憲法論」のことです。

ノンポリ市民の憲法論 (1.ダイジェスト版と2.完全版)

1. (ダイジェスト版)ノンポリ市民の憲法論 

【日本で初めて行われるかもしれない“国民投票”に、自分なりに備えておく】

――現時点で、憲法の諸問題(特に9条問題)を、私はどう考えればいいのか?―――

                  相模原市 池田力(72歳)

 

目次

第一章 はじめに・・・・どうしてこんなに改憲派が増えた?

第二章 現憲法への五つの批判について

第三章 1①~④の批判に反駁する・・・・・・・・・・・省略(原文を参照)

     ・①押しつけ憲法という批判

      ②日本弱体化・無力化が目的という批判

③不甲斐ない丸腰憲法という批判

     ・④翻訳調の悪文という批判

第四章 ついで、五つ目の批判に反駁する・・・・・・・・省略原文を参照

     ・⑤自衛隊の違憲・合憲論争の周辺

第五章 この憲法についてのもっとも肝心な議論(日本国憲法の“キモ”について)

第一章 はじめに・・・どうしてこんなに改憲派が増えたのだろう?

○改憲問題がかまびすしいが、私たちの若いころには、「憲法改正!」などという声は、そんなに大きくはなく、身近でそんな声を聞くことはあまりなかった。せいぜい、どこか遠くの方でそんな愚かなことを誰かが言っているな、という感じだったと言えばいいだろうか。ところが、何という事だろう?!いつの間にか、改憲勢力がどんどん増えていて、選挙方法のトリックもあるのだろう、国会の議員数では既に改憲派が多数となっており、近々、日本人初めての経験、「改憲発議、国民投票」という事になりかねない事態なのである。どうしてこんなことになってしまったのだろう?

ノンポリながらも、現憲法を大切なものに思ってきた自分には、ある意味大変な事態であり、70数年の長きに渡って私たちを律してきた国の基本を改変するのかしないのかについて態度を決めるという大事なことだ、という気持ちにせかれて柄にもなく、この機会に改めて自分の中の憲法観を吟味し、整理し、シッカリと自分の考えというものを構築しておきたく思うのである。

まずどうしてこんな事態となったのであるか?それについて考えてみると、結局は、やはり改憲勢力の、粘り強い、巧みな、「改憲すべき」という広報活動が功を奏したのだと思う。彼らの息の長い広報活動に対して、護憲のための有効な活動はいったいどうだったのだろうか?そんな反省も出てくる。

ともあれ、考えてみよう。なぜちょっとした間に、かなり多くの人が現憲法を価値無きものとみなすような、こんな事態になってしまったのか?恐らくこんなことが原因じゃあないだろうかと思い当たることがある。例えば若い人たちに次のような口調で現憲法について語ってみるとする。「今の憲法って、敗戦日本に無理やり押し付けられたもので、平和主義、丸腰主義というけれども実は、二度と刃向かえないように武装解除して丸裸にされているだけ。攻められても何もできないし、されるがまま。自分達を守ることもできない、実に情けない憲法だと思う。」「押しつけられたもんだから全体に何だか翻訳調だし、この憲法分かりにくいと思わないかな?センテンスが長いし、日本語としては悪文の見本だと思うよ」「やっぱり、もう戦後70年もたって日本も一流国になったんだし、押しつけられたものはいいかげんで止めて、自分たちの手で自主憲法を作った方がいいと思うよ。」さらに「個人の家庭だって刃物を持った泥棒が侵入してくると怖いから戸締りをしたりそれなりに準備するだろ?ところがこの憲法では、陸海空軍その他の戦力は保持しない、となっていて自分を守る道具も持たないで侵入されても何にもしないみたい。ちょっと普通じゃあないと思わない?外国に押し付けられたままでいないで、もっと普通の憲法にしようよ。当たり前のことだと思うよ」

ここまで言われれば、若い人はじめけっこう多くの人がついつい「成程、たしかにそうだよなあ…、言われてみればそんな気がするなあ、、」とならないであろうか?実は、こんなところが若い人や多くの人びとの中に、改憲の思想がしみこんでいった大きな原因があったのではなかっただろうか?現憲法批判として何とも実に分かりやすく、若い人に限らずけっこう多くの人に、強力に訴える力があり、憲法改変に向かってなかなか説得力の大きいものだと思うのである。

第二章 現憲法への五つの批判について

もう一度、よく耳にする憲法批判を箇条書きに整理してみると、下記の数点などになろうか。

  • この憲法は戦勝国アメリカによって押し付けられた憲法である。

  • アメリカが、日本人から武器を取り上げて徹底的に無力化を図った憲法である。

  • 丸腰主義では安全保障上どうか?無抵抗しかなく意気地無しの憲法である。

  • 日本語としては翻訳調の分かりにくい悪文ではないか?

(更にもう一つ、②と③の武器・武力に関係する事で、自衛隊についての議論がある)

  • 災害救援活動等で功績大きい自衛隊を憲法上「違憲」と言い張る人もあり、いっそ自衛隊の存在が誰にも認められるよう現実にあった記述に憲法を変えるべきである。

こう並べてみると、これらの憲法批判は、私には何というか、ある意味、小学生さえも納得させ得るような分かりやすさがあると思うが、しかし、別の言葉で言えば卑近にされ過ぎ、矮小化された憲法論議とも言えるような気もするのである。その多くは従来より押し問答的に繰り返されてきている。例えば「押しつけである」「いやそうでない」、「違憲だ」、「いや合憲だ」、「美文だ」「悪文だ」と言った具合で、いささか退屈な繰り返し合戦の状を呈している。が、実はこんな議論では届かない、この憲法に関する重要な、いわば第⑥番目の論点があって、その肝心の部分(この憲法自体が有する歴史的な意義とか価値等に関する議論)については何ら触れられていず、従ってその事については未だ多くの人に十分に意識化されていないように私は感ずるのである。そのことを意識しないで憲法を語るのは、一番さわりやすいところのみを話題にしているだけで、現憲法のもっとも大切なところ,いわば“キモ”に触れないで憲法を語っているに過ぎないと思うのだ。その“キモ”とは何か?それについて、十分に掘り下げ、浮かび上がらせ、できるだけはっきりと意識化したいと思う。

しかしその前に、五つの憲法批判の多くは攻めやすいところを取り上げ、対象をおとしめるための、いわゆるためにする議論に過ぎないが、ともかくも、これらが現実に多くの人を改憲の方向へ引き込みかねない一種のチカラを持っていると懸念されるがゆえに、それぞれについて自分なりの見解を明確にしておいた方がいいと思う。それについては、「ダイジェスト版」としては長くなるため省略してあるが、できれば「(原文)ノンポリ市民の憲法論」の三章、四章を参照して頂き、自分の憲法観を構築する参考にしていただければ有難い。そのひとつひとつについて、私なりに調べ、考え、たどり着いた僻見を記述してある。

第三章  ①~④の憲法批判への反論(原文参照)

 

第四章  ⑤自衛隊の違憲・合憲問題の周辺に関しての見解

     (原文参照)

第五章  この憲法についての最も肝心な議論(現憲法の“キモ”について)

我々の憲法そのものにストレートに入って行きたい。私が感ずる、考える、この憲法の意義、本質論のようなことについてである。

学者ならぬ一市民の私がこの憲法に対してボンヤリとではあるがずーっと感じてきたことは、幼少時以来の、人々の中にあった、一種の、この憲法を賛嘆する雰囲気の中で、やはり何といっても『我々の憲法は、すべての人間が上下無く平等であり、同じように幸福であるべきであり、そしてお互いがつまらぬ競争や闘争をすることなく平和裏に生活し、世界中の人民が仲良く共存することを謳っているものなんだなあ』という、この憲法への圧倒的な信頼感であり、その元に自分が居るという安心感であった。笑う人は笑うがいい、たとえシニカルに笑われても、いわゆるこの憲法の『国民主権・基本的人権・平和主義』は20世紀になってやっと高らかに謳われることになった、人類が明確に獲得した大きな価値であり大原則だと私は思うのである。

例えばこの憲法に於ける「基本的人権」。人権の思想の歴史はもう確かに西洋各国に古くから有る。いわば、西洋は人権思想の本場だ。しかし「権利の章典」、「人権宣言」などなど、あるいは「自由・平等・博愛」と美々しく謳われ、フランス革命、アメリカ独立宣言、等々人民の流血を経て獲得された人権の考えも、当時は新しかったとはいえ、私はまだまだ狭かったのではないかと思ったりするのである。なぜなら、彼らは美くしい人権の思想を持つところに達しながら、それ以後も他の民族や他の国民を抑圧し侵略し、自分以外の人間の人権を事実として踏みにじってきたのであったし、20世紀に入っても歴史始まって以来かってなかった巨大な戦争を起こしてその行為を続けてきたのであった。つまりは彼らの言う人権とは、例えば狭い範囲のイギリス人の人権であり、フランス人の人権であり、またアメリカ人の人権であったに過ぎなく、自分の人権だけは大切にするが、それ以外の諸国民・全民族・全人類の人権にまで考えが及んでていなかったと言える。ところが20世紀の前半だけで、戦争による死者の数が、それまでの数千年間の間に生じた戦死者の総数を超えたという愚かな大変な犠牲を払った後で、さすがに人類は自らの愚かしさに気づかされたのでなかったか?もうコリゴリだという世界中の人々の厭戦の気持ちとやっと終わったとホッとした気持ちを経て、その只中から、新たに憲法を創る動きがこの極東のちっぽけな国で興り、いろんな思惑やかけひきややり取りもあったが、新しく創るという刺激の元、いわばグッドタイミングで、これからの世への夢や理想が入りこんだのだ。この憲法に。私はそう思う。そんなことから、この憲法の基本的人権の思想はもはや今までの古い人権思想ではない。ましてや狭いニッポンジンの人権だけを謳っているのではない。憲法作成時の色んな人のその時の思い、夢や理想をはらんでもっと徹底して、全世界のすべての人々、西洋人だけでなく東洋の人も、白人も黒人も褐色人種も含んだあらゆる人々の人権を謳っているのだと思うのである。

この徹底した基本的人権と同じく、もう一つの重大な徹底主義というか、極限に行きついたものがこの憲法の重大なもう一つの柱、「平和主義」なのだと思う。9条である。人類史上初めてなのである。いわば、「戦争のための武器武具を破棄します、したがって戦争をしませんし、戦争ができません」と一国が無防備で自らの体を投げ出したようなもので、こんな国家は歴史上かってなかった。大変な犠牲の後で、もうコリゴリという厭戦気分と平和を希求する世界中の人びとの前で、世界中でいの一番に極端と言ってもいい徹底した平和主義を宣言した、その勇気、この憲法のこの理想主義。私たちは、戦後の出発に当たってこの憲法に接して多くの人が感じた安堵、明るい未来が訪れる予感、理想を胸に持つときめき等々、感じたものは様々だったであろうが、そのことを思い返し、この憲法を迎えたものが決して反発や嫌悪、誹謗中傷など悪意に満ちたものでは無かったことを忘れてならない。この憲法のこんな“人類史的意味”に気付くとき、私はこの憲法を誇りに思う事こそすれ、情けないなどとは決して思えないのである(ところがどうだ、今やこの国の首相自身がそしてその周辺の議員たちがこの憲法は情けないものという固定観念を持たされる時代になってしまっているのだ。これでは彼らがよく言う、自虐史観ならぬ自虐憲法観ではないか?)。

ここまで書いて来て、私とはチョット違う部分もあるかもしれないが、私以上にこの憲法の本質について的確にとらえているなあと思われる記事に出会ったので引用する。コメント者は、作家の赤坂真理さんという方である。「私は憲法9条を手放しで評価してはいない。(中略)けれども、9条は保持されるべきだとも思う。敗戦国の民の「もう戦争はごめんだ」というはらわたからの実感と、占領者のある層にあった理想主義が、冷戦構造の中でぶつかり編まれた美しい詩。私は憲法9条を、そうとらえている。世界史上でも類を見ない、出会いとタイミングの奇跡。それを日本人が「受け入れることを選んだ」という事実。これは世界の人々に知られる価値がある。(後略)」(2014・10・15、朝日新聞)

ここで赤坂さんは“占領者のある層にあった理想主義”が、編み込まれたと書いているが、私はもう一人の別の作家のことも思いだす。古いものだが、武者小路実篤の作品に「人類の意志に就(つ)いて」という一著がある。向日性豊かなヒューマニスト、オプティミスト(楽天家)として有名な彼だが、彼によると人間というものは確かに愚かで醜い側面もあるが、人間の背後には“人類の意志”とでもいうものが働いていて、どういう風に働いているかはわからないとしても、“人類の意志”は人間が幸福になることを願い望んでいるのだというのである。“造物主の意志”、“神の意志”とでも言い換えることもできるかもしれないが、彼はいかにもヒューマニストらしく“人類の意志”という言葉を使う。さてその働いている具体相を、愚かな人間には見えも分かりもしないが、ただ、その意志に合った行動をすると人間は幸福を感じるようにも作られているんだという。例えば、人間にとってある意味やっかいな性欲という問題である。人間の幸福を願っているはずの“人類の意志”が、どうしてして青年たちを悩ませ困惑させ、そのことが原因で時には格闘もし死に至ることもあるほど強い厄介な性欲を与えてしまっているのか?ここで彼は言うのである。人類の意志は人間の幸福を願っているが、人間が絶滅してしまっては元も子もない。さてその人類が絶滅しないで存続するためには男女の婚姻ということが不可欠である。しかし、もし、男女が何らか別の面白いことに熱中したり、あるいは大して相手に関心を持たないように作られていたら、結局、人類は絶滅してしまうかもしれないではないか。そこで“人類の意志”はそのことを恐れるあまり、いついつまでも人類が存続することを望むあまり、両性それぞれに相手に魅かれあうよう、いささか強めに性欲というものを配合したのだ、というのである。しかも、男性には少しばかり強めに、、、というのである。性欲は悪いものではない、自然なものであり、厄介さのその中にも“人類の意志”の人間に対する善意が働いているというこの世界観、人生観、若き日これを読んだ時に、この一種ユーモラスな説に何だか安心させられホッとしたことを覚えている。が、さて、私は、この武者小路実篤の、人知では分からない所で秘かに人間たちの幸福を願っているという“人類の意志”という考え方をもって、日本国憲法というこんなにも前衛的な不思議なものが、どうして日本に生まれたのかを説明できないだろうかと思う。日本国憲法誕生の混沌たるあの時代に、あの歴史的変革期独特の雰囲気とそこに生きる人々の独特の心情の中で、立ち会った人々の上にこの武者小路の言う“人類の意志”とでもいうべきものが働いたのではなかったであろうか?人間たちの幸福と人類の永遠の存続を願って、、、、、、そんなことを思うのである。

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2. 完全版 ノンポリ市民の憲法論

 

「チョット立ち止まってノンポリの一市民の私が憲法について考えてみた・・」

       ノンポリ市民の憲法論 

【日本で初めて行われるかもしれない“国民投票”に、自分なりに備えておく】

――現時点で、憲法の諸問題(特に9条問題)を、私はどう考えればいいのか?

―――

                相模原市 池田力(72歳)

        目次

第一章 憲法論議の“いま”について

    ・活発な意見交換の場を

    ・「国民投票」、いよいよ間近?

    ・政治と日本人、投票と日本人

    ・保守化傾向と言われる若い人の置かれた現況は?

第二章 現憲法への五つの批判について

    ・なぜ情けない憲法と言われるのか、彼らの言う“普通”とは?(五つの批判)

    ・五つの批判以外にある重要な論点、憲法の“キモ”について

第三章 まず、四つの批判に反駁する

    ・①押しつけ憲法という批判

    ・②日本無力化弱体化の目論見があったという批判

    ・③不甲斐ない丸腰憲法という批判

    ・④翻訳調の悪文という批判

第四章 ついで、五つ目の批判に反駁する

    ・⑤自衛隊の違憲・合憲論争の周辺

第五章 この憲法についてのもっとも肝心な議論(日本国憲法の“キモ”について)

※補足 ①“自虐憲法観”を脱ぎ捨て、この憲法に自信と誇りを!真の護憲活動を!

第一章 憲法論議の“いま”について

  • 活発な意見交換の場を、、、

憲法や改憲問題についての自分の考えを整理し吟味するに当たって、こんな会があって(改憲問題を心配してネット上で忌憚ない意見交換をしている、主として関東近辺在住者、米国ミズーリ禅センター主宰の僧侶・吉田魯参老師たちからなるネット上の集まり。➡www.heiwasekai.org)、会の皆さんの活発なやり取りに触れられるのはホントに参考になって有難い。考えが鍛えられ、幾分なりとも自分の考えを精緻にできるような気がする。今回、私も初めて、憲法問題を巡って頭の中でもやもやしていたものを文章化したが、事実誤認や考えの展開に不徹底なところやおかしなところもあるかもしれない。ぜひ指摘、批判、ご教示をお願いしたい。もやもやしているものを形にするのに、普段はノンポリの自分はあちこちさ迷ってA415枚程度にもなってしまった。冗長なもので気が退・ひけるが、こんなものでも誰かの参考になるだろうか?そんなことも思いながらの送信です。大事な時です。みんなで活発な憲法論議をいたしましょう。(長いですから、第一章は前置き的な助走部分ですし飛ばして読んで頂いても結構です。また「ダイジェスト版」を読まれた方は第三章、第四章のみお読みください。他の部分はほぼ「ダイジェスト版」と同じです。)

  • 「国民投票」、いよいよ間近?!

さて、現政権は2018年にも改憲の発議をするという段取りも考えているらしいから、私たちは、いよいよ『国民投票』という日本人初めての経験を近日中に目の前にすることになるのかもしれない。70数年の長きに渡って私たちを律してきた国の基本の法律の改変についてどうするか?という事で、考えてみると大変な事であるのだから、投票するにあたって改めて自らの考えをシッカリと持っておきたく思うのである。シッカリ持っておくということは、対立する見解の持ち主にもキチンと説明でき、あたう事ならば相手を説得し得るほどに、現実に対するしっかりした認識、そして論理、と同時に、理想や価値について空疎ではなく、分かりやすく訴えるだけのモノを自分の中に構築しておかねばならないということだと思う。しかし単に信ずるところを述べ合うだけではそれぞれが“信仰告白”しているようなもので、いつまでたっても平行線。できるだけ冷静に意見交換したいものだ。

  • 政治と日本人、投票と日本人?

政治的な問題について普段からあまり事々しく議論する習慣のないわれわれ日本人である。今までに前例の無い『国民投票』となったとしても、ひょっとしたら多くの人の投票行為は、議員を選挙する際の従来の投票行為とさして変わりなく、漠然たる好悪の感情やその時のフィーリングで投票してしまうのかもしれない、、、そんなことも思ってしまうのである。多分、自民党支持者は「自民さんの言う事なら間違いない、自民さんに任せとけばいいんだよ・・・」的な投票を、つまりは改憲賛成の投票を、投票所まで支持者同士誘い合って今回もするのだろう。そんな印象を抱いてしまう近所の、地域の、自治会の(普段は気のいい)おじさんたち・おばさんたちは、我が家の周辺にごまんといるのだ。そんな安易な投票行為が、投票率の関係でまたもや意外と功を奏して「改憲ゴー!」とならないか?心配なことである。

  • 保守化傾向ともいわれる、若い人の置かれた状況は?

若い人の動向も気にかかる。彼らは私たちの世代(私は昭和20年、つまり敗戦の年生まれの72歳)のような、いわば現憲法を賛美し、戦争の悲惨さを忌避・告発し、平和主義・非戦主義の新憲法を誇らしく声高に語る空気の中では育っていないのではないだろうか?

憲法といえば私たちの時代には「世界に誇るべき私たちの日本国憲法・・・・」といった一種の新憲法賛嘆の雰囲気があって、私は時々ふっと思うのであるが、自分の護憲の態度は幼少時代からの、この一種の雰囲気による刷り込みに由来する部分もあるいは大きいかもしれぬと思わされる時があるのである。その意味では今の若い人びとは、そんな刷り込みどころか、むしろ逆の刷り込みを受けている世代といってもいいのかもしれない。もう長い間、彼らは「この情けない憲法・・・・」というトーンにさらされ続けているのではないだろうか?本来自分たちの「憲法を尊重し擁護しなければならない」自分たちの国の首相ですら、何と、いつの間にか、すっかりあからさまに現憲法を軽んじる雰囲気を醸成している原因になっている。彼の言う所によれば、つまるところ、『世界の多くの国の憲法とは異なる、(その意味では)“普通”ではなく、(したがって彼らには)“情けなく感じられる”憲法を変えて、(彼らの言う)“普通”の憲法にして、“普通の国”になりましょうと言っているだけなのですよ』ということなのだが、この言い方は、若い人たちにとっては多分、中々に反駁しにくい、つまりは説得的に働くもの言いに思われる。そこに大きな落とし穴があって、その点について次段以降に掘り下げて考えてみたいのだが、ともかくもそんな事が大きな一因となって、結果的に現在、改憲に同調する人の割合がかなり増え、更には選挙のトリック(選挙制度やその運営の諸問題)で議会では既に改憲派が多数になってしまった。こうして、最近の「憲法改正発議、国民投票も近いか?」という事態に立ち至ったのだと思われる。

第二章 現憲法への五つの批判について

  • なぜ「情けない憲法」と言われるのか?また彼らの言う「普通」とはどういう意味か?

では、改憲派の人たちが現憲法を「情けない憲法、普通でない憲法、」と言うのは、どんな理由からなのか?もう少し詳しく見てみると、よく耳にするもので、おおよそ次のような数点のことがある。

  • この憲法は戦勝国アメリカによって押し付けられた憲法である。

  • アメリカは、日本が将来にわたって二度と立つことができぬように日本人から武器を取り上げて徹底的に無力化を図った憲法である。

  • 非戦・平和を美々しく謳っても、何ら武器を持たず丸腰では、家族も同胞も恋人さえ守れず、無抵抗主義の意気地無しの憲法である。

その他に、あまり重要なものではないが、次のようなものもある。

  • 日本語としては翻訳調の分かりにくい悪文ではないか?

(更にもう一つ、②と③の武器・武力に関係することで、自衛隊についての議論がある。)

  • 災害救援活動等で功績大きい自衛隊という存在を、丸腰主義から逸脱するもの、つまり憲法違反だと言い張る人もあり、自衛隊の存在が誰にも認められるよう現実にあった記述に憲法を変えるべきである。

というものである。これは、この、「憲法が情けなく、普通でないから変えよう」という議論というよりは「ただ現実に合わせたものに変えよう」という議論と言えるが、この論点は実は大変重要な論点であるし、議論が盛んに戦わされるところだから、ここに挙げておきたい。以上①~⑤について箇条書きに述べてきたが、さて、こう並べてみるとこれらの論点は、現憲法批判として何とも実に分かりやすく、若い人に限らずけっこう多くの人に、ある意味強力に(?)訴える力があり、憲法改変に向かって説得力の大きいものとは言えよう。

  • 上記以外の,もっとも重要な第⑥の論点、いわば“キモ”の存在ということ

 さてそれでは、これらの改憲派の人々がよく言う議論で、現憲法が批判され尽くし、破棄されるべきものとみなしうるかどうか?である。結論だけ言うと、私はこんな、小学生も納得させ得るような分かりやすい、別の言葉で言えば卑近にされ過ぎ、矮小化された議論では届かない、この憲法に関する重要な、いわば第⑥番目の論点があって、その肝心の部分(この憲法自体が有する歴史的な意義とか価値等に関する議論)については何ら触れられていず、従ってその事については未だ多くの人に十分に意識化されていないように感ずるのである。そのことを意識しないで憲法を語るのは、一番さわりやすいところのみを話題にしているだけで、現憲法のもっとも大切なところ,いわば“キモ”に触れないで憲法を語っているに過ぎないと思うのである。例えて言えば、ある一人の人間の事について語るのに、その出自や生まれがどうの、話し方に外国なまりがあるの、財や持ち物が乏しいだの、はてはこんな評判があるだのというその人の外面的な事のみで批判するようなもので、肝心のその人固有の人間性や人格、つまりは本質に何ら触れないでするようなものと言えよう。つまりは誰にも分からせやすい、攻めやすいところを取り上げ、対象を貶めるための、いわゆる「ためにする議論」ではないかと思うのだが、ともかくも、この第⑥の最も大切な論点については後で再度とりあげ考えてみなければならないとしても、①~⑤ののそれぞれについて、それらが現実に多くの人を改憲の方向へ引き込みかねない一種のチカラを持っていると懸念されるがゆえに、一つずつ自分なりの見解をざっと整理しておこうと思う。

第三章 (はじめの)四つの批判に対する疑問と反論の試み

  • ①の「押しつけ憲法」論議について

 まず、この議論に関連して、たまたま目にした文章であるが、終戦後その優れた国際感覚や英語力から吉田首相を手伝い、GHQと様々な折衝場面に立ち会ったという白洲次郎という人の文章に少しだけ触れてみたい。彼の回想を読むと、ある意味当然のことだろうが、米軍将校,係官など勝者アメリカ側の、敗者日本側に対する傲岸な態度にはたびたび悔しい思いをさせられたらしく、文章中にしばしばそんな表現が出てくる。現憲法が出来上がる正にその経過中に政権中枢近くにいて、その過程を実見しての感想だったのであろうが、彼の表現によると憲法についても、あちこちでくやしさの感情と共に、キッパリと「押しつけ憲法であり、自分たちで作るのが一番いいのだ」という趣旨のことを言ってもいる。しかしその一方で、彼は「この新憲法の根本は結構なことだと考える」とか、「新憲法のプリンシプルは立派なものである。主権のない天皇が象徴とかいう形で残って(中略)政治の機構としては何か中心のアイマイな、前代未聞の憲法が出来上がったが(中略)、しかし、そのプリンシプルは実に立派である。」とか、さらには「マックアーサーが考えたのか幣原総理が発明したのかは別として、戦争放棄の条項などその圧巻である。押しつけられようが、そうでなかろうが、いいものはいいと率直に受け入れるべきではないだろうか。」と述べるようにもなっていて、その辺の時を経るうちの彼の文章のニュアンスのバリエーションを面白く感じたのであった。あまたある当時の回想録の中で中々に面白いもので、余裕のある向きは一読されるといいと思うが(白洲次郎「プリンシプルのない日本」新潮文庫)、さて、この①「押しつけ憲法」論議に関しては、私の場合もたとえ押しつけられるという事情が当時あったとしても、この憲法の重大な瑕疵(かし)(欠陥・きず)とはもう思わなくなっている。押しつけかそうでないかと論争し合い、もうこれ以上かかずらうのは値打ちのない論点と思うのである。極端な話が「自主憲法」であればはたしてそれで良い憲法と言えるであろうか?自主憲法ができても中身が悪いものであれば何の意味もないことである。自民党をはじめ憲法草案が出始めてもいるが、さて、それらは多くの問題も指摘されており果たして、全国民が賞賛しうる立派な憲法草案となっているか?疑問であろう。

 しかも、考えてみると押しつけとはいえ当時の我が国の議会に置いて、提案され様々な議論の末に、我が国の議会が承認、つまり“のんだ”のである。更に聞くところによると、この押しつけ憲法を議会に提出したのは、現在では押しつけ憲法を批判している現在の自民党のいわば系譜上の先輩諸氏(?)たちであり、反対に現在では9条護持の立場の共産党が、戦争放棄等の条項に疑義を出したとか言う事情もあったとかで(それほどに9条というものは当時の常識では想定以上の内容であったともいえる)、現在とは立場が逆になる。それが本当であればつまり、自分で提案して通したものを、後になってあれは押しつけられたものであった、実に情けない憲法であると言っているが、情けないのは誰やらん、押し付けられるがまま通してしまった自分たちだったということになる訳で、そうすると何だか訳の分からぬなんとも滑稽な「押しつけ憲法論議」ではないか。ともあれ、①の論点についてはあまりこだわるのは愚かしいことであり、もうこれぐらいで止めておきたい。要するに憲法を作る過程よりも最終的にできた憲法の中身が良いか悪いかが根本の問題である。

  • ②のアメリカによる日本無力化の策謀(?)論について

 本当にアメリカ側の対日政策を決定する大元の所(大統領?マッカーサー元帥?)でそんなハッキリした方針があったものかどうか?、証拠となる資料を提示して論証した学問的研究があるのかどうか?一つのうわさ話に近いものなのかどうか?一市民に過ぎない私は知らない。しかし案外、やっと長い苦労した戦争が終わって厭戦気分に全世界の人々が襲われており、駐留米軍の間でも、他国の憲法とはいえ一国の基本となる憲法を、新しく戦勝国側で試作するとなった場合、できるだけ良いもの、その当時の人間が抱く理想や夢を盛り込んでみようという動機がひょっとして働かなかったであろうか?いやいや、そんな甘いものではなく、「この国の野郎、苦労させやがって、二度と立ち上がれぬようにしてやるぜ」とばかり、懲罰的、報復的気分だけで、悪意の草案作りをしたのであったろうか?あの時代に、戦に勝った超大国が、息も絶え絶えの吹けば飛ぶような小国に対して、、、。あるいはひょっとして、そのどちらの気分も混在していたのかも知れないが、先に挙げた白洲次郎の文章にも「マックアーサー氏が憲法で戦争放棄を規定したのは文化的の前進だとか、進歩だとか(中略)自画自賛していた云々、、、、」というような文章もあり、意外とアメリカ側でもいいものを作ろうともし、仕上がりも自画自賛するほどに完成した達成感みたいなものを感じたのであったかもしれない。そんな見方もできないだろうか?もっともこんな想像は私個人の勝手な想像の産物なのであるが、悪意ばかりではなかった一つの傍証として、ベアテ・シロタ・ゴードン夫人の回想のような、ちょっと感動的な話も残っており、アメリカの悪意の策謀の産物とばかりは言えないのではないかと思うのである。子ども時代を日本で過ごした経験のある夫人は、戦後来日してGHQ民生局のスタッフとして憲法草案作りに関わり、ヨーロッパの憲法を参照したりしながら、当時の状況下でできる限り可能なリサーチ(調査研究)をして、新しい憲法の中に、日本人のために理想的な条項を組み入れようとしたのであった(J・ユンカーマン監督、DVD「映画日本国憲法」、およびNHK番組「アナザーストーリー・誕生!日本国憲法」2017年制作参照)。

さて、上述のような観点から、たとえ言われるような悪意の策謀があったとしても、私の場合、この議論も、「押しつけ憲法」議論の場合と同じく、どこでどういう策謀があったか明らかでない反面、良い意志が働いた事実が確認されてもいるので、むしろ一種の余裕さえ感じながら、「いいではないかできたものの内容が立派であり、いいものが生まれたのであれば、、、」ということで決着がついているのである。要するに最終的に出来上がった中身の問題である。

  • ③の、「丸腰・無抵抗主義の意気地なし憲法」という議論について

 この論点については従来、“強盗論(?)”というものがあって、よくたとえ話としてこんなことも言われる。「君の家に強盗が入ってきて凶器を持って君や家人を脅迫し暴行を加えるとしたら、備えも無いまま、あなたはなにもしないで強盗にされるがままでいいの?何という情けないことではないか!」というようなものである。実は自分もある機会に、一人の見るからに真面目そうな青年からこの点に関して質問され、論争(?)を挑まれたことがある。もう、一昨年になるが、作家の澤地久枝さんと俳人の金子兜太さんが政権批判のために作成して、日を決めてゼネストならぬ全国一斉掲示しようと呼びかけた「アベ政治を許さない」というポスター。集団的自衛権等についての政府説明のあやふやさに憤慨してか、私の住む地域でも当時かなりの盛り上がりがあって、30数人がこのポスターを持って、さる私鉄の駅頭にズラリと並び、私もその中の一人として立った時のことである。こういうデモンストレーションをする時に、いつも感じるのであるが、現場で必ず他の話題・テーマのビラが配られたり(たとえば、南京虐殺のこととか、731部隊がどうとか、従軍慰安婦問題についてとりあげたチラシ等である)、「アベ政治を許さない」ポスターの掲示とは別に、「戦争反対」というような自製ポスターを持って立つ人も混じる。彼らなりに考えてこの機会にこんなビラやポスターも配布・掲示すればより効果的だと思っての行為なのだろう。しかし、ビラやポスターの文言が多様になれば、テーマが広がってそれぞれのテーマごとに賛否も多様になるから、本来の「アベ政治を許さない」のアピール力が弱まるし、更に困る事にはこの一斉掲示というデモンストレーションそのものが、一種共産党的な色合いというか雰囲気を持つようになるということである。おそらく共産党系の人たちがよくそういうビラ配りをしており、運動のやり方がパターン化しているのかもしれないが、困ったことに日本人の中には根強い“アカ”アレルギーがどうやら残存しているようで、不幸にも色を付けてみる習慣が出来上がっており、それへのいわれ無き反発も結構ある。他の政党と同じように単に一つの政党として見られなくて、一党独裁の社会主義国を連想して警戒されるのだろうか?どうやら無党派の私も共産党の方々の一派(?)に見えたのかもしれない。ポスターを持って立っている30数人の、一番端に立っていて声がかけやすかったこともあるかもしれない、通行人の中の何人かが私のところにやって来て曰く。いずれも大体同じ内容だったが、どの人もこの自製ポスター「戦争反対」が引っかかって私のところへ来たのだった。「あそこに戦争反対と書いてあるけど、戦争に反対なのは誰だって同じでしょ。あなたがそうであるように私も戦争は嫌だ。でも戦争反対と叫んでいるだけで戦争が起こらないような、現実はそんなきれいごとじゃない。問題は戦争が起こってしまった時、どうするかだ。ならず者国家が侵攻して来たら、その時、あなたたちは何もしないで丸腰でやられっぱなしなの?不甲斐なくない?」というようなもの。先に述べた青年はもっと端的に言ったものだ。「北朝鮮が日本海側に攻めてきたらどうするんですか?尖閣諸島に中国軍が上陸したらどうするんですか?」この時に、私が真面目そうなこの青年および論争を挑んて来た他の大人達と具体的にどういうやり取りをしたかについて詳しいことは省略するが、この問題に関しての自分の基本的な考え方について以下に整理してみたい。

さて私の所へ質問に来た数人の気持ちを要約すると、だいたい次のようだろうかと思われる。「丸腰でいることの危うさが危惧されてならない。「アベ政治を許さない」を掲げて立っている(改憲反対の立場の)この人たちは、丸腰で怖くないのか?丸腰のまま、結局は何をされても無抵抗でされるがままの不甲斐なく、情けない(?)人々じゃあないか?」

私は、国家が丸腰でいることの危うさについては当然の感情であり、すでにこの憲法が発足する時点にも有ったと思う。誰だって無防備でいることは怖い。だからこそ共産党からでさえ国会での新憲法議論の最中、9条に関していわば「軍がなくて大丈夫ですか?」という趣旨の質問が出たらしいということは先に述べたが、このことひとつ取ってみても、この9条がいかに当時の一国の憲法の条項として、常識はずれのものであり、他に例を見ないもの、つまり“普通”ではないものであったか、ということを示していよう。実は、安倍さんはじめ改憲派の人びとは、この“普通”でないということを、どんなに“普通”でなくいわば非常識であるか、異常な事であるかのようなニュアンスで取り上げ、「だから、“普通」”のものにしましょうよ、当たり前のことでしょ」と大衆に迫るのであるが、まさに、ここのところが致命的なすれ違いが発生するところなのだ。つまり、この憲法の考え方たるや、「もう“普通”たることをやめよう!」というのであり、「世界のどこの国もが、今まではお互い疑心暗鬼で武備をし、殺人用具に莫大な金銭をかけるというのが“普通”であったけれども、もうそろそろその“普通”をやめませんか?」ということなのだと思う。つまり、9条は非常識かつ異常な条文ではなくして、大変な斬新的、前衛的なものであった訳で、更にもっとハッキリ言うならば、相当高次の理想、つまり、もう人類はお互い戦争をしないような時代にしなければならない、戦争などはやれなくしておいていいのだ、というような、当時の人々の気分がつまって誕生したのではないかと私は思うのである。武備がなくても、今後の世界は新しくできた国連や国連軍に頼れるだろうという気持ちもあったのかもしれない。ともあれ東海の小島である我々の国は70数年前、丸腰たることの恐怖を乗り越えて、これからはこれでやっていこうと世界に先駆けて宣言したのだと思う。“普通”、つまりありきたりの国をやめて理想の国にしようとしたのだ。こう言うのが日本国憲法の原点だと思う。この“前衛性理想の高さと当時の人々の決意”を私は大事にしたいと思うのである。

こんなところが丸腰主義についての自分の基本的な考えだが、さて、では丸腰状態で侵略を受けたらどうする?という問題である。丸腰主義がこうむる危うさにどう対処するかという問題である。憲法では「無抵抗でいよ」とは一言も言っていない。まして、やられたら「殺されなさい」とも言っていない。護憲派の人々の中には「やられたらやられるままでいい、殺されても無抵抗でいいんだ・・・」という考えの人も居るかもしれないが、私の場合はそれは取らないし、そういう考えは多くの国民の支持を得ないだろうと思う。悪くすると「だから護憲派はダメなのだ・・・」となりかねないし、ひいてはそんな答えを聞いた人を改憲派に追いやってしまいかねないではないか。

ではこの質問にどう答えるか?これはもしかしたら改憲vs.護憲の対立の、もっとも先端的なというか、通俗的なところで目立ちやすい争点かもしれない。私の場合は、現場で青年からこの質問をぶつけられた時、正直、この青年をがっかりさせたくないというような気持ちも働いた。「やっぱりそうだった…この人たちは丸腰を金科玉条、やられっぱなしでいいんだ、不甲斐ないことだ・・・」と思われたくなかったのだ。意気地なしと思われてしまうのも少々抵抗があった。人間は弱いものである。ミサイルが飛び、爆撃標的としては極めて有効な危うい原発が乱立している日本に、他国からの通常兵器による侵攻などという事があり得るのか分からないが、万一あるとして、他国兵による殺戮でも始まれば我先にと逃げ出すかもしれない。その時どうするかはその時になってみなければ分からないともいえる。しかし、駅頭で勇気を奮って論争を挑んできた青年が相手である。「その時にならなければ分からないよ」では少々無責任すぎる。結局私はこう答えたものである。「ここにポスターを持って並んでいる人びとそれぞれのやり方があるでしょうが、私は他国兵による暴力・略奪・殺戮などを為されるがままにはなりません。家族・同朋・恋人を守るために当然戦いますよ。現状ではすでに丸腰とは言えない事情となっており自衛隊があり、したがって自衛隊の人々ももちろん駆けつけるでしょうから、彼らに協力し、一緒に戦うことになると思います。つまり、改憲反対派イコール無抵抗主義とは限らないで、私のような人間もいる訳です。私たちがやっているのは、特定の政党、あるいは特定の考えの活動ではなくて、安倍政治がおかしい、彼の政権の元での改憲は危ないの一点で一致して、協力して活動しているけれども、共産党の人もいれば私のような無党派もいる、場合によれば自民党の人だっているかもしれない。そのことは改憲派にもいろんな立場があるのと同じです」こんな会話を交わして青年とは別かれたのだった。

しかしここで一つ、この答は護憲論からすると少しばかり矛盾を含むことにもなる訳で、つまり、護憲の立場でありながら、駆けつける自衛隊と協力して戦う、ということは、つまり「あなたは自衛隊の存在を認めるのですね」と言われることになりかねないという問題がある訳だが、この点に関しては、青年の質問に「現状では私はこうするだろう」と言ったまでであって、自衛隊を認める認めない、あるいはそもそも自衛隊の違憲・合憲論争というような、ある意味厄介な論議の多い問題については次項以降でまた触れることにして、とりあえず、③の論点について、「この憲法は丸腰主義だが、無抵抗主義でも意気地なし憲法でも決してない」という自分なりの見解を述べて終わりとしたい。

※【少々の補足】

実はこの論点“丸腰主義”に関しては、もっと考えなければならない大きな問題が伏在している、そんな気がずっとしている。たとえば、❶他国の侵攻を防ぐには、(ある同盟国の武力に守ってもらうという事も含んで)しかるべき規模の軍隊など武備をしておくという事しか本当にないのか、それとも実はそうとは限らないで、丸腰主義で他国の侵攻を防ぐ道、あるいは侵攻の意図を起こさせない道はないのか?(例えば、憲法発布以来70年かけて世界の各地で平和貢献活動を積み重ねていたならば、もし世界から尊敬され重んじられるような国になっていたならば、そういう世界の人々の感情や評価は侵略意図を殺ぐかなりの抑止力となり得るのではないだろうか)という問題とか、あるいはまた、❷丸腰で、軍事なるものを放棄するということになれば、そのかわりに軍事に注いでいた人的エネルギー、莫大な金銭でその国民は何を為すべきか?という問題などである。

侵攻を防ぐために武備をしておくというが、武備をしておけば侵攻は起こらず戦争は起きないか?ということに限れば、今までの歴史で明らかなようにそうではなかった、武備を重厚にしていても、あちこちで戦争が起こり続けてきたのが今迄の歴史であり、むしろ武備は武備を呼び、互いに相手より強い武器を用意しなければ安心できないことになり、果てしがない軍拡競争に陥るのは、論理的にも必然であり、歴史的に実証済みである。が、ではそうかといって丸腰になればかえって侵攻を呼ぶではないかという理屈も当然あり、なかなか落着しない。実はこのへんの問題については、現憲法の丸腰主義というものの積極的意味という事に関して、いろんな角度からの発言があり(例えば、和田重正「国家エゴイズムを超えて」「自覚と平和」(白樹社など)、田崎末松「平和戦略論」(平和戦略総合研究所)、小林多津衛氏の赤十字国家論など)、考えを進める際に、大いに参考になるが、ここではそれを詳しく紹介する余裕がない。これらの所論を少しだけ自分なりに要約すると、「丸腰でいて、ただ戦争は嫌だ、平和がいいと唱えているだけでは何の力もない。平和を守るための、具体的行動を考え、それを実践するべきところを、戦後70年間、我々日本人がしてきた実践行動といえば、何らかの行動を起こし世界のために貢献するというようなことではなくて、一時期のエコノミックアニマル・マイホーム主義などの言葉に象徴される、ひたすら自分たちのための、自分たちが肥え太るための行動が主だったのではないか?」という指摘であり、軍事に向けるエネルギーを、平和を達成する方策と実際的行動に向けるべきだという主張と言えよう。以下に、田崎末松氏の所説だけ引用しておくが、その文中にある「血のにじむような平和創設のための行動と努力」とは具体的にどういうものかについては上記田崎氏本人、和田重正氏の著等を参考にしながらもっともっと考えなければならないと思っている。

『日本の安全保障政策の致命的欠陥は、平和憲法の存在のみを強調し、“平和憲法があります”という事を、お題目のように唱えることによって安全保障が得られると錯覚したところにある。平和を賛美し、戦争を呪詛し憎悪するという情熱だけで、複雑な国際社会における安全を確保することができると盲信したところにある。平和憲法は存在そのものに意義があるのではなく、血のにじむような平和創設のための行動と努力をもって(中略)初めて存在価値があるという事、を自覚しないところにある。』『平和憲法の精神を充足し発展せしめるためには、ただ手をこまねいている消極的なものでは不可能である。』『遺憾ながら日本は、平和憲法と平和主義の美名にかくれ、安全保障の原点を忘れ、アメリカに対しては(中略)安全を保障させつつ、ひたすら経済成長一本槍でついに経済的大国にまでのしあがった。』

  • ④の現憲法の文章が悪文であるという批判について

 文章が翻訳調で分かりにくく悪文だ、という人もあるが、反対に格調高く美しいという人も居て、中には暗唱するほど熱烈なファンもいる。要は憲法をその人がどう思っているか、その価値づけに対応して意見が分かれるようだ。現憲法が好きな人は文章も美しいと思い、格調高いと感ずる。そうでない人は何だか分かりにくい翻訳調の悪文だと貶したくなる。そんなところではあるまいか?私自身は、法律の文章はまあこんなものだろうと思っていて、一文章が長すぎてかみ砕きにくく正直分かりにくい言回しのところもあるが、思わず志操を高められるような高揚感を感じさせられるような感じを受けるところもあり、悪文だと言って片づけるのはどうかと思う。むしろ格調の高さに思わず背筋を伸ばしてしまう方である。

第四章 (最後の)五つめの批判に対する疑問と反論

○⑤「自衛隊の存在と憲法9条との齟齬(そご)矛盾(むじゅん)をどうするか」という議論について

この論点も、憲法誕生後70年間の時を経るうちに、制度も政治状況も様々な変遷があり、我々の頭を混乱させ、妙にこんがらがり、屈折し、落ち着いた冷静な話し合いができにくくなってしまったような印象がある。例えば、ごく真っ正直に、普通の健康な読解力と観察眼で、憲法を読み、そして自衛隊を見た時には、誰もが「自衛隊は憲法と矛盾する、つまり憲法違反である」と判断するしかないであろう。しかしである。何だか今の日本では(いや、安倍さんはじめ多くの自民党議員の前では、といい直すべきか)、こうハッキリ言うと、「あの災害救援などで労をいとわぬ働きをする自衛隊員を、お前は憲法違反の存在というのか?」と責められるような雰囲気があるのだ。そしてどうやらまず、こうなるようなのだ。「だから護憲派はダメなのだ。災害など一朝事がある時に、我々がお世話になる自衛隊員を違憲だと言って肩身の狭い思いをさせないよう、憲法に位置づけるべきなのだ!」と。まっとうな感覚と判断力で思ったまま正直に「それは違反していますよ」と発言するのが、はばかられるようなことでは困ったものである。

 

しかし冗談ではないと言うべきだが、今日に至るまで自衛隊員に肩身の狭い思いをさせるようなことをしたのはむしろ、(護憲派ではなく)1951年当時の朝鮮戦争などの政治状況からアメリカ側の言うままに、今日の自民党諸氏の先輩が「これは憲法違反ではないです。軍隊ではなく警察予備隊と言って警察みたいなものです。」と姑息にも言葉の綾で実質は軍隊(いわばアメリカの押しつけ軍隊とも言えるかもしれない)をコソコソ作ってしまったことに発するのであって、それ以後名前を変えた自衛隊は何となく中途半端な日陰の存在の雰囲気がまとわりついたのではないか!つまり、原因を作ったのは改憲派だと言えるのであって、「だから護憲派はダメなのだ」とは実に呆れたもの言いだと思うのである。例え話にしてみると、みんなが集まって決めたやってはいけない大事な決まりがあるのに、怖いAくんに迫られて、禁止されているモノを、「いえ、これはそれではありません」と言いながらコソコソと作ってしまったJくんであったが、ところが作られた当のモノが、それ自身の大変な汗水を流して多くの人びとの助けになり、その結果、みんなから感謝される事態が発生、それを見たコソコソJくん、自分が汗水流した訳でもないのに、横合いからしゃしゃり出て来てすっかり態度も大きくなって、「私のやったことは悪くなかったでしょう? で、相談なんですがね、みんなで決めたあの決まり、いっそ変えちゃって、禁止など取っ払ってもらえませんか?」と言うのはもちろんA君はアメリカ、Jくんは自民党の略で、下手なたとえ話だが、この程度のことなのだと思う、安倍首相などの言っていることは・・・。ともあれ、こんなこんがらがってしまった議論の中で、私自身はこの論点に関して以下のように考えることにしている。

★まず普通の理性で憲法を読み、私は当然の判断として自衛隊は違憲であるとハッキリ高らかに発言する。だからといって私は、今の状況下で、君たちは違憲だ!と自衛隊を批判したりしないし、自衛隊を即廃止すべきという意見は取らない。(そんな批判や即廃止を主張することはあまり現実的ではないからである。いつも懸命な災害救助活動に邁進している自衛隊員の姿を見るにつけ、私は本当に大変だなあと有難く思っているし、彼らの批判などとてもする気になれない)「違憲である」と明言するのは自衛隊を貶(おとし)めるためではない。単に文面上、そしいて客観的事実上、違憲としか読み取れないから、率直に違憲だと言うだけのことである。

★しかし自衛隊が違憲としか読み取れないからといって、憲法の方を(自衛隊が合憲と読み取れるように)改憲しようという見解は、当然のことながら取らない。つまり、安倍総理の「自衛隊明記」という考えには反対である。これはハッキリ言えば、今ある現実に誰もがあるべきと思う理想を合わせるという行き方と言えるが、ありていに言ってみれば、アメリカ側に言われるまま(この悪癖は安倍さんはじめ今日の自民党にまで続いているようだ)コソコソ作ってしまったモノ、という現実の方に、(大変な犠牲の後に産みの苦しみを経てやっと誕生した、世界が望む)理想を引き下げて、つじつまを合わそうという本末転倒のやり方ということである。それは、現憲法の普遍性、前衛性、斬新性や70年前発足時の、人々の(もう戦争はやらなくていいんだ)というホッとした気持ち、「これから我々は戦争の無い世界を創るのだ」という高揚した理想心、それを実現しようとする決意を全く台無しするものであると私は思うのである。また、自衛隊明記すなわち軍隊の所持を明記するということは、ハッキリ言ってしまえば、何の事は無い、19,20世紀の普通の国家のあり方、お互いに疑心暗鬼で軍備に励み、何度も何度も戦争を繰り返し、他国に侵略植民した、当時の普通の国にもう一度戻ろうというだけの事に過ぎない。私たちは70年前、もうその普通をやめて新しい国創りを世界に先駆けて始めた実践国なのではないか?

★さらに、安倍首相が言う「自衛隊を明記する」という主張に潜む危険性を見抜き、各人がもっともっとハッキリ認識することが肝要と思う。どうして危険なのか?戦争することに対して強い制約がある現憲法下においてでさえ、アベ一強たることを千載一遇の機会として利用し、約束とは裏腹に〝丁寧な説明“と合意もなく、自己の考えを強行採決までして推し進め、情けないことにアメリカ側の意を迎えた同盟軍出兵を可能にしてしまった彼である(専守防衛の「個別的自衛」として自衛隊と名をつけ、憲法の枠内としてきたのに反し、「集団的自衛」と称して自国を遥かに離れた外国にまで出かけて他国の戦争に協力することにしたが、その結果までは多分自分のやっていることが分かっていないのだろう)。この数年間、彼の発した言葉とやってきた行動を振り返って、私はこの我々の代表をどうしても信用することができない。例えば、この時代に何もわざわざ教育勅語でもあるまいと思うのだが、勅語を子ども達に一斉朗読させる学園の名誉校長に就く妻を諭(さと)し、(一国の宰相として、いな夫としてと言い直した方がいいだろうか)そんな行動にブレーキをかけることすらできず、その学園との関係の疑惑を払拭できない感性(センス)の悪さ責任の無さは一体何なんだろう?こんな男性(おとこ)を私は信用も信頼もできないのである。現憲法下においてでさえここまでやった彼が、一歩進めて「自衛隊明記」という第3項を付け加えたら、どこまで日本を過去の19,20世紀的な古い〝普通の国”に引き戻してしまうことになるのか?分かったものではないからである。憲法9条の2項戦力不保持をそのままにして、第3項に自衛隊を加えれば、「特殊規定優先」「追加項目優先」の法律解釈上の一般的規則から軍隊保持になり、「集団的自衛」の名で他国の戦争に協力・協働することになるだろう。私はそれが本当に心配でならない。

★先にも触れたが、自衛隊員による不断の活動によって、災害等救援等で骨身を削り(時には救助中殉職する隊員もいる)、苦難のただ中にある国民を支援救助し続けてきた結果、自衛隊が国民の中に高い評価がされるようになっているという現実をキチンと受け止めることである。ただし、くれぐれも忘れてはいけないのは、評価が高まったのは、備えている武器を使用して殺人破壊活動をしたからではなく、人を救助する活動によってであるということである。軍事・戦争ではなく、民事・平和の為なのである。

★司法の方では〝統治行為論“(?)というのであろうか、違憲だという判断も合憲という判断もないままにしているらしいが(日本の司法は残念ながら、まだまだ三権分立の理念を体現した独立独歩の司法ではなく、時の政権の掣肘を受ける司法であるらしく、是々非々の判断を下さないようだ)、ということは隊員は「自衛隊法」に沿って合法的に、つまり『(法律的には曖昧、健全な常識で言うと違憲だけれど)合法的に』活動している状態といえるのだから、隊員は少しも肩身の狭い思いを持つことは無いと思う。(※しかし、軍隊でないといわれる自衛隊が戦争に参加すれば、殺人などの罪は私人として裁かれるという事が指摘されているから、自衛隊員も国民も良く考える必要があろう。)

★自衛隊のあり方については、創立時の状況が拙速に過ぎ、公職追放中の旧軍の軍人や官僚を追放解除してあわただしく創立メンバーに組み込んだという事情もあったようである。そのような条件のもとで、自衛隊として如何なる伝統が形成されているのであろうか?組織外からは分からない“危うさ”(※)が無いであろうか。また、軍の基本的なコンセプトは何か?戦前にあっては「天皇の軍隊」だが、戦後にあっては「人民の軍」なのか「為政者の軍」なのか、「米軍の補完軍」であるのか、あるいはまた「国連軍」に最終的に改組することを目的に作る軍なのか、そういった〝建軍の思想、哲学“を時間をかけて十分練ることなく創られている危うさ(※)を指摘する声もある(前述、田崎末松氏)。そういったことも勘案しつつ、今後の自衛隊のあり方については、救助活動その他の任務、適正な自衛装備、さらには存廃も含めて、世界の実情や人類の意識変化等を慎重に勘案して将来世代が決めるということにしておくのが現状での考え方と思うのである。(※日米安保条約・地位協定などで一旦戦争になれば米軍の指揮下に入らなければならないということも忘れてはならない重大事である。〕

 ※以下の挿話は、自衛隊、あるいは実力組織の“危うさ”のようなものを彷彿させることかもしれない。憲法学者の小林節氏の回顧談によれば、かって防衛大学教官時に、学生たちと講義後に懇親のための飲み会があったらしいが、その席上、一人の学生がこう発言したことが有ったそうである。「先生、自衛隊の一個連隊があれば日本でクーデターが起こせますね・・」若い防衛大学生の脳裏に浮かんだ想念は、たわいない戯言(ざれごと)かあるいは権力把持への仄かな憧れか知る由もない。(神奈川新聞)

◎以上、改憲派の人々からよく聞かれる5つの論点のすべてについて、自分の考えを吟味、整理しながら、彼らとは相反する見解を述べてきた。

第五章 もう一度この憲法の“肝心かなめ(“キモ”)を見つめ直す試み

  • この憲法のキモ、本質,意義などについて少々・・・及び補足

押し問答ばかりで紛糾することの多い印象がある憲法の成立事情や作成の動機に関するいろいろな論議、あるいは自衛隊違憲・合憲論争など、いわば憲法周辺のことはもうこの辺で終わりにして(ずいぶん手間取ってしまった)、我々の憲法そのものにストレートに入って行きたい。今まで述べてくる過程で既に触れた部分もあるが、私が感ずる、考える、この憲法の意義、本質論のようなことについてである。

学者ならぬ一市民の私がこの憲法に対してボンヤリとではあるがずーっと感じてきたことは、幼少時以来の、人々の中にあった、一種の、この憲法を賛嘆する雰囲気の中で、やはり何といっても『我々の憲法は、すべての人間が上下無く平等であり、同じように幸福であるべきであり、そしてお互いがつまらぬ競争や闘争をすることなく平和裏に生活し、世界中の人民が仲良く共存することを謳っているものなんだなあ』という、この憲法への圧倒的な信頼感であり、その元に自分が居るという安心感であった。笑う人は笑うがいい、たとえシニカルに笑われても、いわゆるこの憲法の『戦争放棄・戦力不保持・主権在民・基本的人権尊重』は20世紀になってやっと高らかに謳われることになった、人類が明確に獲得した大きな価値であり大原則だと私は思うのである。

例えばこの憲法に於ける「基本的人権」。人権の思想の歴史はもう確かに西洋各国に古くから有る。いわば、西洋は人権思想の本場だ。しかし「権利の章典」、「人権宣言」などなど、あるいは「自由・平等・博愛」と美々しく謳われ、フランス革命、アメリカ独立宣言、等々人民の流血を経て獲得された人権の考えも、当時は新しかったとはいえ、私はまだまだ狭かったのではないかと思ったりするのである。なぜなら、彼らは美くしい人権の思想を持つところに達しながら、それ以後も事実は黒人奴隷の人権無視、人種差別・性差別などを国内外で行い、他の民族や他の国民を抑圧し侵略し、自分以外の人間の人権を事実として踏みにじってきたのであったし、20世紀に入っても歴史始まって以来かってなかった巨大な戦争を起こしてその行為を続けてきたのであった。つまりは彼らの言う人権とは、例えば狭い範囲のイギリス人の人権であり、フランス人の人権であり、また(黒人や原住民・有色人移民以外の)アメリカ人の人権であったり、あるいは階級的にはブルジョアジーとか市民階級の人権に過ぎなく、自分の人権だけは大切にするが、それ以外の諸国民・全民族・全階級・全人類の人権にまで考えが及んでていなかったと言える。ところが20世紀の前半だけで、戦争による死者の数が、それまでの数千万年間の間に生じた戦死者の総数を超えたという愚かな大変な犠牲を払った後で、さすがに人類は自らの愚かしさに気づかされたのでなかったか?もうコリゴリだという世界中の人々の厭戦の気持ちとやっと終わったとホッとした気持ちを経て、その只中から、新たに憲法を創る動きがこの極東のちっぽけな国で興り、いろんな思惑やかけひきややり取りもあったが、新しく創るという刺激の元、いわばグッドタイミング・グッドプレイス(好時良所)で、これからの世への希望や理想が湧き上がったのだ。この憲法に。私はそう思う。そんなことから、この憲法の基本的人権の思想はもはや今までの古い人権思想ではない。ましてや狭いニッポンジンの人権だけを謳っているのではない。憲法作成時の色んな人のその時の思い、希望や理想をはらんでもっと徹底して、全世界のすべての人々、西洋人だけでなく東洋の人も、白人も黒人も褐色人種も含んだあらゆる人々の人権を謳っているのだと思うのである。

この徹底した基本的人権と同じく、もう一つの重大な徹底主義というか、極限に行きついたものがこの憲法の重大なもう一つの柱、「戦争放棄・戦力不保持」なのだと思う。9条である。人類史上初めてなのである。いわば、「戦争のための武器武具を破棄します、したがって戦争をしませんし、戦争ができません」と一国が無防備で自らの体を投げ出したようなもので、こんな国家は歴史上かってなかった。大変な犠牲の後で、もうコリゴリという厭戦気分と平和を希求する世界中の人びとの前で、世界中でいの一番に極端と言ってもいい徹底した平和主義を宣言した、その勇気、この憲法のこの理想主義。私たちは、戦後の出発に当たってこの憲法に接して多くの人が感じた安堵、明るい未来が訪れる予感、理想を胸に持つときめき等々、感じたものは様々だったであろうが、そのことを思い返し、この憲法を迎えたものが決して反発や嫌悪、誹謗中傷など悪意に満ちたものでは無かったことを忘れてならない。この憲法のこんな“人類史的意味”に気付くとき、私はこの憲法を誇りに思う事こそすれ、情けないなどとは決して思えないのである(ところがどうだ、今やこの国の首相自身がそしてその周辺の議員たちがこの憲法は情けないものという固定観念を持たされる時代になってしまっているのだ。これでは彼らがよく言う、自虐史観ならぬ自虐憲法観ではないか?それは「憲法を尊重し擁護する義務」に違反するばかりか、国家目的をひっくり返す反逆になりかねないのである)。

ここまで書いて来て、私とはチョット違う部分もあるかもしれないが、私以上にこの憲法の本質について的確にとらえているなあと思われる記事に出会ったので引用する。コメント者は、作家の赤坂真理さんという方である。「私は憲法9条を手放しで評価してはいない。(中略)けれども、9条は保持されるべきだとも思う。敗戦国の民の「もう戦争はごめんだ」というはらわたからの実感と、占領者のある層にあった理想主義が、冷戦構造の中でぶつかり編まれた美しい詩。私は憲法9条を、そうとらえている。世界史上でも類を見ない、出会いとタイミングの奇跡。それを日本人が「受け入れることを選んだ」という事実。これは世界の人々に知られる価値がある。(後略)」(2014・10・15、朝日新聞)

ここで赤坂さんは“占領者のある層にあった理想主義”が、編み込まれたと書いているが、私はもう一人の別の作家のことも思いだす。古いものだが、武者小路実篤の作品に「人類の意志に就(つ)いて」という一著がある。向日性豊かなヒューマニスト、オプティミスト(楽天家)として有名な彼だが、彼によると人間というものは確かに愚かで醜い側面もあるが、人間の背後には“人類の意志”とでもいうものが働いていて、どういう風に働いているかはわからないとしても、“人類の意志”は人間が幸福になることを願い望んでいるのだというのである。“造物主の意志”、“神の意志”とでも言い換えることもできるかもしれないが、彼はいかにもヒューマニストらしく“人類の意志”という言葉を使う。さてその働いている具体相を、愚かな人間には見えも分かりもしないが、ただ、その意志に合った行動をすると人間は幸福を感じるようにも作られているんだという。例えば、人間にとってある意味やっかいな性欲という問題である。人間の幸福を願っているはずの“人類の意志”が、どうしてして青年たちを悩ませ困惑させ、そのことが原因で時には格闘もし死に至ることもあるほど強い厄介な性欲を与えてしまっているのか?ここで彼は言うのである。人類の意志は人間の幸福を願っているが、人間が絶滅してしまっては元も子もない。さてその人類が絶滅しないで存続するためには男女の婚姻ということが不可欠である。しかし、もし、男女が何らか別の面白いことに熱中したり、あるいは大して相手に関心を持たないように作られていたら、結局、人類は絶滅してしまうかもしれないではないか。そこで“人類の意志”はそのことを恐れるあまり、いついつまでも人類が存続することを望むあまり、両性それぞれに相手に魅かれあうよう、いささか強めに性欲というものを配合したのだ、というのである。しかも、男性には少しばかり強めに、、、というのである。性欲は悪いものではない、自然なものであり、厄介さのその中にも“人類の意志”の人間に対する善意が働いているというこの世界観、人生観、若き日これを読んだ時に、この一種ユーモラスな説に何だか安心させられホッとしたことを覚えている。が、さて、私は、この武者小路実篤の、人知では分からない所で秘かに人間たちの幸福を願っているという“人類の意志”という考え方をもって、日本国憲法というこんなにも前衛的な不思議なものが、どうして日本に生まれたのかを説明できないだろうかと思う。日本国憲法誕生の混沌たるあの時代に、あの歴史的変革期独特の雰囲気とそこに生きる人々の独特の心情の中で、立ち会った人々の上にこの武者小路の言う“人類の意志”とでもいうべきものが働いたのではなかったであろうか?人間たちの幸福と人類の永遠の存続を願って、、、、、、そんなことを思うのである。

※補足

①自虐憲法観から脱し、現憲法に誇りと自信を!!そして真の護憲活動を始めよう!

「日本国憲法をノーベル平和賞に」という話があったのは記憶に新しい。実際に〝候補“となった年度もあったように記憶する。一般に、「賞」というものが何事かを成し遂げた人間に与えられるのが通例であることを考えれば、極めて極めて珍しい話であった。もし受賞ということになれば一体誰が受賞式に臨むのか?国民を代表して安倍総理か?彼はむしろ現憲法は情けない憲法と思っていて、受賞不適であろう。日本国民に受賞させるといってもこの国民は必ずしも憲法の理念を世界的に広め、具体化する行動をするよりは、残念ながら先に述べたごとく、自ら〝肥え太る”事に忙しかった。他国が紛争の渦中にあってエネルギーをそこに注がざるを得ぬ間に、その紛争のかげで経済的に儲ける事ばかりしてきたようなところがあると言えないだろうか?さてそれでは誰が受賞をするのかといえば、やはり憲法自身が受賞するしかないのかもしれないが、それはちょっと考えにくいことであり、何ともユニークな候補だ。しかし、この話が湧きおこり、世界的にも話題となり、候補にもなるということ自体が、世界的な評価として、この憲法の希少さ、貴重さ、斬新さ、前衛的つまりは価値高き憲法ということを示している。だが、(不思議な事にまさに自虐的なのであろうか)当の日本人に於いては必ずしも評価されているとは言えないのは周知の事実である。我々はもっと、それこそ(改憲派の人々の中で相手を批判する為に使われること多い言葉をそのまま使えば)“自虐的”たることをやめて志操高きこの憲法に自信を持っていいと思うのである。それにしても、本当に覚悟を新たにせねばならないのは、これから我々は、もっともっと受賞するに恥ずかしくないだけの、世界に平和を広めていくための具体的活動を、貢献活動を市民レベルで積み重ねていかねばならないということではないか?その為には我々自身の中の、自分のみ良かれという醜いエゴイズムを克服しなければならないのだと思う。改憲論争を好機として国民各層がそのことの重要性に気付き、理想を掲げて具体的に行動をしていくという事が本当は肝要なのだと思う。その意味で、今までは、国民の意識の中に於いて平和憲法は単に掲げられていただけであって、これからが本当の護憲活動であり、平和憲法は、「日本国憲法」は、本当はこれから始まると言ったほうがいいかもしれない。つまり世界の平和のために我々日本人は体を駆使して、“立ち働く”ということである。

★I CAN「核兵器禁止国際キャンペーン」はノーベル賞をもらいました。その裏には世界終末時計がトランプ政権誕生・政策で1分進められて2分前になった世界破滅の危機の自覚が世界中にあるのでしょう。トランプはなんと!一人で核兵器使用を決め執行できますし、その国は海外基地を1千程持ち、国内では銃による死者を年に万単位で出し、乱射事件が絶えません。最近の学校乱射事件で犠牲になった若者達・親達・先生達が彼に会って「もう終わりにしてくれ」と嘆願したら彼は学校は銃で武装したらと言います。銃や武備や核兵器を増やせば安全になるでしょうか、正反対でしょう。九条はその正道です。しかし、銃を増やせばますます事件が増えるのではないでしょうか?そんなアメリカで、今、戦争の制度は正当化できないとして戦争廃止・基地廃止・民間平和条約などを推進する団体ができて活動し始めています。大和の郷里(クニ)(権力者の国家ではありません)の我々は「平和憲法」を世界の憲法にするよう立ち上がり働くべきではないでしょうか?

添付書類:

ノンポリ市民の憲法論

フェイスさん*、お出で!私達こんなに大勢があなたに会いたがっているの!Come on Feis! So many of us want to meet you!

 

ワシントンポスト論説まんが 「英雄が歓迎される」絵:ピア・グエッラ(カナダ在住)
The “Hero’s Welcome” editorial cartoon by Canadian artist Pia Guerra. (Courtesy of Pia Guerra)

As news of the deadly mass shooting at Marjory Stoneman Douglas High School in Parkland, Fla., unfolded last week, Pia Guerra, a 46-year-old Vancouver-based artist, felt helpless. She couldn’t bring herself to go to sleep, so she began to draw.

About 6 a.m., she came up with an idea. One of the first victims identified among the 17 people killed was Aaron Feis, an assistant football coach and security guard. Feis was shot after reportedly throwing himself in front of students during the rampage. Guerra was moved by the thought of this heroic man, the father of a young child, standing in front of bullets for students.

“It’s not often that an image pops in your brain and you feel a lump in your throat,” Guerra told The Washington Post.

“I need to get this down before time dilutes it,” she recalled thinking as she began to sketch the image.

Around midday, Guerra posted her editorial cartoon on Twitter. She called it “Hero’s Welcome.”

The cartoon portrays a young freckle-faced girl reaching out to hold Feis’s hand. “Come on Mister Feis!” the girl is saying. “So many of us want to meet you!”

Behind the girl stands a massive crowd of young children and a few adults, looking to Feis with wide eyes. They look solemn and innocent. Two of the children are waving. The crowd, Guerra says, represents the children and adults who have been killed in mass school shootings.

 0:46
*アーロン・フェイス、パークランドのマージョリ・ストーンマン・ダグラス高校で生徒たちを庇って打たれたフットボールコーチ助手 (手を引く少女他殆どはサンデイー・フック小学校で殺された犠牲者達28人、コネチカット州ニュータウンで2012年)
Football coach killed protecting students in Parkland shooting

Aaron Feis, an assistant football coach and security guard, was fatally shot after throwing himself in front of students at Marjory Stoneman Douglas High School 

More than 200 people have been killed in mass school shootings in the United States since the mid-1960s, according to a Washington Post tally. On Feb. 14 in Florida, authorities say, a gunman entered the high school and fired his AR-15 assault-style rifle, killing 14 students and three staff members. Nikolas Cruz, 19, a former student at the school, has been charged with 17 counts of premeditated murder.

Most of the children and teachers in Guerra’s cartoon, including the girl reaching out to Feis, represent victims killed in the Sandy Hook Elementary School shooting in Newtown, Conn., in 2012, which left 28 dead.

Guerra’s cartoon evoked striking responses across social media. By Tuesday morning, the image had been retweeted more than 18,290 times, and Guerra’s Twitter account had been overwhelmed with emotional messages.

“I saw this earlier, and I sat in front of my students and cried,” one teacher tweeted on Friday. “And then I showed it to them, and they cried, too. Very powerful. The most beautiful thing I’ve ever seen.”

“When I saw your drawing, I cried hysterically for a half-hour and I couldn’t stop,” another person posted on Twitter. Guerra even said she heard from a parent of a girl who died in the Sandy Hook massacre.

Guerra had offered the cartoon to the daily comics publication the Nib, for which she is a regular contributor. But the Nib ended up choosing a different cartoon of Guerra’s for publication, so she chose to share “Hero’s Welcome” on social media.

To many, Guerra said, the cartoon depicted the children and teachers welcoming Feis to heaven. Guerra knew before she posted the image that many may interpret it in a religious way, and “that’s fine,” she said. But that was not her intention.

Guerra describes herself as an atheist. After a tragedy, she said, she grows tired of always hearing about angels and heaven and the idea that the dead all end up in a better place.

ピア・グエッラ(写真は本人提供)
Pia Guerra. (Courtesy of Pia Guerra)

“Wherever all these wonderful people are, they’re not here,” she said. But the message, she said, “is beyond that.”

She wanted to show the immense collective magnitude of the loss, a visual tally of just how many people have been killed in mass school shootings. She also wanted to evoke the nature of the youngest victims of these massacres — the wide-eyed, gentle essence of a child.

“This is who they are,” she said in a phone interview, her voice catching. “This is all that we lost.”

The simplicity of the cartoon, she said, means it may carry different meanings for different people. “When you leave something open enough to interpretation, more people can find something in it,” she said.

In addition to significant praise, Guerra’s cartoon also drew a wave of criticism for seemingly portraying only white children and adults, despite the fact that many people of color have died in these shootings.

“That was a direct result of rushing and not paying more attention to the makeup of the crowd, and maybe making a point about how these things always seem to happen in white suburbia and totally mucking it up,” Guerra said. She lamented the lack of representation in the image.

“I’m taking the note and I promise to do better,” said Guerra, whose father is Chilean and mother is Finnish. She was born in New Jersey and moved to Canada when she was 6 years old.

Guerra co-created the science fiction comic book series “Y: The Last Man” alongside Brian K. Vaughan. It began publication in 2002. But since the 2016 election, her cartoons have focused predominately on President Trump. It’s her way of “venting,” she said. One of her most widely shared cartoons, from January 2016, depicted Trump as a child sitting on the lap of Stephen K. Bannon, then the White House chief strategist.

She is accustomed to provoking a range of reactions with her cartoons — usually anger, frustration or humor. But “Hero’s Welcome,” she said, was entirely different.

“It’s more emotional, it’s more personal … a gut reaction,” she said. “This is a whole other level.”

Guerra plans to continue to create images related to last week’s shooting.

“We should be engaged in this,” she said. “We should use our voices … whatever it is we have to amplify what’s important to us.”

 3:06
Florida JROTC students share memories of shooting victims

Madison Geller, 17, and Angelyse Perez, 18, remember JROTC cadets who died after a gunman opened fire at Marjory Sonteman Douglas High School on Feb. 14. 

「戦争はそもそも正当化できるか?」討論ビデオ#2

「戦争はそもそも正当化できるか?」討論ビデオ#2

Video of Debate #2: Is War Ever Justifiable?

デーヴィッド・スワンソンによる

By David Swanson
http://davidswanson.org/video-of-debate-2-is-war-ever-justifiable/

私達の最初の討論は2月12日でした。これは私達の第二回目のもので、2018年2月13日メンノナイト大学で行われ、リサ・シャーチさんが司会者でした。

Our first debate was February 12th. This was our second, held February 13, 2018, at Eastern Mennonite University, moderated by Lisa Schirch.

Youtube.

Facebook.

発表者二人の履歴

The two speakers’ bios:

ピート・キルナーは歩兵として軍隊でと合衆国軍学校(ミリタリー・アカデミーで28年以上仕えた作家であり軍事倫理家です。彼は戦闘指導部の研究をする為にイラクとアフガにスターンへ数回派遣されています。彼はウェスト・ポイントの卒業生ですが、ヴァージニア・テックから哲学修士号とペンシルヴァニア州立大学から教育博士号をもらっています。

Pete Kilner is a writer and military ethicist who served more than 28 years in the Army as an infantryman and professor at the U.S. Military Academy. He deployed multiple times to Iraq and Afghanistan to conduct research on combat leadership. A graduate of West Point, he holds an MA in Philosophy from Virginia Tech and a Ph.D. in Education from Penn State.

デーヴィッド・スワンソンは著述家、活動家、ジャーナリスト、ラジオ・ホストです。彼は戦争超越世界団体の代表です。スワンソンの本には「戦争は嘘っぱち」と「戦争は決して正当化できない」があります。彼は2015年、2016年、2017年のノーベル平和賞に指名されていました。彼はヴァージニア大学から哲学修士号をもらっています。

David Swanson is an author, activist, journalist, and radio host. He is director of WorldBeyondWar.org. Swanson’s books include War Is A Lie and War Is Never Just. He is a 2015, 2016, 2017 Nobel Peace Prize Nominee. He holds an MA in philosophy from UVA.

聴衆への討論の影響についての調査に対する総合的努力はされませんでした。あなたの反応を、どうぞ下のコメント欄へお示しください。

No comprehensive effort was made to survey the audience as to the debate’s impact. Indicate your response, please, in the comments section below.

下記が私が討論に用意した意見です:

These were my prepared remarks:

この討論を主催して頂き、又お招き頂き有難うございます。ピートと私は昨夜ラドフォード大学で討論しました。そのビデオはdavidswanson.org. にあります。そして、この国の大多数が賛成しているように私達も軍事支出を削減すべきだということに同意しました。私は順次減らしてゼロにするよう望んでいます。ピートがそれをどれ位にするのを望むか判りませんが、ゼロではありません。しかしながら、私は軍事支出が意味のある程減らされれば逆軍事競争を皆さんが見て、海外で脅威と敵意が減り、結果的により多くの公衆が更にそれを減らすことを望むことは確実だと思います。そうなれば、ある意味で、このような討論をする必要もないでしょうし、私達が必要なのは、民主主義の名義で戦争を行わず、来る年も来る年も軍事主義に殆ど他の一切のものから更に金をつぎ込む政府ではなく、唯民主主義だけが必要なのです。ですが、合衆国の寡頭政治に影響を与えるのに充分強力な運動を構築する為にこのような討論が本当に必要なのであり、戦争が決して正当化されてはならないというはっきりした理解が必要であり、それ故正当化され得るかもしれない戦争を準備する為に年間一兆ドルもダンプカーで棄てるようにつぎ込むのを止める必要があるのです。結局、その金の3%で地球上の飢餓を終わらせることが出来、1%で清浄な水の不足を終わらせることができ、それより大きな額では(気候変動を起こす原因となるのではなく、むしろ)気候変動を方向転換させる好機を私達に与えてくれるのです。ですから、戦争制度こそが実際の戦争よりも遥かに多くのものを殺しているのです、それで何時の日か正義の戦争があるかも知れないと人々が空想する限りそれを減らす力を作り上げられないのです。

Thanks for hosting this and being here. Pete and I debated last night at Radford. A video is at davidswanson.org. And we agreed, as the majority of this country has agreed for years, that military spending should be reduced. I want it gradually reduced to zero. I don’t know where Pete wants it, but he doesn’t want it at zero. However, I am certain that if military spending were significantly reduced, you would see a reverse arms race, a reduction in threats and hostility abroad, and consequently greater public desire to go on reducing it further. So, in a sense, we don’t need this debate, we just need democracy rather than wars in the name of democracy and a government that goes on year-after-year moving more money out of almost everything else and into militarism. But to build a movement powerful enough to influence the U.S. oligarchy we do need this debate, we do need a clearer understanding that no war can ever be justified, and therefore that dumping over a trillion dollars a year into preparing for a possible just war has to stop. After all, 3 percent of that money could end starvation on earth, 1 percent could end the lack of clean water, a bigger chunk could give us a chance against climate change (rather than serving as the leading cause of climate change). So it’s the institution of war that kills far more than the actual wars, and we can’t build the strength to reduce it as long as people imagine there might be a just war some day.

ピートと私はまた多数の戦争が不正義であったということについて同意しました。私は彼が正義と主張する戦争が実際は不正義であったことをその範囲で又それをを離れて少し話しましょう。ですが、正義の戦争の重荷はそれよりもっと重大だと思います。戦争が害よりも善であるには、何百万人の命を無駄にするよりも救い改善することが出来る事から資金を逸らすことによると同様に、不正義の戦争と認められているものの損害を遥かに超える害よりも、善を為すべきだと思います。戦争は制度です、だから戦争が正当化される為にはその制度によってなされる損害を正当化しなければなりません。

Pete and I also agreed that numerous wars have been unjust. I’ll talk a little about why the wars he claims were just were actually unjust on their own terms and in isolation. But I think the burden for a just war is even higher than that. I think a war, to do more good than harm, has to do so much more good than harm as to outweigh the damage done by all the admittedly unjust wars as well as by the diversion of funding from where it could save and improve millions of lives rather than wasting them. War is an institution, and for any war to be justified it has to justify all the damage done by the institution.

しかしピートは二つの戦争を正義とし二つを不正義としましたが、彼が正義・不正義の名札を貼らなかった戦争全てに私達が向かう時どっちがどっちかを判断する方法を私達に何も示しませんでした。それは彼が参加したアフガニスターンとイラクの戦争を含みます。2006年ピートはイラクに対して為された戦争が沢山の善を為したと言いました。私は彼に繰り返しどんな善い事をしたのかを尋ねましたが何の答えも貰っていません。彼は2003年に始められた戦争は実際「賢しこくなく」、「間違い」と呼びました。もしあなたが、それは「社会絶滅」(社会の完全破壊を意味する)という言葉を使うのを根本的に増す戦争だと呼ぶのなら「悪」、「不快」、「遺憾」といったもっと厳しいもので名前をつけるにはどれだけの殺人レベルが必要なのか私には判りません。

But Pete only named a couple of wars just and a couple unjust without ever giving us a method that would allow us to determine which are which when we turn to all the wars he didn’t label one way or the other. Those include wars he took part in: Afghanistan and Iraq. In 2006 Pete claimed the war on Iraq was doing Iraq lots of good. I asked him repeatedly what that good was and never got an answer. He did call the 2003-begun war “imprudent” and a “mistake.” If that’s what you call a war that radically increases the use of the term sociocide (meaning the total destruction of a society), I wonder what level of slaughter is needed before a war gets labeled something harsher like “bad” or “unpleasant” or “mildly regrettable.”

ピートが不正義と同意した現在の戦争はイェーメンでの合衆国とサウジのものでした。しかしピートは合衆国兵士が戦争に参加させる不道徳で不法な命令を拒否するように促す私に同意するのでしょうか?それは合衆国軍は任意(志願)だと呼ぶことの多くの問題の中の一つを暴露するのではないでしょうか?それ以外で任意でしたことは、それを止めることを許されています。兵士達が実行すると思われないような道徳を教えるのにどんな意味がありますか?

One current war that Pete agreed was unjust was the U.S.-Saudi war on Yemen. But will Pete join me in urging U.S. troops to refuse the immoral and illegal order to participate in that war? Isn’t that a moral duty comparable to that of encouraging participation in supposedly just wars? Doesn’t it expose one of the many problems with calling the U.S. military voluntary? Anything else you’re doing voluntarily you’re permitted to quit doing. What is the point of teaching soldiers morality if they aren’t supposed to act on it?

ピートは何が正義の戦争かを説明したと言うでしょうが、それは攻撃されたからする戦争だと言うでしょう。それを除いて、彼は合衆国は攻撃されていないのにこれら全ての戦争を戦って来たを直ちに認めるでしょう。だから、彼は実際に意味するのは、他の誰かが攻撃されたので、合衆国が寛大と助けるというそぶりで介入が許されるというのでしょう。しかし、原則として、この介入は有難いと思われず、要請されたものでなく、実際は助けにならず、逆に破滅的に反生産的であり、本当は不法なのです。誰が死亡したのでしょう、そして誰が合衆国を世界の警察官にしたのでしょうか?誰でもありません。しかし何十万人という人々が警察行為によって殺されたのです。2013年ギャラップ社が世論調査した諸国の公衆は合衆国が世界の平和への最大の脅威であると呼んでいます。ピュー社の2017年のものではそういう見解は更に増えています。何故かを把握しようとするなら、米国以外のどこかの国が良心から一時にいくつかの国々を爆撃したと想像してみて下さい。「ごろつき国家!」とか「戦犯!」とかの悲鳴があらゆるニュース配信会社から山彦になって響いて来るでしょう。

Pete will say that he has explained what a just war is, it’s a war fought because you’ve been attacked. Except that he’ll then readily admit that the United States has been fighting all these wars without having been attacked. So what he actually means is that someone else has been attacked, allowing the United States to step in as a gesture of generosity and assistance. But, as a rule, this stepping in is not appreciated, not requested, not actually helpful, on the contrary catastrophically counterproductive, and also, by the way, illegal. Who died and made the United States the world’s policeman? Nobody. But millions of people have been killed by the policing. The publics of most countries polled in 2013 by Gallup called the United States the greatest threat to peace in the world. Pew found that viewpoint increased in 2017. To begin to grasp why, just imagine if some other country began bombing several nations at a time out of the goodness of its heart. The shrieks of “Rogue Nation!” and “War Criminal!” would echo across every corporate news outlet.

合衆国がロシアにしたようにどこかの国が合衆国を標的にしたミサイルをカナダかメキシコに設置したらと想像してみて下さい。彼らがこれは防衛だと正当化し、それを証明する国防総省によってされたと想像してみてください。ウラジミール・プーチンがジャック・マットロック合衆国大使にロシアの近くの合衆国のミサイルについて尋ねると、それはアメリカの純粋に就職計画だから心配するなとマットロックがプーチンに語っているビデオがあります。逆の立場になったら私達をそんな回答が満足させるでしょうか?マサチューセッツ大学、アムハースト校が行った調査は軍事支出は我々の職を犠牲にして増やすものではないことを明らかに示しているのは気にしないで。

Imagine if some country put missiles just inside Canada and Mexico aimed at the United States, the way that the United States does to Russia. Imagine if they justified this as defensive and pointed out that it was being done by their Defense Department which proved it. There’s a video of Vladimir Putin asking former U.S. Ambassador Jack Matlock about U.S. missiles near Russia, and Matlock tells Putin not to worry because the missiles are purely a jobs program for back in the states. Would such an answer satisfy us if the case were reversed? Never mind that the studies done by the University of Massachusetts-Amherst show quite clearly that military spending costs us jobs rather than adding to them.

ピートが正義の戦争だと言う比較的最近の合衆国の戦争の一つは、私達が資金移転、核黙示録(破滅)、戦争機械の環境損害、政治的文化的損害、保護よりむしろ反生産的な危機化などをプラスしなかったと同意するあらゆる合衆国の戦争による損害を多分上回らないでしょうが、正にその戦争について簡単に見てみましょう。

Although the one relatively recent U.S. war that Pete says was just cannot possibly outweigh the damage done by all the U.S. wars we agree were not plus the diversion of funding, the risk of nuclear apocalypse, the war machine’s environmental damage, the political and cultural damage, the counterproductive endangerment rather than protection, etc., let me look at that one war very briefly.

その戦争とは湾岸戦争です。合衆国はサダム・フセインを権力の座につけ何年にもわたって攻撃的な対イラン戦争を応援したことを思い出して下さい。ヴァージニア州のマナッソーにあるアメリカ型文化コレクションという会社がサダム・フセインに炭疽の生物原料を供給していました。後になってはじめて、イラクは有意な生物学的、科学的、まして核兵器を全く持っていないことが明らかになった時に、イラクが新しい膨大な量のこれらのものを持っているという素振りで、99.9%の人々がドナルド・ラムズフィールドと決して握手などしなかった人間で満ちた国家を爆撃するどうにかした口実になったのです。だが、初めに湾岸戦争がありました。どの戦争とも同じように、暗い小路でズ時強盗とかピートが使いたがる比喩の接近も急迫の気配もない脅迫の期間で始まりました。実際、この引き伸ばされた特別の期間に大衆宣伝会社は少女に、イラクは赤ん坊を保育器から取り出していると議会に証言するように、練習させていました。そしてこの間にイラクは、もしイスラエルが不法に占領しているパレスチナ領から撤退するなら、自分もクウェートから撤退すると提案し、またイラクは大量殺戮兵器のない中東にする提案をしていました。多数の政府と、決して間違わないと想像された、法王と呼ばれる御仁も合衆国に平和的解決を追求するように促しました。合衆国は戦争の方を好みました。人間の自己防衛という関係のない比喩の更なる奇妙さで合衆国はこの戦争で撤退中の何万人というイラク人を殺しました。

This is the Persian Gulf War. Recall that the United States had worked to bring Saddam Hussein to power and had armed and aided him in an aggressive war against Iran for years. A company called American Type Culture Collection in Manassas, Virginia, supplied the biological materials for anthrax to Saddam Hussein. Only later, when it was clear Iraq had no significant biological or chemical much less nuclear weapons, the pretense that it had new vast stockpiles of them was somehow a justification to bomb a nation full of human beings, 99.9 percent of whom had never shaken hands with Donald Rumsfeld. But first came the Gulf War. Like every war, it began with a period of threats, which bore no resemblance to the immediacy and urgency of a mugging in a dark alley or similar analogy that Pete likes to use. In fact, during this particular drawn-out period, a public relations company coached a girl to lie to Congress that Iraq was taking babies out of incubators. And meanwhile Iraq proposed to withdraw from Kuwait if Israel would withdraw from Palestinian territories illegally occupied, and Iraq proposed a weapons of mass destruction free Middle East. Numerous governments and even a guy who’s supposedly never wrong called The Pope urged the U.S. to pursue a peaceful settlement. The U.S. preferred war. At further odds with irrelevant analogies to personal self-defense, the U.S. in this war killed tens of thousands of Iraqis while they were retreating.

トランプ以外の最近の大統領が軍事パレードを何故提案しないかお分かりでしょうか? 湾岸戦争以来の合衆国の戦争のどれも「勝利」の振りをする事が出来るとは程遠いものだからです。重要なことは、その後でパレードをしたいと思う勝利が必要なのではなく、勝利などというものがないということですー湾岸戦争も勿論勝利ではありませんーそして、私達すべてが「火炎と憤怒」になる前にその基本的な真実を知る必要があるのです。終わることのない爆撃と制裁措置(マドレーン・オルブライトが五十万人の子供たちを殺すことは正当化できると言ったのを誰か憶えていますか?)、そして新しい戦争、サウジアラビアでの兵士達、サウジアラビアからの兵士撤退を目的にしたテロ、(9・11は何だったと思いますか、実際?)、中東の更なる軍事化、退役軍人達の恐ろしい諸々の病気、そして湾岸戦争に続く他のすべての恐ろしい事は湾岸戦争が「勝利」であったなどという考えを奇怪なものにします。湾岸戦争の退役軍人チモシー・マックベイがオクラホマ市の建物を爆破した言い訳をして何と言ったか知っていますか?完全な正義の戦争論者とそっくりに、彼は「より崇高な目的を持っていた」と言ったのです、だからその建物とその中にいた人達は単に付随的損害だったのです。そして、あなたは、人々がその列に加わらないのは何故か分かりますか?何故ならマックベイはテレビ網を効果的に制御できなかったからです。

Do you know why recent presidents other than Trump have not proposed big military parades? It’s because none of the U.S. wars since the Gulf War has been able to even remotely pretend to a “victory.” The point is not that we need a victory after which we should want a parade, but rather that there is no such thing as a victory — the Gulf War wasn’t one either — and we need to recognize that basic truth before we’re all turned into fire and fury. The endless bombings and sanctions (who remembers Madeleine Albright saying that killing a half million children was justified?), and the new wars, and troops in Saudi Arabia, and terrorism aimed at getting troops out of Saudi Arabia (what do you think 9/11 was, exactly?), and the further militarization of the Middle East, and horrible illnesses among veterans, and all the other horrors that followed from the Gulf War render grotesque the notion that it was a “victory.” Do you know what Gulf War veteran Timothy McVeigh said to excuse blowing up a building in Oklahoma City? Like a perfect Just War Theorist, he said that he had a higher purpose, so that the building and the people killed in it were merely collateral damage. And do you know why people didn’t fall for that line? Because McVeigh did not have effective control of any television networks.

ところで、私達はトランプに、彼が戦争を止める度にパレードをする、という提案をすべきだと、固く信じているのです。

By the way, I do believe we should offer Trump a deal: one parade for each war he ends.

ピートの正義の戦争の二番目の候補はボスニアです。全ての戦争はヒトラーを持つようにトニー・ブレアはこの度のヒトラーをスロボダン・ミロシェヴィッチにしました。崇敬できる指導者からは遥かに遠いとは言え、彼は嘘の対象になりましたが、戦争は彼を放逐することに失敗しました、創造的で非暴力的なオトポル(抵抗)運動は後に彼を転覆させました、そし国連戦犯法廷は後になって効果的に死後になって他の被告の長い宣告(文)の中で彼に対する告訴を免除しました。合衆国はユーゴスラビアの分割の為に精力的に働きかけて関係者間の交渉して得た合意をわざと阻止しました。当時の国連総長のブルトロス・ブルトロス・ガリは「クリントン政権は、職についた最初の数週間のうちに、セルビア人に統一国家の領域の43%を与える筈のヴァンス-オーウェン・プランに死の打撃を処方した。1995年デイトンでその政権は、更に約三年の恐怖と殺戮の後になって、二つの実体に分割された国家にいるセルビア人に49%を与える合意を誇りにした」と言いました。

Pete’s candidate number 2 for a Just War is Bosnia. As every war has a Hitler, the man Tony Blair labeled Hitler this time was Slobodan Milosevic. While very far from an admirable leader, he was lied about, the war failed to overthrow him, the creative nonviolent Otpur movement later did overthrow him, and the UN’s criminal tribunal later effectively and posthumously exonerated him of his charges in a lengthy ruling on another defendant. The U.S. had worked vigorously for the breakup of Yugoslavia and intentionally prevented negotiated agreements among the parties. Then-U.N. Secretary General Boutros Boutros-Ghali said, “In its first weeks in office, the Clinton administration has administered a death blow to the Vance-Owen plan that would have given the Serbs 43 percent of the territory of a unified state. In 1995 at Dayton, the administration took pride in an agreement that, after nearly three more years of horror and slaughter, gave the Serbs 49 percent in a state partitioned into two entities.”

三年後にコソボ紛争がやって来ました。合衆国は、クリミアのように、ではなく、コソボは分離脱退の権利があると信じていました。しかし合衆国は、クリミアのように、人が殺されずにはそれがなされることを欲してはいませんでした。1999年6月14日発行の「ネーション」紙はジョージ・ケニー前国務省ユーゴスラヴィア事務官は(筆者)「マデレーン・オルブライト国務長官と定期的に旅行していた弾劾不可能な報道情報源はランブイエ会談での奥深い裏の秘密を(守るよう)記者達に誓わせて合衆国は「セルビアが受諾できるより高い障害棒ををわざと設けた」と自慢しました。上院共和党員の外交政策補佐官ジム・ジェートラは1999年5月18日ワシントンD.C.にあるケイトー研究所での講演で「門外不出で、上級政権官吏がランブイエでメデイアに」次のように「語った、我々はセルビア人が応ずることができないような高い障害棒をわざと設けた。彼らはいくらか爆撃する必要がある、といったものを受け取る」と「権威ある筋から得た」と報告しています。「報道の公正と正確」のある会見でケニーとジェートラの両者は「これらは合衆国官吏と話した記者達が実際の引用を文字にしたものだ」と主張しているのです。

Three years later came the Kosovo war. The United States believed that, unlike Crimea, Kosovo had the right to secede. But the United States did not want it done, like Crimea, without any people getting killed. In the June 14, 1999 issue of The Nation, George Kenney, a former State Department Yugoslavia desk officer, reported: “An unimpeachable press source who regularly travels with Secretary of State Madeleine Albright told this [writer] that, swearing reporters to deep-background confidentiality at the Rambouillet talks, a senior State Department official had bragged that the United States ‘deliberately set the bar higher than the Serbs could accept.’ The Serbs needed, according to the official, a little bombing to see reason.” Jim Jatras, a foreign policy aide to Senate Republicans, reported in a May 18, 1999, speech at the Cato Institute in Washington that he had it “on good authority” that a “senior Administration official told media at Rambouillet, under embargo” the following: “We intentionally set the bar too high for the Serbs to comply. They need some bombing, and that’s what they are going to get.” In interviews with Fairness and Accuracy in Reporting, both Kenney and Jatras asserted that these were actual quotes transcribed by reporters who spoke with a U.S. official.

国連は1999年の合衆国とそのNATO連盟国がセルビアを爆撃することを認めませんでした。合衆国議会も認めませんでした。しかし、合衆国は多数の人々を殺し、更に多くの人々を傷つけ、市民インフラや病院やメデイアの情報提供機関を破壊し、難民危機を造成した大量爆撃キャンペーンに従事しました。その破壊は嘘、デッチアゲ、残虐行為の誇張によって為され、時間転倒の自分の攻撃が生み出した、暴力への報復であると正当化されました。

The United Nations did not authorize the United States and its NATO allies to bomb Serbia in 1999. Neither did the United States Congress. The U.S. engaged in a massive bombing campaign that killed large numbers of people, injured many more, destroyed civilian infrastructure, hospitals, and media outlets, and created a refugee crisis. This destruction was accomplished through lies, fabrications, and exaggerations about atrocities, and then justified anachronistically as a response to violence that it helped generate.

爆撃の前の年に2千人が殺されましたが、その大半はCIA(米国中央情報機関)に支援されたコソボ解放軍ゲリラによって殺されましが、彼らは西欧の人道戦士達に訴えるようにセルビアの応戦の為の挑発を狙ったものでした。同時に、NATO同盟国であるトルコがその80%は米国から来た武器で更に大きな残虐行為をしました。しかし、ワシントンはトルコとの戦争を欲していなかったので、その残虐行為についてのプロパガンダ・キャンペーンは構築せず、かえってトルコへの武器輸送を増やしました。それと対照的に、ナチのホロコーストになぞらえた誇張された仮想の残虐行為によるコソボについての巧妙なプロパガンダ・キャンペーンが確立され、それはそれに続く諸戦争に受け継がれました。鉄条網越しの痩せた男の写真が終わることなく繰り返し報道されました。究明ジャーナリストのフィリップ・ナイトリーは鉄条網越しの者は多分報道員と写真家であり、写真に写された場所は、醜いながら、痩せた男の隣に太った男が立っているのを含めて人々が自由に立ち去れる避難民キャンプであろうと決定しています。実際残虐行為はありましたが、その殆どは爆撃の後であり、その前ではなかったのです。殆どの西欧の報道はその時系列を逆にしています。

In the year prior to the bombing some 2,000 people were killed, a majority by Kosovo Liberation Army guerrillas who, with support from the CIA, were seeking to incite a Serbian response that would appeal to Western humanitarian warriors. At the same time, NATO member Turkey was committing much larger atrocities, with 80% of their weapons coming from the United States. But Washington didn’t want war with Turkey, so no propaganda campaign was built around its crimes; instead weapons shipments to Turkey were increased. In contrast, a slick propaganda campaign regarding Kosovo established a model that would be followed in future wars, by connecting exaggerated and fictional atrocities to the Nazi holocaust. A photo of a thin man seen through barbed wire was reproduced endlessly. But investigative journalist Philip Knightly determined that it was probably the reporters and photographers who were behind the barbed wire, and that the place photographed, while ugly, was a refugee camp that people, including the fat man standing next to the thin man, were free to leave. There were indeed atrocities, but most of them occurred after the bombing, not before it. Most of Western reporting inverted that chronology.

昨夜ピートは1967年のイスラエル6日戦争をイスラエル側からは典型的に正当化できる戦争であったとしました。その戦争の人気英雄であるイスラエルの将軍マッテイ・ペレドの息子ミコ・ペレドは6年前に次のように書いています:

Last night Pete also labeled the Israeli Six Days War of 1967 as the quintessentially justifiable war on the part of Israel. Israeli General Matti Peled, popular hero of that war, has a son named Miko Peled who wrote this six years ago:

「1967年に、今日と同様に、イスラエルの権力中枢はIDF(イスラエル国防軍)上層指揮部と議会で会った。1967年6月2日両派は国防軍司令部で会合した。軍部招待側は概して注意深く鳩派の首相レヴィー・エシコールに後に一般に「将軍達のクー(デター)」と呼ばれる程の好戦的な姿勢で挨拶した。私がイスラエル陸軍書庫で見つけたその会議の記録は、将軍達がエシコールにエジプト人達は前面的戦争に備えるには18ヶ月から2年必要だろうから、今こそ先制攻撃をする時だと明確にしたことが、明かされた。私の父はエシコールに「ナセルは議会が躊躇しているのを計算して準備の出来ていない陸軍を前進させています。あなたが躊躇していたら彼を有利にします。」と言った。・・・会議中には脅威については何も語られず、掴むべき「好機」のことのみが語られた。直ぐに議会は陸軍の圧力に屈して、あとは、彼らが言うところの、歴史である。」

“In 1967, as today, the two power centers in Israel were the IDF high command and the Cabinet. On June 2, 1967, the two groups met at IDF headquarters. The military hosts greeted the generally cautious and dovish prime minister, Levi Eshkol, with such a level of belligerence that the meeting was later commonly called ‘the Generals’ Coup.’ The transcripts of that meeting, which I found in the Israeli army archives, reveal that the generals made it clear to Eshkol that the Egyptians would need 18 months to two years before they would be ready for a full-scale war, and therefore this was the time for a preemptive strike. My father told Eshkol: ‘Nasser is advancing an ill-prepared army because he is counting on the Cabinet being hesitant. Your hesitation is working in his advantage.’ . . . Throughout the meeting, there was no mention of a threat but rather of an ‘opportunity’ that was there, to be seized. Within short order, the Cabinet succumbed to the pressure of the army, and the rest, as they say, is history.”

18ヶ月先の危険によって正当化された所謂先制大量殺戮は不法な民族全滅的占領になりますが、貴方が誰かがハリソンバーグで暗い小路で辻強盗に直面したらすべき事とは何の類似性もありません、と私は提言します。辻強盗被害者も医者も(よそ者でも救いの手を延べる)「良きサマリタン」も彼らの行動を戦争の比喩で正当化することは決してしないでしょうから、私達も彼らに同様の礼儀をもって対して、そんなに無関係な努力を比喩にして正当化しないようにしてはどうですか?

A so-called preemptive mass-slaughter, followed by decades of illegal genocidal occupation, justified by a danger 18-months away, I propose, bears zero similarity to what you should do if you see someone confronted by a mugger in a dark alley in Harrisonburg. As mugging victims and surgeons and good Samaritans never justify their behavior with war analogies, how about we do them the same courtesy and not justify war with analogies to such unrelated endeavors?

2011年にはNATOがリビアを爆撃できるように、NATOによってアフリカ連合はリビアに平和計画を提示するのを妨げられました。

In 2011, so that NATO could begin bombing Libya, the African Union was prevented by NATO from presenting a peace plan to Libya.

2003年には、フセインが去るという申し出をしたというブッシュ大統領のスペイン大統領に語った情報も含めて多数の情報によるとイラクは無制限の査察に応ずる用意があり、その大統領が去ることさえ用意をしていました。

In 2003, Iraq was open to unlimited inspections or even the departure of its president, according to numerous sources, including the president of Spain to whom U.S. President Bush recounted Hussein’s offer to leave.

2001年にアフガニスターンはオサマ・ビン・ラデンを裁判の為に第三国に引き渡す用意がありました。

In 2001, Afghanistan was open to turning Osama bin Laden over to a third country for trial.

歴史を遡りましょう。合衆国はヴェトナムに対する平和提案を妨害しました。朝鮮戦争の前にソ連は平和交渉を提案しました。スペインは米西戦争の前に合衆国船メイン号沈没が国際仲裁になることを望みました。メキシコはその北半分の譲度の交渉を望んでいました。どの場合でも、合衆国は戦争を選んだのです。平和は注意深く避けるべきだったのです。

Go back through history. The United States sabotaged peace proposals for Vietnam. The Soviet Union proposed peace negotiations before the Korean War. Spain wanted the sinking of the U.S.S.Maine to go to international arbitration before the Spanish American War. Mexico was willing to negotiate the sale of its northern half. In each case, the U.S. preferred war. Peace has to be carefully avoided.

だから、誰かが私にアフガニスターンを攻撃しないで何をするかと問うなら、三つの回答をします、順次に軽視すべきでない(重要な)ものです:

1.アフガニスターンを攻撃するな。

2. 罪を罪として罰し、新しい罪を犯すな。外交と法の支配を用いよ。

3.正義と紛争解決と戦争制度を撤廃した経済と政治の世界を創造するために働け。

追記:質問は皆どれも第二次大戦についてなので、それは質問と応答の方に回します。

有難うございました。

So when someone asks me what I would do instead of attacking Afghanistan, I have three answers, progressively less flippant.

  1. Don’t attack Afghanistan.

  2. Prosecute crimes as crimes, don’t commit new crimes. Use diplomacy and the rule of law.

  3. Work to create a world with systems of justice and dispute resolution and economies and politics that do without the institution of war altogether.

PS: All the questions will be about World War II regardless, so I’ll just save that one for the Q&A.

Thank you.

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「国家とは人間がつくったもの」

おおむかし、わたしたちが、いま、くらしているこの列島が、大陸からはなれ、あいだに海をはさんだ島々になったころ、この島々にくらしていたひとたちは、みんなで力をあわせ、山で木の実をひろい、けものをとらえ、海で貝をひろったり魚をつかまえたりして、みんなでわけあって、たべていました。

畑や田をたがやして、大根(すずしろ)や芋や米をつくるようになったあとでも、そこでとれたものは、みんなでわかちあっていたのですね。

ひとびとがたべるものをひとりじめに(私有)したり、ひとびとをおさめ(支配し)たりするひとは、まだ、いませんでした。空気も水も土地も、だれかひとりのもちものではなく、みんなが息をすったり、のどをうるおしたり、米や野菜をつくったりすることのために、自由につかっていたのです。

そとから見たすがたによって、ひとは、それぞれ、おとこ、おんなとよばれ、また、としかっこうによって、あかご、こども、おとなとよばれるようにもなっていました。こどもがおおきくなればおとなになって、おとうとおかあになり、そのおとうとおかあとが、としをへれば、じじいとばばあになっていきます。じじいとばばあがこの世からいなくなったあとは、そのむすこやむすめたちが、そのむすこやむすめたちがじじいとばばあになって、やがてこの世からいなくなれば、そのむすことむすめが、つまり、さきにいなくなったじじいやばばあのまごたちが、あとをひきつぎました。

そのひとたちが、こうしてのどかにくらしていた島々に、大陸から、ひとびとの知らない武器をもつひとたちがわたってきて、ひとびとをしたがえるようになりました。そのせいで、ふつうのひとびとよりもっとつよいひとたちがうまれ、その、よりつよいひとたちが、よりよわいひとたちをしたがえるようになりました。

このようにして、うえのひともしたのひともいなくて、だれもが、おなじようにくらしていたひとびとのなかに、よりつよいひとがあらわれ、そのひとが、たべものや、たべものをつくる土地を、ひとりじめにするようになりました。

ふつうのひとびとは、この、よりつよく、たべものとたべものをつくる土地をひとりじめにしているひとから、土地をつかわせてもらい、土地をたがやして作物をつくり、その土地からとれたものをすべて、土地をもっているひとにさしだして、そこから、ほんのすこしの作物をわけてもらって、うえをしのがなければならなくなっていきました。

こうして土地をひとりじめにしたひとたちのなかからも、よりつよいひとたちとよわいひとたちがでてきて、よりつよいひとたちが、よりよわいひとたちをしたがえるようになっていきます。そして、よりつよく、より多くの土地とひとびとをしたがえるひとたちが王とよばれるようになり、そのなかでいちばんつよい、いちばんたくさん、土地とひとびとを手にいれたひとが、王のなかの王、つまり皇帝とよばれるようになりました。この「おおやしま」では、とくべつに、天皇という名でよばれるようになったのです。

皇帝や天皇は、ひとりじめにした土地とそこで作物をつくるひとびとを、自分のもちものであると見なすようになっていきます。べつな言いかたをするなら、ひとびとと土地ををしたがえる(支配する)ことになります。ここからさきは、あなたがたがようっく知っておいでの「歴史」というものがたりになっていきます。

わたしは、なにが言いたいのか?
国家とは、天地創造とともにある自然なものではなくて、人間がつくったものなのだということを、このいま、あらためて知ってほしいとおもったのです。ほかでもないこのいま、そのことを知ってほしいとおもったのは、この国家というものが人間の手によってつくられたものであるのなら、人間の手によって、なくしたり、変えたりすることができるのだってことを、あらためて、このいま、考えていただきたいからです。

いま、わたしたちが、自然とおなじように、はじめから、いまあるようなかたちであったかのようにおもいこんでいる(おもいこまされている、と言ったほうがいいのかもしれませんね)この国家とは、人間の歴史のながれからすると、「近代国家」というかたちのものです。そして、このかたちは、いまから、せいぜい200年ほどまえにつくられたものにすぎないのです。

近代国家は、じつは、この地球上のほかの諸国家から認められ(承認され)て、はじめて、国家でありうるのです。たとえば、「イスラム国」と名乗りをあげたけど、ほかの、すでに国家としてたがいに認めあっている諸国家から承認されなかったあの機構は、すくなくとも、近代国家の概念にはあてはまらなかった。

近代国家にあっては、ほかの諸国家から国家であると承認されるためには、まず、一定の領域をわがものとしている(専有している)のでなければなりません。これは土地(領土)と、その土地のまわりの、あるいはその土地に面している海(領海)と、その領土と領海のうえの空(領空)とをふくむ全体です。

つぎに、その土地にずうっとすんでいて、そこでくらしをたてているひとびとが、その国家に、一時的にではなく、また、好きだからいる、いやになったから出ていく、といったありようで、ではなく、ずうっと(恒久的に)所属していなければなりません。

第三に、その国家をたばねおさめている権力(支配権力)が、はっきりときまっていなければなりません。主権という法律用語はそのことを指示しています。この権力とは、物理的な力のことです。つまり、はむかうものを、暴力によって排除ないしは抑圧できる力です。

だれもが、はっきりと、このことを理解しているわけではありません。が、漠然とはわかっていますし、そんなこむずかしいことをわきまえていなくても、あるひとつの国家のなかでくらしていることはできます。

ただ、たとえば、日本国の領海にほかの国家に所属する船がことわりなしに入ってくれば「領海侵犯」になります。航空機のばあいなら「領空侵犯」です。そのばあい、その国家がもっている「自衛権」が発動されます。具体的には、海軍の軍艦が、あるいは空軍の戦闘機が、まず、警告を発し、おとなしく言うことをきかないばあいには、相手の船を沈めたり航空機を撃墜したりすることも、世界中の諸国家のあいだでのとりきめ(国際法)のうえでは正当な行為と見なされます。

日本国のばあいは、総理大臣が日本国軍隊をつくりたくてうずうずしてはいるけれど、まだ生きている憲法が、陸軍も海軍も空軍も、およそ軍隊と呼ばれるものとそれに必要な装備=武器弾薬(戦力)をもつことを禁止していますし、国家がほかの国家とのあいだに戦争をはじめる権利(交戦権)をうばっていますので、事実上は、すでに、世界有数の強力な軍隊をもちながら、憲法上のこの制約によって、法的には、これを国軍(国家の所有する軍隊)に昇格させることができないでいます。

だから、この憲法を変えて、いま現にある軍隊を法的にも正式に認められる国軍にしようというのが自民党の悲願でした。しかし、依然として、憲法のなかでも戦力不保持を明記している第9条第2項を変えることには「国民」の同意がえられそうにないという情勢のもとで、安倍総理がうみだした苦肉の策が、第2項はそのままにして、ここに「自衛隊」という3文字をなんらかのかたちでしのびこませよというおもいつきでした。

ただし、この過程では、「国を護る」とはどういうことか、という根本の問題についてはいっさい論議がなされず、というより、より正確には、安倍政権が意図的に論議を回避したまま、あたかもこれを公理ででもあるかのようにあつかっている、という特徴が顕著にうかがえます。

このインチキを見のがしたままで、憲法を変えるのか変えないのかはもとより、自衛隊の存在をみとめるのかみとめないのか、自衛隊という3文字を憲法に書きこむのか書きこまないかなどといった議論をくりひろげることは、およそ、根本的な前提を「隠蔽」したままにしておく安倍政権の策謀にのせられ、用意されたその土俵のなかでだけ相撲をとっているにひとしい結果になってしまうのではないでしょうか?

もとにもどって、原理的に考えてみませんか?
「侵略」という行為、具体的には「領土・領空・領海」を「侵犯」するという行為が発生するそもそもの前提となっているのは、「領土・領空・領海」の存在です。具体的にこれを象徴しているのが「国境」ですね。この国境をなくしてしまえば、そもそも、国境を「侵犯」するという行為自体が無意味になってしまいます。

国境は国家に必然的に付随するものですから、国家をなくしてしまえば、そもそも国家の領域をめぐるあらゆる紛争はその根拠をうしないます。ただ、このいまの世界史的状況が根本的に変化しないかぎり、、一挙にすべての国家をなくしてしまうことは、たとえ理想ではあっても、現実にはほとんど不可能です。

しかし、国境は、なくすことができないまでも、無効な存在にすることはできるでしょう。具体的には、旅券とヴィザとを、もっと具体的には、入出国検査を廃止することです。すでに、ヴィザなし往来は一部実現しています。これを世界的に拡大することは、けっして夢物語ではないはずです。

国境紛争の重要な原因の一つは経済的権益の独占とこれに対する開放要求ですね。具体的には「経済水域」などといった名称の領域が「領海」よりもっと広く設定されていることが、問題の解決をややこしくしている、あるいは、妨害しているのですね。この種の紛争は、交渉によって解決可能です。おたがいにソンをしないですむ、相互の利益になるような条件で交渉を妥結させることは、外交交渉のうえで、そのほかの交渉にくらべればはるかにたやすい部類に入るでしょう。

以上がこの文章です。

もうひとつ、池田さんが危惧していることについて、わたしなりに考えていることを、
そのうち書こうとおもっています。

要するに、いまあるこの憲法は、風前の灯だってことです。
国民投票が実施され、
インチキ「改正」案が多数票を獲得し、
現憲法が廃絶されてしまう、
というおそれは、
たんなる危惧の域をこえていますから。

いま喫緊に必要なのは、まさん、
池田さんが力説している、
いわゆる「改憲派」による「護憲派」への
非難にどうこたえるか、です。

ひこ

運命共同体とはなんでしょう

2018年
2月15日は大晦日
16日は旧正月です。

日本の旧暦文化でありますし、東アジア世界の新年なんです。

日本人がアジアの一員である記憶をとりもどす時です。(明治150年の空白をのりこえて)
いまや世界終末「2分前」であることは地球人すべてが「核戦争の勃発」として認識しています。
平昌五輪で南北対話がさめたときから毎日が不安です。

北東アジアに南極ー中南米ー南太平洋ー東南アジアーアフリカーモンゴルー中央アジアにつづいて
非核兵器地帯を建設しなければなりません。

その波動は核兵器を終わりすることの波紋となります。

そのために日本はどう変わっていかなければならないでしょう?

中学生~高齢者すべてに同じ問いかけをいたします。
知恵を集めきろうではないか?
どんな意見もワクワクさせるでしょう。尊敬と結束が生まれてくるでしょう。

悪魔(核兵器)に魂を奪われた為政者たちは「核の抑止論」を繰り返しても、ボタンを押すことはできません。

地球のいのちの味方は歴然としているから。

人類のすべての世代に 分けへだてなく 呼びかけることができるでしょう。

すべての世代は「今だけ自分だけお金だけ」から解放される よろこびを味わうことができるでしょう。

お互いに生まれ変わるしか地球は守れない。

くら七世代主
古川ひろすけ

米国の核兵器と日本の隷従

配備数  1740発

* 大陸間弾道ミサイル(ICBM) 400発
* 潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM) 890発
* 空中発射巡航ミサイル(ALCM) 200発
* 重力爆弾 100発
* 重力爆弾欧州に配備  150発。

備蓄数 2740発
廃棄待ち 2300発
日本とその周辺に配備されていない保障はない。

「核の抑止力」とは偶発事故も核戦争になる危険性も常にあるということだ。
核兵器を保有するとは悪魔に魂を売り渡したということと同じです!
世界最初の核兵器保有国はアメリカです。

1949年にはアメリカは日本を「反共の防波堤」とする戦略へ変更しました。日本政府はこれに服従してきています。警察予備隊しかり、安保条約しかり、9条改変して自衛隊の米軍合同軍とすることの要求もしかり。日本政府は米の新核戦略を歓迎するという(2018.2.5)。新基地建設にも全力が注がれる(6月)。200年後まで 米国の覇権(核兵器)を保障するというのか?

「われらとわれらの子孫のために」(日本国憲法)。
孫やこれから生まれてくるいのちのために「基地も原発も残せない」「核兵器こそ残せない」!

2018.2.6
憲法語らい場
古川ひろすけ

生存権の保障か尊重か?

「基本的人権の[尊重]」と言って久しい。

第25条では「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に務めなければならない」とあります。生存権を国に保障させるのは国民の権利です。

「保障」ではなく「尊重」とするとどうなるでしょう?
所得の最も少ない10%の層である「一般低所得世帯」に合わせて生活扶助基準を決めるということが「尊重」だ と政府はいいます。

日本の貧困ラインは

1999年 157万円
2004年 151万円
2009年 140万円
2014年 133万円

と下がってきているとと言います。

安倍総理は「一般低所得世帯の消費の実態と生活保護基準額との乖離を是正する」という。尊重するとは扶助費の年々「カット」という形で現れています。

貧困ラインを上げ貧困打開するこそが生存権保障でしょう。アベノミクスの成功なら貧困ラインがあがる筈だが下がるのは失敗の証拠でしょう。

軍拡と大企業優遇については「保障」となっているでしょう。
これは消費税値上げ・社会保障費削減となります。99%の血税を吸い上げて1%を肥やす格差拡大のダメノミクスでしょう。

北朝鮮の「先軍政治」と同じことではないか。

危機と戦争を煽り、核戦争・核破滅に向かう独裁政治か?

個人の尊厳・生存権の「保障」の道こそ、
隣国との友好と平和を求めることになります。
日本国憲法はその立場でしょう。

憲法語らい場
古川ひろすけ

戦争はそもそも正当化できるか?についての討論のビデオ Video of Debate on Is War Ever Justifiable?


デーヴィッド・スワンソンによる

By David Swanson
http://davidswanson.org/video-of-debate-on-is-war-ever-justifiable

On February 12, 2018, I debated Pete Kilner on the topic of “Is War Ever Justifiable?” (Location: Radford University; Moderator Glen Martin; videographer Zachary Lyman). Here is video:

2018年2月12日私はピート・キルナーと「戦争はそもそも正当化できるのか?」について討論そしました(場所:ラドフォード大学;司会者:グレン・マーテイン;ビデオ撮影者:ザッカリ・ライマン)ビデオはこちら:On February 12, 2018, I debated Pete Kilner on the topic of “Is War Ever Justifiable?” (Location: Radford University; Moderator Glen Martin; videographer Zachary Lyman). Here is video:

Youtube.

Facebook.

発表者二人の履歴

The two speakers’ bios:

ピート・キルナーは歩兵として軍隊でと合衆国軍学校(ミリタリー・アカデミーで28年以上仕えた作家であり軍事倫理家です。彼は戦闘指導部の研究をする為にイラクとアフガにスターンへ数回派遣されています。彼はウェスト・ポイントの卒業生ですが、ヴァージニア・テックから哲学修士号とペンシルヴァニア州立大学から教育博士号をもらっています。

Pete Kilner is a writer and military ethicist who served more than 28 years in the Army as an infantryman and professor at the U.S. Military Academy. He deployed multiple times to Iraq and Afghanistan to conduct research on combat leadership. A graduate of West Point, he holds an MA in Philosophy from Virginia Tech and a Ph.D. in Education from Penn State.

デーヴィッド・スワンソンは著述家、活動家、ジャーナリスト、ラジオ・ホストです。彼は戦争超越世界団体の代表です。スワンソンの本には「戦争は嘘っぱち」と「戦争は決して正当化できない」があります。彼は2015年、2016年、2017年のノーベル平和賞に指名されていました。彼はヴァージニア大学から哲学修士号をもらっています。

David Swanson is an author, activist, journalist, and radio host. He is director of WorldBeyondWar.org. Swanson’s books include War Is A Lie and War Is Never Just. He is a 2015, 2016, 2017 Nobel Peace Prize Nominee. He holds an MA in philosophy from UVA.

誰が勝ったか?

Who won?

討論前に部屋にいた人々は「戦争はいったい正当化できるか?」に対する答えが「はい」、「いいえ」、「どちらとも言えない」のいずれと考えるかを、その結果がスクリーンに表示されるオンライン・システムに表明するように頼まれました。25人が投票しました:68%は「はい」、12%が「いいえ」、12%が「どちらともいえない」でした。討論後再びその質問が投げかけられました。20人が投票しました:40%は「はい」、45%が「いいえ」、15%が「どちらとも言えない」でした。下のコメント欄にこの討論があなたをどちらに動かしたかを示す為にご利用ください。

Prior to the debate, people in the room were asked to indicate in an online system that displayed the results on a screen whether they thought the answer to “Is War Ever Justifiable?” was yes, no, or they were not sure. Twenty-five people voted: 68% yes, 20% no, 12% not sure. After the debate the question was posed again. Twenty people voted: 40% yes, 45% no, 15% not sure. Please use the comments below to indicate whether this debate moved you in one direction or the other.

(戦争の問題についての討論)

下記が私が討論に用意した意見です:

These were my prepared remarks for the debate:

この討論を主催しい頂き有難うございます。この手短な概観は答えるより疑問を起こさせるのを避け得ませんが、多くは私の本で充分に答えるように試みましたし、その多くはdavidswanson.orgに記録してあります。

Thank you for hosting this debate. Everything I say in this quick overview will unavoidably raise more questions than it answers, many of which I’ve tried to answer at length in books and much of which is documented at davidswanson.org.

戦争は選択されるものであるという事実から始めましょう。戦争は遺伝子や他の力で支配されるものではありません。私達の種(ホモ・サピエンス:智慧のヒト)は少なくとも約20万年は地上にいましたが、戦争と呼べるような如何なるものも1万2千年を超えることはありません。人々が多くは相互に怒鳴り合い棒切れや刀を振り回したことが世界の半分回った向こう側の村々にミサイルを送るジョイ・ステック(歓喜棒)を机上で振り回すのと同じ物だと呼び得る範囲で、私達が戦争と呼ぶものは現生人種の存在の中では存在したよりも存在しなかった方が遥かに多いのです。多くの社会はそんなもの無しでやって来ました。

Let’s begin with the fact that war is optional. It’s not dictated to us by genes or outside forces. Our species has been around at least 200,000 years, and anything that could be called war no more than 12,000. To the extent that people mostly shouting at each other and waving sticks and swords can be called the same thing as a person at a desk with a joystick sending missiles into villages halfway around the world, this thing we call war has been far more absent than present in human existence. Many societies have done without it.

率直に言って、戦争が自然だという考えは愚劣なものです。殆どの人を戦争に参加させるには大変な条件付けが必要ですし、参加者の自殺率が高いことを含めて大変な精神的苦痛を戦争参加者にもたらすのが普通です。反対に、戦争が無いからと言って深い道徳的苦痛を蒙りPTDS(トラウマ後ストレス症候群)を起こしたと知られる者は一人としていません。

The notion that war is natural is, frankly, ridiculous. A great deal of conditioning is needed to prepare most people to take part in war, and a great deal of mental suffering, including higher suicide rates, is common among those who have taken part. In contrast, not a single person is known to have suffered deep moral regret or post-traumatic stress disorder from war deprivation.

戦争は人口密度や資源不足に関係してはいません。最も戦争を受容する社会が最も戦争を行うという簡単至極なことです。合衆国はそのリストで高く、様々な計測方法で最高点を独占しています。諸調査で、富裕諸国の中で合衆国公衆は最も「先制的に」他国を攻撃するのを支持すると、判っています。諸世論調査で、合衆国人の44%は自分の国の為に戦争で戦うというが、生活の質が同程度あるいは高い多くの国では20%以下だと判っています。

War does not correlate with population density or resource shortages. It is quite simply most used by societies most accepting of it. The United States is high on, and by some measures, dominates the top of that list. Surveys have found the U.S. public, among wealthy nations, the most supportive of –quote– “preemptively” attacking other countries. Polls have also found that in the U.S. 44% of people claim they would fight in a war for their country, while in many countries with equal or higher quality of life that response is under 20%.

合衆国文化は軍国主義で蔓延しており合衆国政府は、合衆国がもっと支出するように押し付ける親近連盟諸国はその他の大支出国であるにも拘わらず、軍事費を他国全部の合計と殆ど同じだけ支出して、戦争に懸命なことが独特なのです。コスタリカやアイスランドなど殆どの国が年間支出ゼロに近いのに合衆国は一兆ドルも支出しています。合衆国は外国に約800の基地をもっていますが他国の基地は合計で2、3ダースに過ぎません。第二次大戦以降合衆国は2千万人を殺したか殺させ、少なくとも36の政府を転覆し、少なくとも84の外国の選挙に干渉し、50人以上の国家指導者を暗殺しようとし、30以上の国に爆弾を落としました。過去16年でアフガニスターン、イラク、パキスターン、リビア、ソマリア、イェーメン、シリアを含む地球地域を組織的に損害を与えた。合衆国は世界の三分の二の諸国に展開する「特殊部隊」を持っています。

U.S. culture is saturated with militarism, and the U.S. government is uniquely devoted to it, spending almost the same as the rest of the world combined, despite most of the other big spenders being close allies whom the U.S. pushes to spend more. In fact, every other nation on earth spends closer to the $0 per year spent by nations like Costa Rica or Iceland than to the over $1 trillion spent by the U.S. The United States maintains some 800 bases in other people’s countries, while all other nations on earth combined maintain a few dozen foreign bases. Since World War II, the United States has killed or helped kill some 20 million people, overthrown at least 36 governments, interfered in at least 84 foreign elections, attempted to assassinate over 50 foreign leaders, and dropped bombs on people in over 30 countries. For the past 16 years, the United States has been systematically damaging a region of the globe, bombing Afghanistan, Iraq, Pakistan, Libya, Somalia, Yemen, and Syria. The United States has so-called “special forces” operating in two-thirds of the world’s countries.

私がバスケットボールの試合を見ると二つのことが殆ど保障されています、すなわち、UVA(ヴァージニア大学の)優勝と175ヶ国で観戦する兵士達への感謝です。2016年大統領選挙討論での質問は「何十万人の無垢の子供達を殺す気があるか?」でしたが、こんな事も又アメリカ独特のことです。他の96%の人間が住む地域の選挙討論ではこんな事はありえません。合衆国の諸外交機関紙が北朝鮮やイランを攻撃すべきか否かを論じていますが、これもアメリカ独特の事です。殆どの国の公衆は2013年のギャラップ調査で合衆国が世界の平和に対する最大の脅威であるとしています。2017年のピュー調査では更にその見解は増加していることを見い出しています

When I watch a basketball game on television, two things are ALMOST guaranteed. UVA will win. And the announcers will thank U.S. troops for watching from 175 countries. That’s uniquely American. In 2016 a presidential primary debate question was “Would you be willing to kill hundreds and thousands of innocent children?” That’s uniquely American. That doesn’t happen in election debates where the other 96% of humanity live. U.S. foreign policy journals discuss whether to attack North Korea or Iran. That, too, is uniquely American. The publics of most countries polled in 2013 by Gallup called the United States the greatest threat to peace in the world. Pew found that viewpoint increased in 2017.

だから、唯一の戦争屋ではありませんが、この国は戦争に異常に投資しているのです。ですが、一体何が正当化できる戦争にするのでしょうか?正義の戦争論では戦争はいくつかの判断基準を満たさなければならないのですが、それは三つの部類に纏められるでしょう、即ち、非経験主義、不道徳、不可能です。非経験主義には「正統な意図」、「正義の大義」、「均衡性」といったものがあります。政府がISISが金を隠している建物を爆撃して50人まで殺すことを正当化する時、「ノー(否)」と言うのか、49人まで、6人まで、それとも4,097人まで正当に殺してよいのかについての同意された、経験的な方法はありません。

So, this country has an unusually strong investment in war, though it is far from the only warmaker. But what would it take to have a justifiable war? According to just war theory, a war must meet several criteria, which I find fall into these three categories: the non-empirical, the amoral, and the impossible. By non-empirical, I mean things like “right intention,” “a just cause,” and “proportionality.” When your government says bombing a building where ISIS stashes money justifies killing up to 50 people, there’s no agreed upon, empirical means to reply No, only 49, or only 6, or up to 4,097 people can be justly killed.

戦争に、例えば奴隷制度を終わらせる為といった、戦争の正当な大義をくっ付けることは決して戦争の実際の大義のすべてを説明するものではなく、全く戦争を正当化する理由にはなりません。地球の殆どで戦争なしで奴隷制度や農奴制が廃止された時代に、例えば、それを戦争の大義にすることは何の重みもありません。

Attaching some just cause to a war, such as ending slavery, never explains all the actual causes of a war, and does nothing to justify the war. During a time when much of the globe ended slavery and serfdom without war, for example, claiming that cause as the justification for a war holds no weight.

不道徳にというのは、公に宣戦布告されたとか正当で有能な権威によって戦争が行われるといった事です。これらは道徳的関心と関係ありません。例え正当で有能な権威を実際に持っているとしても、それが戦争をもっと正当にも或いはもっと不正当にするものでもありません。イェーメンの一家族がひっきりなしにブンブン飛び回っているドローンから身を隠しながら有能な権威が自分達に送ってくれたと感謝する事など誰が思い描くことができるでしょうか?

By amoral criteria, I mean things like being publicly declared and being waged by legitimate and competent authorities. These are not moral concerns. Even in a world where we actually had legitimate and competent authorities, they wouldn’t make a war any more or less just. Does anyone really picture a family in Yemen hiding from a constantly buzzing drone and expressing gratitude that the drone has been sent to them by a competent authority?

不可能とは「最後の手段として」とか「合理的成功の見通しを持って」とか「非戦闘員を攻撃から免れるようにして」とか「敵兵を人間としてそんけいして」とか「戦争捕虜を非戦闘員として扱う」といったことです。何かを「最後の手段として」というのは実際は単に自分の最善の考えだという事に過ぎず、唯一の手段だというのではありません。誰でも、アフガン人とかイラク人の立場にたっても、常に他に考えがあるものです。エリカ・チェノウェッチやマリア・ステファンのような人達の研究で、国内であろうと外国からの暴政に対してであろうと非暴力的抵抗の方が二倍も成功し、その成功は遥かに永続するということが判っています。私達は成功例を、時には部分的に、時には完全に、外国による侵入に、長年に渡って、ナチ占領のデンマークやノルウェーで、インドで、パレスチナで、西サハラで、リトアニアで、ラトヴィアで、エストニアで、ウクライナ等で、そして多くの場合外国支援の政権に対する1ダースほどの成功例を見ることができます。

By impossible, I mean things like “be a last resort,” “have a reasonable prospect of success”, “keep noncombatants immune from attack,” “respect enemy soldiers as human beings,” and “treat prisoners of war as noncombatants.” To call something a “last resort” is in reality merely to claim it is the best idea you have, not the only idea you have. There are always other ideas that anyone can think of, even if you’re in the role of the Afghans or Iraqis actually being attacked. Studies like those of Erica Chenoweth and Maria Stephan have found nonviolent resistance to domestic and even foreign tyranny to be twice as likely to succeed, and those successes to be far longer lasting. We can look to successes, some partial, some complete, against foreign invasions, over the years in Nazi-occupied Denmark and Norway, in India, Palestine, Western Sahara, Lithuania, Latvia, Estonia, Ukraine, etc., and dozens of successes against regimes that in many cases have had foreign support.

私の希望は更に多くの人々が非暴力の諸道具と自らの力を知れば、それだけ益々その人達がその力を信じてそれを選び、そうすれば非暴力の力が好循環して増大することです。人々がある外国の独裁権力がその十倍の大きさの、占領者達に非暴力の非協力に献身する人々の国家を侵略して占領するなどという考えを嘲る時がやがて来ることを想像します。既に度々あった事ですが、私が戦争を支持しないのなら北朝鮮語や彼らの言う「ISIS語」を話し始める用意をした方が良いと言って脅しの電子メールを送ってくる人々に笑ってやります。有りもしない言語のことはまあ許すとして、誰かが三億のアメリカ人に外国語を強制する、まして銃口を当ててする、などと言う考えは情けなくて泣けて来そうになります。アメリカ人すべてが多言語を知っていたなら、どんなにか戦争のプロパガンダが弱くなるだろうにと想像しないわけにはいかないのです。

My hope is that the more that people learn the tools of nonviolence and their power, the more they will believe in and choose to make use of that power, which will increase the power of nonviolence in a virtuous cycle. At some point I can imagine people laughing at the idea that some foreign dictatorship is going to invade and occupy a nation ten times its size, full of people dedicated to nonviolent noncooperation with occupiers. Already, I get a laugh on a frequent basis when people email me with the threat that if I do not support war I had better be prepared to start speaking North Korean or what they call “the ISIS language.” Apart from the nonexistence of these languages, the idea that anybody is going to get 300 million Americans to learn any foreign language, much less do so at gun point, almost makes me cry. I can’t help imagining how much weaker war propaganda might be if all Americans did know multiple languages.

不可能な判断基準を続けるなら、ある人を殺そうとして、その人を尊敬というのはどうなのでしょうか?人を尊敬するには沢山の方法がありますが、その人を殺そうとする事とは、そのどれとも同時にあることはできません。実際、私は私を殺そうとする人間を私を尊敬する人々の最下位に等級付けするでしょう。正義の戦争の理論を始めた人々は誰かを殺すことが自分に都合が良いと信じていた人々であったことを思い出してください。そして現代の戦争においては非戦闘員が死者の大多数を占めるので、彼らを安全にすることは不可能なのだということも。そして、合理的な成功の見込みも無いことも思い出して下さいー合衆国軍隊は記録的敗戦の連続の跡なのです。

Continuing with the impossible criteria, what about respecting a person while trying to kill her or him? There are lots of ways to respect a person, but none of them can exist simultaneously with trying to kill that person. In fact, I would rank right at the bottom of people who respect me those who were trying to kill me. Remember that just war theory began with people who believed killing someone was doing them a favor. And noncombatants are the majority of casualties in modern wars, so they cannot be kept safe. And there’s no reasonable prospect of success available — the U.S. military is on a record losing streak.

しかし、いかなる戦争も決して正当化できないのは如何なる戦争も正義の戦争の判断基準を全て満たすことが出来ないということではなくて、その最大の理由はむしろ戦争は偶発ではなくて制度だということです。

But the biggest reason that no war can ever be justified is not that no war can ever meet all the criteria of just war theory, but rather that war is not an incident, it is an institution.

合衆国内の多くの人々は多くの合衆国の戦争は不正義のものであったことを認めても第二次大戦とその後の一、二の戦争の正当性を主張します。他の人々はこれまで正義の戦争は無かったと主張しても、今や何時の日か正当化できる戦争があるかもしれないという大衆の想像に組みしています。そのような予想は今までの戦争すべてより遥かに多くの人々を殺すというものです。合衆国政府は毎年一兆ドルを戦争と戦争準備に支出しますが、その3%で飢餓を無くし、1%で地球上から綺麗な飲み水の不足を無くすことが出来るのです。軍事予算が地球の気候を救おうとするのに必要な資金を捻出できる所です。戦争の暴力によるよりも金をうまく使わなかった失敗によって遥かに多くの生命が失われ傷つけられます。そして戦争の暴力によって直接失われ危機におかれるよりも、その暴力による副作用によってより多くのものが失われその危機にさらされるのです。戦争と戦争準備が自然環境の最大の破壊者なのです。地球上の殆どの諸国は合衆国軍隊より化石燃料を使うのは少いのです。合衆国内だけでも殆どのスーパーファンド(汚染除去の巨額資金)災害現場は軍事基地内にあるのです。戦争制度は例え戦争が「自由」の名の下に市場に売られていようとも私達の最大の自由の最大の侵略者なのです。この機関は私達を貧困にし、法の支配を脅威にさらし、暴力、偏狭、警察軍事化、大々的査察を燃料にして私達の文化を低下させているのです。この機関が私達すべてを核惨事の危機に直面させているのです。そして、それはそれに従事するとその社会を保護するよりも危険に曝すのです。

Many people in the U.S. will concede that many U.S. wars have been unjust, but claim justness for World War II and in some cases one or two since. Others claim no just wars yet, but join the masses in supposing that there might be a justifiable war any day now. It is that supposition that kills far more people than all of the wars. The U.S. government spends over $1 trillion on war and war preparations each year, while 3% of that could end starvation, and 1% could end the lack of clean drinking water globally. The military budget is the only place with the resources needed to try to save the earth’s climate. Far more lives are lost and damaged through the failure to spend money well than through the violence of war. And more are lost or put at risk through side-effects of that violence than directly. War and war preparations are the biggest destroyer of the natural environment. Most countries on earth burn less fossil fuel than does the U.S. military. Most superfund disaster sites even within the U.S. are at military bases. The institution of war is the biggest eroder of our liberties even when the wars are marketed under the word “freedom.” This institution impoverishes us, threatens the rule of law, and degrades our culture by fueling violence, bigotry, the militarization of police, and mass surveillance. This institution puts us all at risk of nuclear disaster. And it endangers, rather than protects, those societies that engage in it.

ワシントンポスト紙によるとトランプ大統領がいわゆる「防衛」長官ジェームス・マチスに何故アフガニスターンに兵隊達を送るのかと尋ねたところ、マチスはタイムズ・スクエアでの爆破を防ぐためだと回答したそうです。しかし、2010年にタイムズ・スクエアを爆破しようとした男はアフガニスターンから合衆国の兵隊達を去るようにしたのです。

According to the Washington Post, President Trump asked Secretary of so-called Defense James Mattis why he should send troops to Afghanistan, and Mattis replied that it was to prevent a bombing in Times Square. Yet the man who tried to blow up Times Square in 2010 said he was trying to get U.S. troops out of Afghanistan.

北朝鮮が合衆国を占領しようとするなら北朝鮮は現在の軍隊の何倍も大きな戦力を必要とするでしょう。北朝鮮が合衆国を攻撃すれば、万が一実際に出来たとしても、それは自殺行為でしょう。そんなことが起きるでしょうか?まあ、合衆国がイラクを攻撃する前にCIAが言ったことをご覧ください:「イラクは、万が一自分が攻撃された時にのみ、自分の兵器を使うようです。」存在しなかった武器(の嘘)はさて置いて、それは正確なものでした。

For North Korea to try to occupy the U.S. would require a force many times larger than the North Korean military. For North Korea to attack the U.S., were it actually capable, would be suicide. Could it happen? Well, look at what the CIA said before the U.S. attacked Iraq: Iraq would be most likely to use its weapons only if attacked. Apart from the weapons not existing, that was accurate.

(地球テロ指標」によれば)テロは「テロに対する戦争」中に予想された通り増加して来ました。テロリストの攻撃の99.5%は戦争をしているか、さらに又は別に裁判なしの留置や不法な殺人をしている国で起きています。テロが最高率なのは(米国の、米国による)いわゆる「解放され」「民主化された」イラクとアフガニスターンです。(非国家、政治動機の暴力である)テロの殆どに責任をもつ世界中のテロリスト・グループは米国の「テロに対する戦争」から生まれました。これらの戦争自体が多数の退役直後の合衆国政府官僚や少しばかりの合衆国政府報告に、軍事的暴力は反生産的で殺した数よりももっと多くの敵を生み出している、と言わせています。すべての自爆テロ攻撃の95%は外国の占領者をテロリストの本国から去ることを促すために起きています。そして2012年のFBIの研究は、合衆国内のいわゆる自家製テロ事件に関わった個人の最大の動機は合衆国の海外での軍事作戦に対する怒りである、と言っています。

Terrorism has predictably increased during the war on terrorism (as measured by the Global Terrorism Index). 99.5% of terrorist attacks occur in countries engaged in wars and/or engaged in abuses such as imprisonment without trial, torture, or lawless killing. The highest rates of terrorism are in so-called “liberated” and “democratized” Iraq and Afghanistan. The terrorist groups responsible for the most terrorism (that is, non-state, politically motivated violence) around the world have grown out of U.S. wars against terrorism. Those wars themselves have caused numerous just-retired top U.S. government officials and a few U.S. government reports to describe military violence as counterproductive, as creating more enemies than are killed. 95% of all suicide terrorist attacks are conducted to encourage foreign occupiers to leave the terrorist’s home country. And an FBI study in 2012 said that anger over U.S. military operations abroad was the most commonly cited motivation for individuals involved in cases of so-called homegrown terrorism in the United States.

これらの事実は私に以下の三つの結論を得させます:

The facts lead me to these three conclusions:

1)合衆国内での外人テロは合衆国軍隊を合衆国でないどの国にも入れないことによって事実上無くしうる。

1) Foreign terrorism in the United States can be virtually eliminated by keeping the U.S. military out of any country that is not the United States.

2)もしカナダが合衆国並み規模の反カナダ・テロリスト・ネットワークを望むか、ただ北朝鮮による脅威を受けたいと望むなら、それは世界中での爆撃、占領、基地建設を激増する必要があるでしょう。

2) If Canada wanted anti-Canadian terrorist networks on a U.S. scale or just wanted to be threatened by North Korea, it would need to radically increase its bombing, occupying, and base construction around the world.

3) テロとの戦い、もっと麻薬を生む麻薬との戦い、貧困を増やすように見える貧困との戦い、のモデルの上に私達は維持可能な繁栄と幸福の為の戦いを始めることを考慮するだけ賢明になりたいものです。

3) On the model of the war on terrorism, the war on drugs that produces more drugs, and the war on poverty that seems to increase poverty, we would be wise to consider launching a war on sustainable prosperity and happiness.

真面目な話、例えば北朝鮮との戦争が正当化される為には、合衆国は何年にもわたって平和を避けて紛争を挑発する様な努力をする必要はないでしょうし、無垢なのに攻撃されなければないでしょうし、それ以外に選択肢が考えられないように思考能力を失わなければならないでしょうし、核の冬が多くの土地に作物を育て或いは食べる能力を失うようなシナリオも含めるように「成功」という言葉を再定義する必要があるでしょう(ところで、1980年の核体制見直しの草案者キース・ペインは「ストレンジラブ(奇妙な愛)」の口真似をして二千万人のアメリカ人と無数のアメリカ人以外の死を容認するように「成功」という言葉の再定義をしました)し、非戦闘員を被害から免れさせる爆弾を発明しなければならないでしょうし、人々を尊敬しながら、彼らを殺す方法を編みだ出さなければならないし、加えるに、この注目すべき戦争はそんな戦争を用意するのに何十年もかけた損害、すなわち、一切の経済的損害、一切の政治的損害、地球の土地・水・気候に対する損害、急速に広がりうる飢餓と疾病によるあらゆる死亡、加えて、夢見られた正義の戦争の準備によって容易になった不正義の戦争のあらゆる恐怖、更に加えて、戦争制度によって創造される核による黙示(世界終末)の危険、等々よりも良いことをすることでしょう。如何なる戦争もそんな基準に適うことはできません。

Seriously, for a war on North Korea, for example, to be justifiable, the U.S. would have to have not gone to such efforts over the years to avoid peace and provoke conflict, it would have to be innocently attacked, it would have to lose the ability to think so that no alternatives could be considered, it would have to redefine “success” to include a scenario in which a nuclear winter might cause much of the earth to lose the ability to grow crops or eat (by the way, Keith Payne, a drafter of the new Nuclear Posture Review, in 1980, parroting Dr. Strangelove, defined success to allow up to 20 million dead Americans and unlimited non-Americans), it would have to invent bombs that spare noncombatants, it would have to devise a means of respecting people while killing them, and in addition, this remarkable war would have to do so much good as to outweigh all the damage done by decades of preparing for such a war, all the economic damage, all the political damage, all the damage to the earth’s land, water, and climate, all the deaths by starvation and disease that could have been so easily spared, plus all the horrors of all the unjust wars facilitated by the preparations for the dreamed-of just war, plus the risk of nuclear apocalypse created by the institution of war. No war can meet such standards.

ヒトラーがポーランドの自分の侵略をそう呼び、NATOがリビアの侵略ををそう呼んだいわゆる「人道的戦争」は勿論正義の戦争理論に適合はしません。それは又人類を益するものでもありません。合衆国とサウジの軍隊がイェメーンでしていることはここ何年かの中の最悪の人道的災害です。合衆国は世界の独裁者の73%に武器を売り与え、その多くに軍事訓練を提供します。サウジ人は国内の人権蹂躙の酷さと同国の西欧の侵略のありそうな事との間には何の相互関係もないことを見い出しました。ほかの研究は石油輸入国は石油輸出国の内戦に百倍も干渉することを見い出しました。実際、国が石油を多く生産すればするほど、所有すればするほど、第三者の干渉を受ける可能性が高いのです。

So called “humanitarian wars,” which is what Hitler called his invasion of Poland and NATO called its invasion of Libya, do not, of course, measure up to just war theory. Nor do they benefit humanity. What the U.S. and Saudi militaries are doing to Yemen is the worst humanitarian disaster in years. The U.S. sells or gives weapons to 73% of the world’s dictators, and gives military training to many of them. Studies have found that there is no correlation between the severity of human rights abuses in a country and the likelihood of Western invasion of that country. Other studies have found that oil importing countries are 100 times more likely to intervene in civil wars of oil exporting countries. In fact, the more oil a country produces or owns, the higher the likelihood is of third-party interventions.

合衆国は、他の戦争製造者と同様に、平和を避けようと懸命に働かなければならないのです。

The U.S., like any other war-maker, has to work hard to avoid peace.

合衆国はシリアの為の平和交渉を手放して拒否し何年も過ごしました。

The U.S. has spent years rejecting out of hand peace negotiations for Syria.

2011年にはNATOがリビアを爆撃開始できるように、アフリカ連合がリビアに平和プランを提出するのをNATOは邪魔立てしました。

In 2011, so that NATO could begin bombing Libya, the African Union was prevented by NATO from presenting a peace plan to Libya.

2003年には、米大統領ブッシュがフセインが退いても良いと言っていると話して聞かせたスペインの大統領も含めた、多数の情報源によれば、イラクは無制限の査察とその大統領の辞任さえも受け入れる用意があったのです。

In 2003, Iraq was open to unlimited inspections or even the departure of its president, according to numerous sources, including the president of Spain to whom U.S. President Bush recounted Hussein’s offer to leave.

2001年にアフガニスターンはオサマ・ビン・ラデンを裁判の為に第三国に引き渡す用意がありました。

In 2001, Afghanistan was open to turning Osama bin Laden over to a third country for trial.

1999年には合衆国国務省はわざと、ユーゴスラビア全土を占領するNATOの権利を主張することで遮断棒を高くして、セルビアが賛成せず、その故に爆撃されるようにしたのです。

In 1999, the U.S. State Department deliberately set the bar too high, insisting on NATO’s right to occupy all of Yugoslavia, so that Serbia would not agree, and would therefore supposedly need to be bombed.

1990年にはイラク政府はクウェートから撤退する交渉に進んで応ずるつもりでした。それはイスラエルがパレスチナ領域から撤退することと自らもイスラエルを含む全地域も大量破壊兵器を放棄するよう求めました。多数の政府は交渉の道を追及すべきだと主張しました。しかし合衆国は戦争を選びました。

In 1990, the Iraqi government was willing to negotiate withdrawal from Kuwait. It asked that Israel also withdraw from Palestinian territories and that itself and the whole region, including Israel, give up all weapons of mass destruction. Numerous governments urged that negotiations be pursued. The U.S. chose war.

歴史を遡りましょう。合衆国はヴェトナムに対する平和提案を妨害しました。朝鮮戦争の前にソ連は平和交渉を提案しました。スペインは米西戦争の前に合衆国船メイン号沈没が国際仲裁になることを望みました。メキシコはその北半分の譲度の交渉を望んでいました。どの場合でも、合衆国は戦争を選んだのです。

Go back through history. The United States sabotaged peace proposals for Vietnam. The Soviet Union proposed peace negotiations before the Korean War. Spain wanted the sinking of the U.S.S. Maine to go to international arbitration before the Spanish American War. Mexico was willing to negotiate the sale of its northern half. In each case, the U.S. preferred war.

平和はそれほど難しいものではないでしょう、もし人々がそれを駄目にするといった努力を止めればーマイク・ペンス(米副大統領)が北朝鮮人と一つ部屋に居ながら彼女の存在に気付いた素振りを示さないようにするように(不自然な行動をすることがなければ)。そして彼らが私達を脅すのを止めれば。恐怖は嘘と単純思考を信じれるようにします。私達には勇気が必要です!私達は(それによって反って)自らに益々大きな危険を生むように駆り立てる完全な安全という幻想を止めるべきです!

Peace would not seem so difficult if people stopped going to such efforts to avoid it — like Mike Pence in a room with a North Korean trying not to indicate awareness of her presence. And if we stopped letting them scare us. Fear can make lies and simplistic thinking believable. We need courage! We need to lose the fantasy of total safety that drives us to create ever greater danger!

そして、合衆国が、民主主義の名義を使って人々を爆撃するよりもむしろ、民主主義を実際に手に入れているならば、私が誰かに何かを信じさせるようなことは必要はないでしょう。合衆国の公衆は既に軍縮と外交を多く用いることを良しとしています。そのような動向は逆軍事競争を刺激するでしょう。そしてその逆軍事競争がその方向に更に進む可能性があることを見る更に多くの眼を開くでしょうーその方向は道徳が要求するものであり、この惑星の居住可能性の為に必要なものであり、私達が生き残る為に追求しなければならないものです:すなわち、戦争制度の完全廃止です。

And if the United States had a democracy, rather than bombing people in the name of democracy, I wouldn’t have to convince anyone of anything. The U.S. public already favors military reductions and greater use of diplomacy. Such moves would stimulate a reverse arms race. And that reverse arms race would open more eyes to the possibility of advancing further in that direction — the direction of what is required by morality, what is necessary for the habitability of the planet, what we must pursue if we are to survive: the complete abolition of the institution of war.

もう一点:私が戦争は決して正当化されないと言う時、未来の戦争について私達が賛同できるなら、過去の戦争について私は喜んで「不賛成に賛成」もします。すなわち、もしあなたが、核兵器以前、合法的征服終了以前、殖民主義の一般終了以前、非暴力の威力理解の成長以前に、第二次大戦のような幾つかの戦争は正当化されるというなら、私は不賛成ですし何故かを充分にお話します。だが、私達は今やヒトラーが生きていず、私達の種(人種)が生き続ける為には戦争を廃絶しなければならないという、今までとは別の世界に生きているのだということに合意しましょう。

One more point: When I say that war can never be justified, I’m willing to agree to disagree about wars in the past if we can agree on wars in the future. That is, if you think that before nuclear weapons, before the end of legal conquest, before the general end of colonialism, and before the growth in understanding of the powers of nonviolence, some war like World War II was justified, I disagree, and I can tell you why at length, but let’s agree that we now live in a different world in which Hitler does not live and in which we must abolish war if our species is to continue.

勿論、あなたが時間を遡って第二次大戦まで旅をしたいなら、第一次大戦まで旅ができない訳がありません、その惨憺たる結論は物分り良い観察者に即座に第二次大戦を予言させたでしょう。1930年代の西欧のナチ・ドイツの支持まで遡れない訳がありませんね?私達は正直に合衆国が脅威を受けていないのにした戦争を、そしてそれについて合衆国大統領が支持を得る為に嘘を吐かねばならなかった戦争、ナチの収容所で殺されたその何倍もの人々が殺された戦争を見つめましょう。ヒトラーが追放を望んだユダヤ人達を西欧が受け入れることを拒んだ後に続いた戦争、日本の挑発で入った戦争、だが無垢の驚きではなかった戦争を。神話ではなく歴史を学びましょう、だが、歴史がそのまま進むよりも、善くやれるように選択が出来ることを認識しましょう。

Of course if you want to travel back in time to World War II, why not travel back to WWI, the disastrous conclusion of which had smart observers predicting WWII on the spot? Why not travel back to the West’s support for Nazi Germany in the 1930s? We can look honestly at a war in which the U.S. was not threatened, and about which the U.S. president had to lie to gain support, a war that killed several times the number of people in the war as were killed in the Nazis’ camps. A war that followed the West’s refusal to accept the Jews whom Hitler wanted to expel, a war that was entered through provocation of the Japanese, not innocent surprise. Let’s learn history instead of mythology, but let’s recognize that we can choose to do better than our history going forward.

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