ノンポリ市民の憲法論 (1.ダイジェスト版と2.完全版)

1. (ダイジェスト版)ノンポリ市民の憲法論 

【日本で初めて行われるかもしれない“国民投票”に、自分なりに備えておく】

――現時点で、憲法の諸問題(特に9条問題)を、私はどう考えればいいのか?―――

                  相模原市 池田力(72歳)

 

目次

第一章 はじめに・・・・どうしてこんなに改憲派が増えた?

第二章 現憲法への五つの批判について

第三章 1①~④の批判に反駁する・・・・・・・・・・・省略(原文を参照)

     ・①押しつけ憲法という批判

      ②日本弱体化・無力化が目的という批判

③不甲斐ない丸腰憲法という批判

     ・④翻訳調の悪文という批判

第四章 ついで、五つ目の批判に反駁する・・・・・・・・省略原文を参照

     ・⑤自衛隊の違憲・合憲論争の周辺

第五章 この憲法についてのもっとも肝心な議論(日本国憲法の“キモ”について)

第一章 はじめに・・・どうしてこんなに改憲派が増えたのだろう?

○改憲問題がかまびすしいが、私たちの若いころには、「憲法改正!」などという声は、そんなに大きくはなく、身近でそんな声を聞くことはあまりなかった。せいぜい、どこか遠くの方でそんな愚かなことを誰かが言っているな、という感じだったと言えばいいだろうか。ところが、何という事だろう?!いつの間にか、改憲勢力がどんどん増えていて、選挙方法のトリックもあるのだろう、国会の議員数では既に改憲派が多数となっており、近々、日本人初めての経験、「改憲発議、国民投票」という事になりかねない事態なのである。どうしてこんなことになってしまったのだろう?

ノンポリながらも、現憲法を大切なものに思ってきた自分には、ある意味大変な事態であり、70数年の長きに渡って私たちを律してきた国の基本を改変するのかしないのかについて態度を決めるという大事なことだ、という気持ちにせかれて柄にもなく、この機会に改めて自分の中の憲法観を吟味し、整理し、シッカリと自分の考えというものを構築しておきたく思うのである。

まずどうしてこんな事態となったのであるか?それについて考えてみると、結局は、やはり改憲勢力の、粘り強い、巧みな、「改憲すべき」という広報活動が功を奏したのだと思う。彼らの息の長い広報活動に対して、護憲のための有効な活動はいったいどうだったのだろうか?そんな反省も出てくる。

ともあれ、考えてみよう。なぜちょっとした間に、かなり多くの人が現憲法を価値無きものとみなすような、こんな事態になってしまったのか?恐らくこんなことが原因じゃあないだろうかと思い当たることがある。例えば若い人たちに次のような口調で現憲法について語ってみるとする。「今の憲法って、敗戦日本に無理やり押し付けられたもので、平和主義、丸腰主義というけれども実は、二度と刃向かえないように武装解除して丸裸にされているだけ。攻められても何もできないし、されるがまま。自分達を守ることもできない、実に情けない憲法だと思う。」「押しつけられたもんだから全体に何だか翻訳調だし、この憲法分かりにくいと思わないかな?センテンスが長いし、日本語としては悪文の見本だと思うよ」「やっぱり、もう戦後70年もたって日本も一流国になったんだし、押しつけられたものはいいかげんで止めて、自分たちの手で自主憲法を作った方がいいと思うよ。」さらに「個人の家庭だって刃物を持った泥棒が侵入してくると怖いから戸締りをしたりそれなりに準備するだろ?ところがこの憲法では、陸海空軍その他の戦力は保持しない、となっていて自分を守る道具も持たないで侵入されても何にもしないみたい。ちょっと普通じゃあないと思わない?外国に押し付けられたままでいないで、もっと普通の憲法にしようよ。当たり前のことだと思うよ」

ここまで言われれば、若い人はじめけっこう多くの人がついつい「成程、たしかにそうだよなあ…、言われてみればそんな気がするなあ、、」とならないであろうか?実は、こんなところが若い人や多くの人びとの中に、改憲の思想がしみこんでいった大きな原因があったのではなかっただろうか?現憲法批判として何とも実に分かりやすく、若い人に限らずけっこう多くの人に、強力に訴える力があり、憲法改変に向かってなかなか説得力の大きいものだと思うのである。

第二章 現憲法への五つの批判について

もう一度、よく耳にする憲法批判を箇条書きに整理してみると、下記の数点などになろうか。

  • この憲法は戦勝国アメリカによって押し付けられた憲法である。

  • アメリカが、日本人から武器を取り上げて徹底的に無力化を図った憲法である。

  • 丸腰主義では安全保障上どうか?無抵抗しかなく意気地無しの憲法である。

  • 日本語としては翻訳調の分かりにくい悪文ではないか?

(更にもう一つ、②と③の武器・武力に関係する事で、自衛隊についての議論がある)

  • 災害救援活動等で功績大きい自衛隊を憲法上「違憲」と言い張る人もあり、いっそ自衛隊の存在が誰にも認められるよう現実にあった記述に憲法を変えるべきである。

こう並べてみると、これらの憲法批判は、私には何というか、ある意味、小学生さえも納得させ得るような分かりやすさがあると思うが、しかし、別の言葉で言えば卑近にされ過ぎ、矮小化された憲法論議とも言えるような気もするのである。その多くは従来より押し問答的に繰り返されてきている。例えば「押しつけである」「いやそうでない」、「違憲だ」、「いや合憲だ」、「美文だ」「悪文だ」と言った具合で、いささか退屈な繰り返し合戦の状を呈している。が、実はこんな議論では届かない、この憲法に関する重要な、いわば第⑥番目の論点があって、その肝心の部分(この憲法自体が有する歴史的な意義とか価値等に関する議論)については何ら触れられていず、従ってその事については未だ多くの人に十分に意識化されていないように私は感ずるのである。そのことを意識しないで憲法を語るのは、一番さわりやすいところのみを話題にしているだけで、現憲法のもっとも大切なところ,いわば“キモ”に触れないで憲法を語っているに過ぎないと思うのだ。その“キモ”とは何か?それについて、十分に掘り下げ、浮かび上がらせ、できるだけはっきりと意識化したいと思う。

しかしその前に、五つの憲法批判の多くは攻めやすいところを取り上げ、対象をおとしめるための、いわゆるためにする議論に過ぎないが、ともかくも、これらが現実に多くの人を改憲の方向へ引き込みかねない一種のチカラを持っていると懸念されるがゆえに、それぞれについて自分なりの見解を明確にしておいた方がいいと思う。それについては、「ダイジェスト版」としては長くなるため省略してあるが、できれば「(原文)ノンポリ市民の憲法論」の三章、四章を参照して頂き、自分の憲法観を構築する参考にしていただければ有難い。そのひとつひとつについて、私なりに調べ、考え、たどり着いた僻見を記述してある。

第三章  ①~④の憲法批判への反論(原文参照)

 

第四章  ⑤自衛隊の違憲・合憲問題の周辺に関しての見解

     (原文参照)

第五章  この憲法についての最も肝心な議論(現憲法の“キモ”について)

我々の憲法そのものにストレートに入って行きたい。私が感ずる、考える、この憲法の意義、本質論のようなことについてである。

学者ならぬ一市民の私がこの憲法に対してボンヤリとではあるがずーっと感じてきたことは、幼少時以来の、人々の中にあった、一種の、この憲法を賛嘆する雰囲気の中で、やはり何といっても『我々の憲法は、すべての人間が上下無く平等であり、同じように幸福であるべきであり、そしてお互いがつまらぬ競争や闘争をすることなく平和裏に生活し、世界中の人民が仲良く共存することを謳っているものなんだなあ』という、この憲法への圧倒的な信頼感であり、その元に自分が居るという安心感であった。笑う人は笑うがいい、たとえシニカルに笑われても、いわゆるこの憲法の『国民主権・基本的人権・平和主義』は20世紀になってやっと高らかに謳われることになった、人類が明確に獲得した大きな価値であり大原則だと私は思うのである。

例えばこの憲法に於ける「基本的人権」。人権の思想の歴史はもう確かに西洋各国に古くから有る。いわば、西洋は人権思想の本場だ。しかし「権利の章典」、「人権宣言」などなど、あるいは「自由・平等・博愛」と美々しく謳われ、フランス革命、アメリカ独立宣言、等々人民の流血を経て獲得された人権の考えも、当時は新しかったとはいえ、私はまだまだ狭かったのではないかと思ったりするのである。なぜなら、彼らは美くしい人権の思想を持つところに達しながら、それ以後も他の民族や他の国民を抑圧し侵略し、自分以外の人間の人権を事実として踏みにじってきたのであったし、20世紀に入っても歴史始まって以来かってなかった巨大な戦争を起こしてその行為を続けてきたのであった。つまりは彼らの言う人権とは、例えば狭い範囲のイギリス人の人権であり、フランス人の人権であり、またアメリカ人の人権であったに過ぎなく、自分の人権だけは大切にするが、それ以外の諸国民・全民族・全人類の人権にまで考えが及んでていなかったと言える。ところが20世紀の前半だけで、戦争による死者の数が、それまでの数千年間の間に生じた戦死者の総数を超えたという愚かな大変な犠牲を払った後で、さすがに人類は自らの愚かしさに気づかされたのでなかったか?もうコリゴリだという世界中の人々の厭戦の気持ちとやっと終わったとホッとした気持ちを経て、その只中から、新たに憲法を創る動きがこの極東のちっぽけな国で興り、いろんな思惑やかけひきややり取りもあったが、新しく創るという刺激の元、いわばグッドタイミングで、これからの世への夢や理想が入りこんだのだ。この憲法に。私はそう思う。そんなことから、この憲法の基本的人権の思想はもはや今までの古い人権思想ではない。ましてや狭いニッポンジンの人権だけを謳っているのではない。憲法作成時の色んな人のその時の思い、夢や理想をはらんでもっと徹底して、全世界のすべての人々、西洋人だけでなく東洋の人も、白人も黒人も褐色人種も含んだあらゆる人々の人権を謳っているのだと思うのである。

この徹底した基本的人権と同じく、もう一つの重大な徹底主義というか、極限に行きついたものがこの憲法の重大なもう一つの柱、「平和主義」なのだと思う。9条である。人類史上初めてなのである。いわば、「戦争のための武器武具を破棄します、したがって戦争をしませんし、戦争ができません」と一国が無防備で自らの体を投げ出したようなもので、こんな国家は歴史上かってなかった。大変な犠牲の後で、もうコリゴリという厭戦気分と平和を希求する世界中の人びとの前で、世界中でいの一番に極端と言ってもいい徹底した平和主義を宣言した、その勇気、この憲法のこの理想主義。私たちは、戦後の出発に当たってこの憲法に接して多くの人が感じた安堵、明るい未来が訪れる予感、理想を胸に持つときめき等々、感じたものは様々だったであろうが、そのことを思い返し、この憲法を迎えたものが決して反発や嫌悪、誹謗中傷など悪意に満ちたものでは無かったことを忘れてならない。この憲法のこんな“人類史的意味”に気付くとき、私はこの憲法を誇りに思う事こそすれ、情けないなどとは決して思えないのである(ところがどうだ、今やこの国の首相自身がそしてその周辺の議員たちがこの憲法は情けないものという固定観念を持たされる時代になってしまっているのだ。これでは彼らがよく言う、自虐史観ならぬ自虐憲法観ではないか?)。

ここまで書いて来て、私とはチョット違う部分もあるかもしれないが、私以上にこの憲法の本質について的確にとらえているなあと思われる記事に出会ったので引用する。コメント者は、作家の赤坂真理さんという方である。「私は憲法9条を手放しで評価してはいない。(中略)けれども、9条は保持されるべきだとも思う。敗戦国の民の「もう戦争はごめんだ」というはらわたからの実感と、占領者のある層にあった理想主義が、冷戦構造の中でぶつかり編まれた美しい詩。私は憲法9条を、そうとらえている。世界史上でも類を見ない、出会いとタイミングの奇跡。それを日本人が「受け入れることを選んだ」という事実。これは世界の人々に知られる価値がある。(後略)」(2014・10・15、朝日新聞)

ここで赤坂さんは“占領者のある層にあった理想主義”が、編み込まれたと書いているが、私はもう一人の別の作家のことも思いだす。古いものだが、武者小路実篤の作品に「人類の意志に就(つ)いて」という一著がある。向日性豊かなヒューマニスト、オプティミスト(楽天家)として有名な彼だが、彼によると人間というものは確かに愚かで醜い側面もあるが、人間の背後には“人類の意志”とでもいうものが働いていて、どういう風に働いているかはわからないとしても、“人類の意志”は人間が幸福になることを願い望んでいるのだというのである。“造物主の意志”、“神の意志”とでも言い換えることもできるかもしれないが、彼はいかにもヒューマニストらしく“人類の意志”という言葉を使う。さてその働いている具体相を、愚かな人間には見えも分かりもしないが、ただ、その意志に合った行動をすると人間は幸福を感じるようにも作られているんだという。例えば、人間にとってある意味やっかいな性欲という問題である。人間の幸福を願っているはずの“人類の意志”が、どうしてして青年たちを悩ませ困惑させ、そのことが原因で時には格闘もし死に至ることもあるほど強い厄介な性欲を与えてしまっているのか?ここで彼は言うのである。人類の意志は人間の幸福を願っているが、人間が絶滅してしまっては元も子もない。さてその人類が絶滅しないで存続するためには男女の婚姻ということが不可欠である。しかし、もし、男女が何らか別の面白いことに熱中したり、あるいは大して相手に関心を持たないように作られていたら、結局、人類は絶滅してしまうかもしれないではないか。そこで“人類の意志”はそのことを恐れるあまり、いついつまでも人類が存続することを望むあまり、両性それぞれに相手に魅かれあうよう、いささか強めに性欲というものを配合したのだ、というのである。しかも、男性には少しばかり強めに、、、というのである。性欲は悪いものではない、自然なものであり、厄介さのその中にも“人類の意志”の人間に対する善意が働いているというこの世界観、人生観、若き日これを読んだ時に、この一種ユーモラスな説に何だか安心させられホッとしたことを覚えている。が、さて、私は、この武者小路実篤の、人知では分からない所で秘かに人間たちの幸福を願っているという“人類の意志”という考え方をもって、日本国憲法というこんなにも前衛的な不思議なものが、どうして日本に生まれたのかを説明できないだろうかと思う。日本国憲法誕生の混沌たるあの時代に、あの歴史的変革期独特の雰囲気とそこに生きる人々の独特の心情の中で、立ち会った人々の上にこの武者小路の言う“人類の意志”とでもいうべきものが働いたのではなかったであろうか?人間たちの幸福と人類の永遠の存続を願って、、、、、、そんなことを思うのである。

————-

2. 完全版 ノンポリ市民の憲法論

 

「チョット立ち止まってノンポリの一市民の私が憲法について考えてみた・・」

       ノンポリ市民の憲法論 

【日本で初めて行われるかもしれない“国民投票”に、自分なりに備えておく】

――現時点で、憲法の諸問題(特に9条問題)を、私はどう考えればいいのか?

―――

                相模原市 池田力(72歳)

        目次

第一章 憲法論議の“いま”について

    ・活発な意見交換の場を

    ・「国民投票」、いよいよ間近?

    ・政治と日本人、投票と日本人

    ・保守化傾向と言われる若い人の置かれた現況は?

第二章 現憲法への五つの批判について

    ・なぜ情けない憲法と言われるのか、彼らの言う“普通”とは?(五つの批判)

    ・五つの批判以外にある重要な論点、憲法の“キモ”について

第三章 まず、四つの批判に反駁する

    ・①押しつけ憲法という批判

    ・②日本無力化弱体化の目論見があったという批判

    ・③不甲斐ない丸腰憲法という批判

    ・④翻訳調の悪文という批判

第四章 ついで、五つ目の批判に反駁する

    ・⑤自衛隊の違憲・合憲論争の周辺

第五章 この憲法についてのもっとも肝心な議論(日本国憲法の“キモ”について)

※補足 ①“自虐憲法観”を脱ぎ捨て、この憲法に自信と誇りを!真の護憲活動を!

第一章 憲法論議の“いま”について

  • 活発な意見交換の場を、、、

憲法や改憲問題についての自分の考えを整理し吟味するに当たって、こんな会があって(改憲問題を心配してネット上で忌憚ない意見交換をしている、主として関東近辺在住者、米国ミズーリ禅センター主宰の僧侶・吉田魯参老師たちからなるネット上の集まり。➡www.heiwasekai.org)、会の皆さんの活発なやり取りに触れられるのはホントに参考になって有難い。考えが鍛えられ、幾分なりとも自分の考えを精緻にできるような気がする。今回、私も初めて、憲法問題を巡って頭の中でもやもやしていたものを文章化したが、事実誤認や考えの展開に不徹底なところやおかしなところもあるかもしれない。ぜひ指摘、批判、ご教示をお願いしたい。もやもやしているものを形にするのに、普段はノンポリの自分はあちこちさ迷ってA415枚程度にもなってしまった。冗長なもので気が退・ひけるが、こんなものでも誰かの参考になるだろうか?そんなことも思いながらの送信です。大事な時です。みんなで活発な憲法論議をいたしましょう。(長いですから、第一章は前置き的な助走部分ですし飛ばして読んで頂いても結構です。また「ダイジェスト版」を読まれた方は第三章、第四章のみお読みください。他の部分はほぼ「ダイジェスト版」と同じです。)

  • 「国民投票」、いよいよ間近?!

さて、現政権は2018年にも改憲の発議をするという段取りも考えているらしいから、私たちは、いよいよ『国民投票』という日本人初めての経験を近日中に目の前にすることになるのかもしれない。70数年の長きに渡って私たちを律してきた国の基本の法律の改変についてどうするか?という事で、考えてみると大変な事であるのだから、投票するにあたって改めて自らの考えをシッカリと持っておきたく思うのである。シッカリ持っておくということは、対立する見解の持ち主にもキチンと説明でき、あたう事ならば相手を説得し得るほどに、現実に対するしっかりした認識、そして論理、と同時に、理想や価値について空疎ではなく、分かりやすく訴えるだけのモノを自分の中に構築しておかねばならないということだと思う。しかし単に信ずるところを述べ合うだけではそれぞれが“信仰告白”しているようなもので、いつまでたっても平行線。できるだけ冷静に意見交換したいものだ。

  • 政治と日本人、投票と日本人?

政治的な問題について普段からあまり事々しく議論する習慣のないわれわれ日本人である。今までに前例の無い『国民投票』となったとしても、ひょっとしたら多くの人の投票行為は、議員を選挙する際の従来の投票行為とさして変わりなく、漠然たる好悪の感情やその時のフィーリングで投票してしまうのかもしれない、、、そんなことも思ってしまうのである。多分、自民党支持者は「自民さんの言う事なら間違いない、自民さんに任せとけばいいんだよ・・・」的な投票を、つまりは改憲賛成の投票を、投票所まで支持者同士誘い合って今回もするのだろう。そんな印象を抱いてしまう近所の、地域の、自治会の(普段は気のいい)おじさんたち・おばさんたちは、我が家の周辺にごまんといるのだ。そんな安易な投票行為が、投票率の関係でまたもや意外と功を奏して「改憲ゴー!」とならないか?心配なことである。

  • 保守化傾向ともいわれる、若い人の置かれた状況は?

若い人の動向も気にかかる。彼らは私たちの世代(私は昭和20年、つまり敗戦の年生まれの72歳)のような、いわば現憲法を賛美し、戦争の悲惨さを忌避・告発し、平和主義・非戦主義の新憲法を誇らしく声高に語る空気の中では育っていないのではないだろうか?

憲法といえば私たちの時代には「世界に誇るべき私たちの日本国憲法・・・・」といった一種の新憲法賛嘆の雰囲気があって、私は時々ふっと思うのであるが、自分の護憲の態度は幼少時代からの、この一種の雰囲気による刷り込みに由来する部分もあるいは大きいかもしれぬと思わされる時があるのである。その意味では今の若い人びとは、そんな刷り込みどころか、むしろ逆の刷り込みを受けている世代といってもいいのかもしれない。もう長い間、彼らは「この情けない憲法・・・・」というトーンにさらされ続けているのではないだろうか?本来自分たちの「憲法を尊重し擁護しなければならない」自分たちの国の首相ですら、何と、いつの間にか、すっかりあからさまに現憲法を軽んじる雰囲気を醸成している原因になっている。彼の言う所によれば、つまるところ、『世界の多くの国の憲法とは異なる、(その意味では)“普通”ではなく、(したがって彼らには)“情けなく感じられる”憲法を変えて、(彼らの言う)“普通”の憲法にして、“普通の国”になりましょうと言っているだけなのですよ』ということなのだが、この言い方は、若い人たちにとっては多分、中々に反駁しにくい、つまりは説得的に働くもの言いに思われる。そこに大きな落とし穴があって、その点について次段以降に掘り下げて考えてみたいのだが、ともかくもそんな事が大きな一因となって、結果的に現在、改憲に同調する人の割合がかなり増え、更には選挙のトリック(選挙制度やその運営の諸問題)で議会では既に改憲派が多数になってしまった。こうして、最近の「憲法改正発議、国民投票も近いか?」という事態に立ち至ったのだと思われる。

第二章 現憲法への五つの批判について

  • なぜ「情けない憲法」と言われるのか?また彼らの言う「普通」とはどういう意味か?

では、改憲派の人たちが現憲法を「情けない憲法、普通でない憲法、」と言うのは、どんな理由からなのか?もう少し詳しく見てみると、よく耳にするもので、おおよそ次のような数点のことがある。

  • この憲法は戦勝国アメリカによって押し付けられた憲法である。

  • アメリカは、日本が将来にわたって二度と立つことができぬように日本人から武器を取り上げて徹底的に無力化を図った憲法である。

  • 非戦・平和を美々しく謳っても、何ら武器を持たず丸腰では、家族も同胞も恋人さえ守れず、無抵抗主義の意気地無しの憲法である。

その他に、あまり重要なものではないが、次のようなものもある。

  • 日本語としては翻訳調の分かりにくい悪文ではないか?

(更にもう一つ、②と③の武器・武力に関係することで、自衛隊についての議論がある。)

  • 災害救援活動等で功績大きい自衛隊という存在を、丸腰主義から逸脱するもの、つまり憲法違反だと言い張る人もあり、自衛隊の存在が誰にも認められるよう現実にあった記述に憲法を変えるべきである。

というものである。これは、この、「憲法が情けなく、普通でないから変えよう」という議論というよりは「ただ現実に合わせたものに変えよう」という議論と言えるが、この論点は実は大変重要な論点であるし、議論が盛んに戦わされるところだから、ここに挙げておきたい。以上①~⑤について箇条書きに述べてきたが、さて、こう並べてみるとこれらの論点は、現憲法批判として何とも実に分かりやすく、若い人に限らずけっこう多くの人に、ある意味強力に(?)訴える力があり、憲法改変に向かって説得力の大きいものとは言えよう。

  • 上記以外の,もっとも重要な第⑥の論点、いわば“キモ”の存在ということ

 さてそれでは、これらの改憲派の人々がよく言う議論で、現憲法が批判され尽くし、破棄されるべきものとみなしうるかどうか?である。結論だけ言うと、私はこんな、小学生も納得させ得るような分かりやすい、別の言葉で言えば卑近にされ過ぎ、矮小化された議論では届かない、この憲法に関する重要な、いわば第⑥番目の論点があって、その肝心の部分(この憲法自体が有する歴史的な意義とか価値等に関する議論)については何ら触れられていず、従ってその事については未だ多くの人に十分に意識化されていないように感ずるのである。そのことを意識しないで憲法を語るのは、一番さわりやすいところのみを話題にしているだけで、現憲法のもっとも大切なところ,いわば“キモ”に触れないで憲法を語っているに過ぎないと思うのである。例えて言えば、ある一人の人間の事について語るのに、その出自や生まれがどうの、話し方に外国なまりがあるの、財や持ち物が乏しいだの、はてはこんな評判があるだのというその人の外面的な事のみで批判するようなもので、肝心のその人固有の人間性や人格、つまりは本質に何ら触れないでするようなものと言えよう。つまりは誰にも分からせやすい、攻めやすいところを取り上げ、対象を貶めるための、いわゆる「ためにする議論」ではないかと思うのだが、ともかくも、この第⑥の最も大切な論点については後で再度とりあげ考えてみなければならないとしても、①~⑤ののそれぞれについて、それらが現実に多くの人を改憲の方向へ引き込みかねない一種のチカラを持っていると懸念されるがゆえに、一つずつ自分なりの見解をざっと整理しておこうと思う。

第三章 (はじめの)四つの批判に対する疑問と反論の試み

  • ①の「押しつけ憲法」論議について

 まず、この議論に関連して、たまたま目にした文章であるが、終戦後その優れた国際感覚や英語力から吉田首相を手伝い、GHQと様々な折衝場面に立ち会ったという白洲次郎という人の文章に少しだけ触れてみたい。彼の回想を読むと、ある意味当然のことだろうが、米軍将校,係官など勝者アメリカ側の、敗者日本側に対する傲岸な態度にはたびたび悔しい思いをさせられたらしく、文章中にしばしばそんな表現が出てくる。現憲法が出来上がる正にその経過中に政権中枢近くにいて、その過程を実見しての感想だったのであろうが、彼の表現によると憲法についても、あちこちでくやしさの感情と共に、キッパリと「押しつけ憲法であり、自分たちで作るのが一番いいのだ」という趣旨のことを言ってもいる。しかしその一方で、彼は「この新憲法の根本は結構なことだと考える」とか、「新憲法のプリンシプルは立派なものである。主権のない天皇が象徴とかいう形で残って(中略)政治の機構としては何か中心のアイマイな、前代未聞の憲法が出来上がったが(中略)、しかし、そのプリンシプルは実に立派である。」とか、さらには「マックアーサーが考えたのか幣原総理が発明したのかは別として、戦争放棄の条項などその圧巻である。押しつけられようが、そうでなかろうが、いいものはいいと率直に受け入れるべきではないだろうか。」と述べるようにもなっていて、その辺の時を経るうちの彼の文章のニュアンスのバリエーションを面白く感じたのであった。あまたある当時の回想録の中で中々に面白いもので、余裕のある向きは一読されるといいと思うが(白洲次郎「プリンシプルのない日本」新潮文庫)、さて、この①「押しつけ憲法」論議に関しては、私の場合もたとえ押しつけられるという事情が当時あったとしても、この憲法の重大な瑕疵(かし)(欠陥・きず)とはもう思わなくなっている。押しつけかそうでないかと論争し合い、もうこれ以上かかずらうのは値打ちのない論点と思うのである。極端な話が「自主憲法」であればはたしてそれで良い憲法と言えるであろうか?自主憲法ができても中身が悪いものであれば何の意味もないことである。自民党をはじめ憲法草案が出始めてもいるが、さて、それらは多くの問題も指摘されており果たして、全国民が賞賛しうる立派な憲法草案となっているか?疑問であろう。

 しかも、考えてみると押しつけとはいえ当時の我が国の議会に置いて、提案され様々な議論の末に、我が国の議会が承認、つまり“のんだ”のである。更に聞くところによると、この押しつけ憲法を議会に提出したのは、現在では押しつけ憲法を批判している現在の自民党のいわば系譜上の先輩諸氏(?)たちであり、反対に現在では9条護持の立場の共産党が、戦争放棄等の条項に疑義を出したとか言う事情もあったとかで(それほどに9条というものは当時の常識では想定以上の内容であったともいえる)、現在とは立場が逆になる。それが本当であればつまり、自分で提案して通したものを、後になってあれは押しつけられたものであった、実に情けない憲法であると言っているが、情けないのは誰やらん、押し付けられるがまま通してしまった自分たちだったということになる訳で、そうすると何だか訳の分からぬなんとも滑稽な「押しつけ憲法論議」ではないか。ともあれ、①の論点についてはあまりこだわるのは愚かしいことであり、もうこれぐらいで止めておきたい。要するに憲法を作る過程よりも最終的にできた憲法の中身が良いか悪いかが根本の問題である。

  • ②のアメリカによる日本無力化の策謀(?)論について

 本当にアメリカ側の対日政策を決定する大元の所(大統領?マッカーサー元帥?)でそんなハッキリした方針があったものかどうか?、証拠となる資料を提示して論証した学問的研究があるのかどうか?一つのうわさ話に近いものなのかどうか?一市民に過ぎない私は知らない。しかし案外、やっと長い苦労した戦争が終わって厭戦気分に全世界の人々が襲われており、駐留米軍の間でも、他国の憲法とはいえ一国の基本となる憲法を、新しく戦勝国側で試作するとなった場合、できるだけ良いもの、その当時の人間が抱く理想や夢を盛り込んでみようという動機がひょっとして働かなかったであろうか?いやいや、そんな甘いものではなく、「この国の野郎、苦労させやがって、二度と立ち上がれぬようにしてやるぜ」とばかり、懲罰的、報復的気分だけで、悪意の草案作りをしたのであったろうか?あの時代に、戦に勝った超大国が、息も絶え絶えの吹けば飛ぶような小国に対して、、、。あるいはひょっとして、そのどちらの気分も混在していたのかも知れないが、先に挙げた白洲次郎の文章にも「マックアーサー氏が憲法で戦争放棄を規定したのは文化的の前進だとか、進歩だとか(中略)自画自賛していた云々、、、、」というような文章もあり、意外とアメリカ側でもいいものを作ろうともし、仕上がりも自画自賛するほどに完成した達成感みたいなものを感じたのであったかもしれない。そんな見方もできないだろうか?もっともこんな想像は私個人の勝手な想像の産物なのであるが、悪意ばかりではなかった一つの傍証として、ベアテ・シロタ・ゴードン夫人の回想のような、ちょっと感動的な話も残っており、アメリカの悪意の策謀の産物とばかりは言えないのではないかと思うのである。子ども時代を日本で過ごした経験のある夫人は、戦後来日してGHQ民生局のスタッフとして憲法草案作りに関わり、ヨーロッパの憲法を参照したりしながら、当時の状況下でできる限り可能なリサーチ(調査研究)をして、新しい憲法の中に、日本人のために理想的な条項を組み入れようとしたのであった(J・ユンカーマン監督、DVD「映画日本国憲法」、およびNHK番組「アナザーストーリー・誕生!日本国憲法」2017年制作参照)。

さて、上述のような観点から、たとえ言われるような悪意の策謀があったとしても、私の場合、この議論も、「押しつけ憲法」議論の場合と同じく、どこでどういう策謀があったか明らかでない反面、良い意志が働いた事実が確認されてもいるので、むしろ一種の余裕さえ感じながら、「いいではないかできたものの内容が立派であり、いいものが生まれたのであれば、、、」ということで決着がついているのである。要するに最終的に出来上がった中身の問題である。

  • ③の、「丸腰・無抵抗主義の意気地なし憲法」という議論について

 この論点については従来、“強盗論(?)”というものがあって、よくたとえ話としてこんなことも言われる。「君の家に強盗が入ってきて凶器を持って君や家人を脅迫し暴行を加えるとしたら、備えも無いまま、あなたはなにもしないで強盗にされるがままでいいの?何という情けないことではないか!」というようなものである。実は自分もある機会に、一人の見るからに真面目そうな青年からこの点に関して質問され、論争(?)を挑まれたことがある。もう、一昨年になるが、作家の澤地久枝さんと俳人の金子兜太さんが政権批判のために作成して、日を決めてゼネストならぬ全国一斉掲示しようと呼びかけた「アベ政治を許さない」というポスター。集団的自衛権等についての政府説明のあやふやさに憤慨してか、私の住む地域でも当時かなりの盛り上がりがあって、30数人がこのポスターを持って、さる私鉄の駅頭にズラリと並び、私もその中の一人として立った時のことである。こういうデモンストレーションをする時に、いつも感じるのであるが、現場で必ず他の話題・テーマのビラが配られたり(たとえば、南京虐殺のこととか、731部隊がどうとか、従軍慰安婦問題についてとりあげたチラシ等である)、「アベ政治を許さない」ポスターの掲示とは別に、「戦争反対」というような自製ポスターを持って立つ人も混じる。彼らなりに考えてこの機会にこんなビラやポスターも配布・掲示すればより効果的だと思っての行為なのだろう。しかし、ビラやポスターの文言が多様になれば、テーマが広がってそれぞれのテーマごとに賛否も多様になるから、本来の「アベ政治を許さない」のアピール力が弱まるし、更に困る事にはこの一斉掲示というデモンストレーションそのものが、一種共産党的な色合いというか雰囲気を持つようになるということである。おそらく共産党系の人たちがよくそういうビラ配りをしており、運動のやり方がパターン化しているのかもしれないが、困ったことに日本人の中には根強い“アカ”アレルギーがどうやら残存しているようで、不幸にも色を付けてみる習慣が出来上がっており、それへのいわれ無き反発も結構ある。他の政党と同じように単に一つの政党として見られなくて、一党独裁の社会主義国を連想して警戒されるのだろうか?どうやら無党派の私も共産党の方々の一派(?)に見えたのかもしれない。ポスターを持って立っている30数人の、一番端に立っていて声がかけやすかったこともあるかもしれない、通行人の中の何人かが私のところにやって来て曰く。いずれも大体同じ内容だったが、どの人もこの自製ポスター「戦争反対」が引っかかって私のところへ来たのだった。「あそこに戦争反対と書いてあるけど、戦争に反対なのは誰だって同じでしょ。あなたがそうであるように私も戦争は嫌だ。でも戦争反対と叫んでいるだけで戦争が起こらないような、現実はそんなきれいごとじゃない。問題は戦争が起こってしまった時、どうするかだ。ならず者国家が侵攻して来たら、その時、あなたたちは何もしないで丸腰でやられっぱなしなの?不甲斐なくない?」というようなもの。先に述べた青年はもっと端的に言ったものだ。「北朝鮮が日本海側に攻めてきたらどうするんですか?尖閣諸島に中国軍が上陸したらどうするんですか?」この時に、私が真面目そうなこの青年および論争を挑んて来た他の大人達と具体的にどういうやり取りをしたかについて詳しいことは省略するが、この問題に関しての自分の基本的な考え方について以下に整理してみたい。

さて私の所へ質問に来た数人の気持ちを要約すると、だいたい次のようだろうかと思われる。「丸腰でいることの危うさが危惧されてならない。「アベ政治を許さない」を掲げて立っている(改憲反対の立場の)この人たちは、丸腰で怖くないのか?丸腰のまま、結局は何をされても無抵抗でされるがままの不甲斐なく、情けない(?)人々じゃあないか?」

私は、国家が丸腰でいることの危うさについては当然の感情であり、すでにこの憲法が発足する時点にも有ったと思う。誰だって無防備でいることは怖い。だからこそ共産党からでさえ国会での新憲法議論の最中、9条に関していわば「軍がなくて大丈夫ですか?」という趣旨の質問が出たらしいということは先に述べたが、このことひとつ取ってみても、この9条がいかに当時の一国の憲法の条項として、常識はずれのものであり、他に例を見ないもの、つまり“普通”ではないものであったか、ということを示していよう。実は、安倍さんはじめ改憲派の人びとは、この“普通”でないということを、どんなに“普通”でなくいわば非常識であるか、異常な事であるかのようなニュアンスで取り上げ、「だから、“普通」”のものにしましょうよ、当たり前のことでしょ」と大衆に迫るのであるが、まさに、ここのところが致命的なすれ違いが発生するところなのだ。つまり、この憲法の考え方たるや、「もう“普通”たることをやめよう!」というのであり、「世界のどこの国もが、今まではお互い疑心暗鬼で武備をし、殺人用具に莫大な金銭をかけるというのが“普通”であったけれども、もうそろそろその“普通”をやめませんか?」ということなのだと思う。つまり、9条は非常識かつ異常な条文ではなくして、大変な斬新的、前衛的なものであった訳で、更にもっとハッキリ言うならば、相当高次の理想、つまり、もう人類はお互い戦争をしないような時代にしなければならない、戦争などはやれなくしておいていいのだ、というような、当時の人々の気分がつまって誕生したのではないかと私は思うのである。武備がなくても、今後の世界は新しくできた国連や国連軍に頼れるだろうという気持ちもあったのかもしれない。ともあれ東海の小島である我々の国は70数年前、丸腰たることの恐怖を乗り越えて、これからはこれでやっていこうと世界に先駆けて宣言したのだと思う。“普通”、つまりありきたりの国をやめて理想の国にしようとしたのだ。こう言うのが日本国憲法の原点だと思う。この“前衛性理想の高さと当時の人々の決意”を私は大事にしたいと思うのである。

こんなところが丸腰主義についての自分の基本的な考えだが、さて、では丸腰状態で侵略を受けたらどうする?という問題である。丸腰主義がこうむる危うさにどう対処するかという問題である。憲法では「無抵抗でいよ」とは一言も言っていない。まして、やられたら「殺されなさい」とも言っていない。護憲派の人々の中には「やられたらやられるままでいい、殺されても無抵抗でいいんだ・・・」という考えの人も居るかもしれないが、私の場合はそれは取らないし、そういう考えは多くの国民の支持を得ないだろうと思う。悪くすると「だから護憲派はダメなのだ・・・」となりかねないし、ひいてはそんな答えを聞いた人を改憲派に追いやってしまいかねないではないか。

ではこの質問にどう答えるか?これはもしかしたら改憲vs.護憲の対立の、もっとも先端的なというか、通俗的なところで目立ちやすい争点かもしれない。私の場合は、現場で青年からこの質問をぶつけられた時、正直、この青年をがっかりさせたくないというような気持ちも働いた。「やっぱりそうだった…この人たちは丸腰を金科玉条、やられっぱなしでいいんだ、不甲斐ないことだ・・・」と思われたくなかったのだ。意気地なしと思われてしまうのも少々抵抗があった。人間は弱いものである。ミサイルが飛び、爆撃標的としては極めて有効な危うい原発が乱立している日本に、他国からの通常兵器による侵攻などという事があり得るのか分からないが、万一あるとして、他国兵による殺戮でも始まれば我先にと逃げ出すかもしれない。その時どうするかはその時になってみなければ分からないともいえる。しかし、駅頭で勇気を奮って論争を挑んできた青年が相手である。「その時にならなければ分からないよ」では少々無責任すぎる。結局私はこう答えたものである。「ここにポスターを持って並んでいる人びとそれぞれのやり方があるでしょうが、私は他国兵による暴力・略奪・殺戮などを為されるがままにはなりません。家族・同朋・恋人を守るために当然戦いますよ。現状ではすでに丸腰とは言えない事情となっており自衛隊があり、したがって自衛隊の人々ももちろん駆けつけるでしょうから、彼らに協力し、一緒に戦うことになると思います。つまり、改憲反対派イコール無抵抗主義とは限らないで、私のような人間もいる訳です。私たちがやっているのは、特定の政党、あるいは特定の考えの活動ではなくて、安倍政治がおかしい、彼の政権の元での改憲は危ないの一点で一致して、協力して活動しているけれども、共産党の人もいれば私のような無党派もいる、場合によれば自民党の人だっているかもしれない。そのことは改憲派にもいろんな立場があるのと同じです」こんな会話を交わして青年とは別かれたのだった。

しかしここで一つ、この答は護憲論からすると少しばかり矛盾を含むことにもなる訳で、つまり、護憲の立場でありながら、駆けつける自衛隊と協力して戦う、ということは、つまり「あなたは自衛隊の存在を認めるのですね」と言われることになりかねないという問題がある訳だが、この点に関しては、青年の質問に「現状では私はこうするだろう」と言ったまでであって、自衛隊を認める認めない、あるいはそもそも自衛隊の違憲・合憲論争というような、ある意味厄介な論議の多い問題については次項以降でまた触れることにして、とりあえず、③の論点について、「この憲法は丸腰主義だが、無抵抗主義でも意気地なし憲法でも決してない」という自分なりの見解を述べて終わりとしたい。

※【少々の補足】

実はこの論点“丸腰主義”に関しては、もっと考えなければならない大きな問題が伏在している、そんな気がずっとしている。たとえば、❶他国の侵攻を防ぐには、(ある同盟国の武力に守ってもらうという事も含んで)しかるべき規模の軍隊など武備をしておくという事しか本当にないのか、それとも実はそうとは限らないで、丸腰主義で他国の侵攻を防ぐ道、あるいは侵攻の意図を起こさせない道はないのか?(例えば、憲法発布以来70年かけて世界の各地で平和貢献活動を積み重ねていたならば、もし世界から尊敬され重んじられるような国になっていたならば、そういう世界の人々の感情や評価は侵略意図を殺ぐかなりの抑止力となり得るのではないだろうか)という問題とか、あるいはまた、❷丸腰で、軍事なるものを放棄するということになれば、そのかわりに軍事に注いでいた人的エネルギー、莫大な金銭でその国民は何を為すべきか?という問題などである。

侵攻を防ぐために武備をしておくというが、武備をしておけば侵攻は起こらず戦争は起きないか?ということに限れば、今までの歴史で明らかなようにそうではなかった、武備を重厚にしていても、あちこちで戦争が起こり続けてきたのが今迄の歴史であり、むしろ武備は武備を呼び、互いに相手より強い武器を用意しなければ安心できないことになり、果てしがない軍拡競争に陥るのは、論理的にも必然であり、歴史的に実証済みである。が、ではそうかといって丸腰になればかえって侵攻を呼ぶではないかという理屈も当然あり、なかなか落着しない。実はこのへんの問題については、現憲法の丸腰主義というものの積極的意味という事に関して、いろんな角度からの発言があり(例えば、和田重正「国家エゴイズムを超えて」「自覚と平和」(白樹社など)、田崎末松「平和戦略論」(平和戦略総合研究所)、小林多津衛氏の赤十字国家論など)、考えを進める際に、大いに参考になるが、ここではそれを詳しく紹介する余裕がない。これらの所論を少しだけ自分なりに要約すると、「丸腰でいて、ただ戦争は嫌だ、平和がいいと唱えているだけでは何の力もない。平和を守るための、具体的行動を考え、それを実践するべきところを、戦後70年間、我々日本人がしてきた実践行動といえば、何らかの行動を起こし世界のために貢献するというようなことではなくて、一時期のエコノミックアニマル・マイホーム主義などの言葉に象徴される、ひたすら自分たちのための、自分たちが肥え太るための行動が主だったのではないか?」という指摘であり、軍事に向けるエネルギーを、平和を達成する方策と実際的行動に向けるべきだという主張と言えよう。以下に、田崎末松氏の所説だけ引用しておくが、その文中にある「血のにじむような平和創設のための行動と努力」とは具体的にどういうものかについては上記田崎氏本人、和田重正氏の著等を参考にしながらもっともっと考えなければならないと思っている。

『日本の安全保障政策の致命的欠陥は、平和憲法の存在のみを強調し、“平和憲法があります”という事を、お題目のように唱えることによって安全保障が得られると錯覚したところにある。平和を賛美し、戦争を呪詛し憎悪するという情熱だけで、複雑な国際社会における安全を確保することができると盲信したところにある。平和憲法は存在そのものに意義があるのではなく、血のにじむような平和創設のための行動と努力をもって(中略)初めて存在価値があるという事、を自覚しないところにある。』『平和憲法の精神を充足し発展せしめるためには、ただ手をこまねいている消極的なものでは不可能である。』『遺憾ながら日本は、平和憲法と平和主義の美名にかくれ、安全保障の原点を忘れ、アメリカに対しては(中略)安全を保障させつつ、ひたすら経済成長一本槍でついに経済的大国にまでのしあがった。』

  • ④の現憲法の文章が悪文であるという批判について

 文章が翻訳調で分かりにくく悪文だ、という人もあるが、反対に格調高く美しいという人も居て、中には暗唱するほど熱烈なファンもいる。要は憲法をその人がどう思っているか、その価値づけに対応して意見が分かれるようだ。現憲法が好きな人は文章も美しいと思い、格調高いと感ずる。そうでない人は何だか分かりにくい翻訳調の悪文だと貶したくなる。そんなところではあるまいか?私自身は、法律の文章はまあこんなものだろうと思っていて、一文章が長すぎてかみ砕きにくく正直分かりにくい言回しのところもあるが、思わず志操を高められるような高揚感を感じさせられるような感じを受けるところもあり、悪文だと言って片づけるのはどうかと思う。むしろ格調の高さに思わず背筋を伸ばしてしまう方である。

第四章 (最後の)五つめの批判に対する疑問と反論

○⑤「自衛隊の存在と憲法9条との齟齬(そご)矛盾(むじゅん)をどうするか」という議論について

この論点も、憲法誕生後70年間の時を経るうちに、制度も政治状況も様々な変遷があり、我々の頭を混乱させ、妙にこんがらがり、屈折し、落ち着いた冷静な話し合いができにくくなってしまったような印象がある。例えば、ごく真っ正直に、普通の健康な読解力と観察眼で、憲法を読み、そして自衛隊を見た時には、誰もが「自衛隊は憲法と矛盾する、つまり憲法違反である」と判断するしかないであろう。しかしである。何だか今の日本では(いや、安倍さんはじめ多くの自民党議員の前では、といい直すべきか)、こうハッキリ言うと、「あの災害救援などで労をいとわぬ働きをする自衛隊員を、お前は憲法違反の存在というのか?」と責められるような雰囲気があるのだ。そしてどうやらまず、こうなるようなのだ。「だから護憲派はダメなのだ。災害など一朝事がある時に、我々がお世話になる自衛隊員を違憲だと言って肩身の狭い思いをさせないよう、憲法に位置づけるべきなのだ!」と。まっとうな感覚と判断力で思ったまま正直に「それは違反していますよ」と発言するのが、はばかられるようなことでは困ったものである。

 

しかし冗談ではないと言うべきだが、今日に至るまで自衛隊員に肩身の狭い思いをさせるようなことをしたのはむしろ、(護憲派ではなく)1951年当時の朝鮮戦争などの政治状況からアメリカ側の言うままに、今日の自民党諸氏の先輩が「これは憲法違反ではないです。軍隊ではなく警察予備隊と言って警察みたいなものです。」と姑息にも言葉の綾で実質は軍隊(いわばアメリカの押しつけ軍隊とも言えるかもしれない)をコソコソ作ってしまったことに発するのであって、それ以後名前を変えた自衛隊は何となく中途半端な日陰の存在の雰囲気がまとわりついたのではないか!つまり、原因を作ったのは改憲派だと言えるのであって、「だから護憲派はダメなのだ」とは実に呆れたもの言いだと思うのである。例え話にしてみると、みんなが集まって決めたやってはいけない大事な決まりがあるのに、怖いAくんに迫られて、禁止されているモノを、「いえ、これはそれではありません」と言いながらコソコソと作ってしまったJくんであったが、ところが作られた当のモノが、それ自身の大変な汗水を流して多くの人びとの助けになり、その結果、みんなから感謝される事態が発生、それを見たコソコソJくん、自分が汗水流した訳でもないのに、横合いからしゃしゃり出て来てすっかり態度も大きくなって、「私のやったことは悪くなかったでしょう? で、相談なんですがね、みんなで決めたあの決まり、いっそ変えちゃって、禁止など取っ払ってもらえませんか?」と言うのはもちろんA君はアメリカ、Jくんは自民党の略で、下手なたとえ話だが、この程度のことなのだと思う、安倍首相などの言っていることは・・・。ともあれ、こんなこんがらがってしまった議論の中で、私自身はこの論点に関して以下のように考えることにしている。

★まず普通の理性で憲法を読み、私は当然の判断として自衛隊は違憲であるとハッキリ高らかに発言する。だからといって私は、今の状況下で、君たちは違憲だ!と自衛隊を批判したりしないし、自衛隊を即廃止すべきという意見は取らない。(そんな批判や即廃止を主張することはあまり現実的ではないからである。いつも懸命な災害救助活動に邁進している自衛隊員の姿を見るにつけ、私は本当に大変だなあと有難く思っているし、彼らの批判などとてもする気になれない)「違憲である」と明言するのは自衛隊を貶(おとし)めるためではない。単に文面上、そしいて客観的事実上、違憲としか読み取れないから、率直に違憲だと言うだけのことである。

★しかし自衛隊が違憲としか読み取れないからといって、憲法の方を(自衛隊が合憲と読み取れるように)改憲しようという見解は、当然のことながら取らない。つまり、安倍総理の「自衛隊明記」という考えには反対である。これはハッキリ言えば、今ある現実に誰もがあるべきと思う理想を合わせるという行き方と言えるが、ありていに言ってみれば、アメリカ側に言われるまま(この悪癖は安倍さんはじめ今日の自民党にまで続いているようだ)コソコソ作ってしまったモノ、という現実の方に、(大変な犠牲の後に産みの苦しみを経てやっと誕生した、世界が望む)理想を引き下げて、つじつまを合わそうという本末転倒のやり方ということである。それは、現憲法の普遍性、前衛性、斬新性や70年前発足時の、人々の(もう戦争はやらなくていいんだ)というホッとした気持ち、「これから我々は戦争の無い世界を創るのだ」という高揚した理想心、それを実現しようとする決意を全く台無しするものであると私は思うのである。また、自衛隊明記すなわち軍隊の所持を明記するということは、ハッキリ言ってしまえば、何の事は無い、19,20世紀の普通の国家のあり方、お互いに疑心暗鬼で軍備に励み、何度も何度も戦争を繰り返し、他国に侵略植民した、当時の普通の国にもう一度戻ろうというだけの事に過ぎない。私たちは70年前、もうその普通をやめて新しい国創りを世界に先駆けて始めた実践国なのではないか?

★さらに、安倍首相が言う「自衛隊を明記する」という主張に潜む危険性を見抜き、各人がもっともっとハッキリ認識することが肝要と思う。どうして危険なのか?戦争することに対して強い制約がある現憲法下においてでさえ、アベ一強たることを千載一遇の機会として利用し、約束とは裏腹に〝丁寧な説明“と合意もなく、自己の考えを強行採決までして推し進め、情けないことにアメリカ側の意を迎えた同盟軍出兵を可能にしてしまった彼である(専守防衛の「個別的自衛」として自衛隊と名をつけ、憲法の枠内としてきたのに反し、「集団的自衛」と称して自国を遥かに離れた外国にまで出かけて他国の戦争に協力することにしたが、その結果までは多分自分のやっていることが分かっていないのだろう)。この数年間、彼の発した言葉とやってきた行動を振り返って、私はこの我々の代表をどうしても信用することができない。例えば、この時代に何もわざわざ教育勅語でもあるまいと思うのだが、勅語を子ども達に一斉朗読させる学園の名誉校長に就く妻を諭(さと)し、(一国の宰相として、いな夫としてと言い直した方がいいだろうか)そんな行動にブレーキをかけることすらできず、その学園との関係の疑惑を払拭できない感性(センス)の悪さ責任の無さは一体何なんだろう?こんな男性(おとこ)を私は信用も信頼もできないのである。現憲法下においてでさえここまでやった彼が、一歩進めて「自衛隊明記」という第3項を付け加えたら、どこまで日本を過去の19,20世紀的な古い〝普通の国”に引き戻してしまうことになるのか?分かったものではないからである。憲法9条の2項戦力不保持をそのままにして、第3項に自衛隊を加えれば、「特殊規定優先」「追加項目優先」の法律解釈上の一般的規則から軍隊保持になり、「集団的自衛」の名で他国の戦争に協力・協働することになるだろう。私はそれが本当に心配でならない。

★先にも触れたが、自衛隊員による不断の活動によって、災害等救援等で骨身を削り(時には救助中殉職する隊員もいる)、苦難のただ中にある国民を支援救助し続けてきた結果、自衛隊が国民の中に高い評価がされるようになっているという現実をキチンと受け止めることである。ただし、くれぐれも忘れてはいけないのは、評価が高まったのは、備えている武器を使用して殺人破壊活動をしたからではなく、人を救助する活動によってであるということである。軍事・戦争ではなく、民事・平和の為なのである。

★司法の方では〝統治行為論“(?)というのであろうか、違憲だという判断も合憲という判断もないままにしているらしいが(日本の司法は残念ながら、まだまだ三権分立の理念を体現した独立独歩の司法ではなく、時の政権の掣肘を受ける司法であるらしく、是々非々の判断を下さないようだ)、ということは隊員は「自衛隊法」に沿って合法的に、つまり『(法律的には曖昧、健全な常識で言うと違憲だけれど)合法的に』活動している状態といえるのだから、隊員は少しも肩身の狭い思いを持つことは無いと思う。(※しかし、軍隊でないといわれる自衛隊が戦争に参加すれば、殺人などの罪は私人として裁かれるという事が指摘されているから、自衛隊員も国民も良く考える必要があろう。)

★自衛隊のあり方については、創立時の状況が拙速に過ぎ、公職追放中の旧軍の軍人や官僚を追放解除してあわただしく創立メンバーに組み込んだという事情もあったようである。そのような条件のもとで、自衛隊として如何なる伝統が形成されているのであろうか?組織外からは分からない“危うさ”(※)が無いであろうか。また、軍の基本的なコンセプトは何か?戦前にあっては「天皇の軍隊」だが、戦後にあっては「人民の軍」なのか「為政者の軍」なのか、「米軍の補完軍」であるのか、あるいはまた「国連軍」に最終的に改組することを目的に作る軍なのか、そういった〝建軍の思想、哲学“を時間をかけて十分練ることなく創られている危うさ(※)を指摘する声もある(前述、田崎末松氏)。そういったことも勘案しつつ、今後の自衛隊のあり方については、救助活動その他の任務、適正な自衛装備、さらには存廃も含めて、世界の実情や人類の意識変化等を慎重に勘案して将来世代が決めるということにしておくのが現状での考え方と思うのである。(※日米安保条約・地位協定などで一旦戦争になれば米軍の指揮下に入らなければならないということも忘れてはならない重大事である。〕

 ※以下の挿話は、自衛隊、あるいは実力組織の“危うさ”のようなものを彷彿させることかもしれない。憲法学者の小林節氏の回顧談によれば、かって防衛大学教官時に、学生たちと講義後に懇親のための飲み会があったらしいが、その席上、一人の学生がこう発言したことが有ったそうである。「先生、自衛隊の一個連隊があれば日本でクーデターが起こせますね・・」若い防衛大学生の脳裏に浮かんだ想念は、たわいない戯言(ざれごと)かあるいは権力把持への仄かな憧れか知る由もない。(神奈川新聞)

◎以上、改憲派の人々からよく聞かれる5つの論点のすべてについて、自分の考えを吟味、整理しながら、彼らとは相反する見解を述べてきた。

第五章 もう一度この憲法の“肝心かなめ(“キモ”)を見つめ直す試み

  • この憲法のキモ、本質,意義などについて少々・・・及び補足

押し問答ばかりで紛糾することの多い印象がある憲法の成立事情や作成の動機に関するいろいろな論議、あるいは自衛隊違憲・合憲論争など、いわば憲法周辺のことはもうこの辺で終わりにして(ずいぶん手間取ってしまった)、我々の憲法そのものにストレートに入って行きたい。今まで述べてくる過程で既に触れた部分もあるが、私が感ずる、考える、この憲法の意義、本質論のようなことについてである。

学者ならぬ一市民の私がこの憲法に対してボンヤリとではあるがずーっと感じてきたことは、幼少時以来の、人々の中にあった、一種の、この憲法を賛嘆する雰囲気の中で、やはり何といっても『我々の憲法は、すべての人間が上下無く平等であり、同じように幸福であるべきであり、そしてお互いがつまらぬ競争や闘争をすることなく平和裏に生活し、世界中の人民が仲良く共存することを謳っているものなんだなあ』という、この憲法への圧倒的な信頼感であり、その元に自分が居るという安心感であった。笑う人は笑うがいい、たとえシニカルに笑われても、いわゆるこの憲法の『戦争放棄・戦力不保持・主権在民・基本的人権尊重』は20世紀になってやっと高らかに謳われることになった、人類が明確に獲得した大きな価値であり大原則だと私は思うのである。

例えばこの憲法に於ける「基本的人権」。人権の思想の歴史はもう確かに西洋各国に古くから有る。いわば、西洋は人権思想の本場だ。しかし「権利の章典」、「人権宣言」などなど、あるいは「自由・平等・博愛」と美々しく謳われ、フランス革命、アメリカ独立宣言、等々人民の流血を経て獲得された人権の考えも、当時は新しかったとはいえ、私はまだまだ狭かったのではないかと思ったりするのである。なぜなら、彼らは美くしい人権の思想を持つところに達しながら、それ以後も事実は黒人奴隷の人権無視、人種差別・性差別などを国内外で行い、他の民族や他の国民を抑圧し侵略し、自分以外の人間の人権を事実として踏みにじってきたのであったし、20世紀に入っても歴史始まって以来かってなかった巨大な戦争を起こしてその行為を続けてきたのであった。つまりは彼らの言う人権とは、例えば狭い範囲のイギリス人の人権であり、フランス人の人権であり、また(黒人や原住民・有色人移民以外の)アメリカ人の人権であったり、あるいは階級的にはブルジョアジーとか市民階級の人権に過ぎなく、自分の人権だけは大切にするが、それ以外の諸国民・全民族・全階級・全人類の人権にまで考えが及んでていなかったと言える。ところが20世紀の前半だけで、戦争による死者の数が、それまでの数千万年間の間に生じた戦死者の総数を超えたという愚かな大変な犠牲を払った後で、さすがに人類は自らの愚かしさに気づかされたのでなかったか?もうコリゴリだという世界中の人々の厭戦の気持ちとやっと終わったとホッとした気持ちを経て、その只中から、新たに憲法を創る動きがこの極東のちっぽけな国で興り、いろんな思惑やかけひきややり取りもあったが、新しく創るという刺激の元、いわばグッドタイミング・グッドプレイス(好時良所)で、これからの世への希望や理想が湧き上がったのだ。この憲法に。私はそう思う。そんなことから、この憲法の基本的人権の思想はもはや今までの古い人権思想ではない。ましてや狭いニッポンジンの人権だけを謳っているのではない。憲法作成時の色んな人のその時の思い、希望や理想をはらんでもっと徹底して、全世界のすべての人々、西洋人だけでなく東洋の人も、白人も黒人も褐色人種も含んだあらゆる人々の人権を謳っているのだと思うのである。

この徹底した基本的人権と同じく、もう一つの重大な徹底主義というか、極限に行きついたものがこの憲法の重大なもう一つの柱、「戦争放棄・戦力不保持」なのだと思う。9条である。人類史上初めてなのである。いわば、「戦争のための武器武具を破棄します、したがって戦争をしませんし、戦争ができません」と一国が無防備で自らの体を投げ出したようなもので、こんな国家は歴史上かってなかった。大変な犠牲の後で、もうコリゴリという厭戦気分と平和を希求する世界中の人びとの前で、世界中でいの一番に極端と言ってもいい徹底した平和主義を宣言した、その勇気、この憲法のこの理想主義。私たちは、戦後の出発に当たってこの憲法に接して多くの人が感じた安堵、明るい未来が訪れる予感、理想を胸に持つときめき等々、感じたものは様々だったであろうが、そのことを思い返し、この憲法を迎えたものが決して反発や嫌悪、誹謗中傷など悪意に満ちたものでは無かったことを忘れてならない。この憲法のこんな“人類史的意味”に気付くとき、私はこの憲法を誇りに思う事こそすれ、情けないなどとは決して思えないのである(ところがどうだ、今やこの国の首相自身がそしてその周辺の議員たちがこの憲法は情けないものという固定観念を持たされる時代になってしまっているのだ。これでは彼らがよく言う、自虐史観ならぬ自虐憲法観ではないか?それは「憲法を尊重し擁護する義務」に違反するばかりか、国家目的をひっくり返す反逆になりかねないのである)。

ここまで書いて来て、私とはチョット違う部分もあるかもしれないが、私以上にこの憲法の本質について的確にとらえているなあと思われる記事に出会ったので引用する。コメント者は、作家の赤坂真理さんという方である。「私は憲法9条を手放しで評価してはいない。(中略)けれども、9条は保持されるべきだとも思う。敗戦国の民の「もう戦争はごめんだ」というはらわたからの実感と、占領者のある層にあった理想主義が、冷戦構造の中でぶつかり編まれた美しい詩。私は憲法9条を、そうとらえている。世界史上でも類を見ない、出会いとタイミングの奇跡。それを日本人が「受け入れることを選んだ」という事実。これは世界の人々に知られる価値がある。(後略)」(2014・10・15、朝日新聞)

ここで赤坂さんは“占領者のある層にあった理想主義”が、編み込まれたと書いているが、私はもう一人の別の作家のことも思いだす。古いものだが、武者小路実篤の作品に「人類の意志に就(つ)いて」という一著がある。向日性豊かなヒューマニスト、オプティミスト(楽天家)として有名な彼だが、彼によると人間というものは確かに愚かで醜い側面もあるが、人間の背後には“人類の意志”とでもいうものが働いていて、どういう風に働いているかはわからないとしても、“人類の意志”は人間が幸福になることを願い望んでいるのだというのである。“造物主の意志”、“神の意志”とでも言い換えることもできるかもしれないが、彼はいかにもヒューマニストらしく“人類の意志”という言葉を使う。さてその働いている具体相を、愚かな人間には見えも分かりもしないが、ただ、その意志に合った行動をすると人間は幸福を感じるようにも作られているんだという。例えば、人間にとってある意味やっかいな性欲という問題である。人間の幸福を願っているはずの“人類の意志”が、どうしてして青年たちを悩ませ困惑させ、そのことが原因で時には格闘もし死に至ることもあるほど強い厄介な性欲を与えてしまっているのか?ここで彼は言うのである。人類の意志は人間の幸福を願っているが、人間が絶滅してしまっては元も子もない。さてその人類が絶滅しないで存続するためには男女の婚姻ということが不可欠である。しかし、もし、男女が何らか別の面白いことに熱中したり、あるいは大して相手に関心を持たないように作られていたら、結局、人類は絶滅してしまうかもしれないではないか。そこで“人類の意志”はそのことを恐れるあまり、いついつまでも人類が存続することを望むあまり、両性それぞれに相手に魅かれあうよう、いささか強めに性欲というものを配合したのだ、というのである。しかも、男性には少しばかり強めに、、、というのである。性欲は悪いものではない、自然なものであり、厄介さのその中にも“人類の意志”の人間に対する善意が働いているというこの世界観、人生観、若き日これを読んだ時に、この一種ユーモラスな説に何だか安心させられホッとしたことを覚えている。が、さて、私は、この武者小路実篤の、人知では分からない所で秘かに人間たちの幸福を願っているという“人類の意志”という考え方をもって、日本国憲法というこんなにも前衛的な不思議なものが、どうして日本に生まれたのかを説明できないだろうかと思う。日本国憲法誕生の混沌たるあの時代に、あの歴史的変革期独特の雰囲気とそこに生きる人々の独特の心情の中で、立ち会った人々の上にこの武者小路の言う“人類の意志”とでもいうべきものが働いたのではなかったであろうか?人間たちの幸福と人類の永遠の存続を願って、、、、、、そんなことを思うのである。

※補足

①自虐憲法観から脱し、現憲法に誇りと自信を!!そして真の護憲活動を始めよう!

「日本国憲法をノーベル平和賞に」という話があったのは記憶に新しい。実際に〝候補“となった年度もあったように記憶する。一般に、「賞」というものが何事かを成し遂げた人間に与えられるのが通例であることを考えれば、極めて極めて珍しい話であった。もし受賞ということになれば一体誰が受賞式に臨むのか?国民を代表して安倍総理か?彼はむしろ現憲法は情けない憲法と思っていて、受賞不適であろう。日本国民に受賞させるといってもこの国民は必ずしも憲法の理念を世界的に広め、具体化する行動をするよりは、残念ながら先に述べたごとく、自ら〝肥え太る”事に忙しかった。他国が紛争の渦中にあってエネルギーをそこに注がざるを得ぬ間に、その紛争のかげで経済的に儲ける事ばかりしてきたようなところがあると言えないだろうか?さてそれでは誰が受賞をするのかといえば、やはり憲法自身が受賞するしかないのかもしれないが、それはちょっと考えにくいことであり、何ともユニークな候補だ。しかし、この話が湧きおこり、世界的にも話題となり、候補にもなるということ自体が、世界的な評価として、この憲法の希少さ、貴重さ、斬新さ、前衛的つまりは価値高き憲法ということを示している。だが、(不思議な事にまさに自虐的なのであろうか)当の日本人に於いては必ずしも評価されているとは言えないのは周知の事実である。我々はもっと、それこそ(改憲派の人々の中で相手を批判する為に使われること多い言葉をそのまま使えば)“自虐的”たることをやめて志操高きこの憲法に自信を持っていいと思うのである。それにしても、本当に覚悟を新たにせねばならないのは、これから我々は、もっともっと受賞するに恥ずかしくないだけの、世界に平和を広めていくための具体的活動を、貢献活動を市民レベルで積み重ねていかねばならないということではないか?その為には我々自身の中の、自分のみ良かれという醜いエゴイズムを克服しなければならないのだと思う。改憲論争を好機として国民各層がそのことの重要性に気付き、理想を掲げて具体的に行動をしていくという事が本当は肝要なのだと思う。その意味で、今までは、国民の意識の中に於いて平和憲法は単に掲げられていただけであって、これからが本当の護憲活動であり、平和憲法は、「日本国憲法」は、本当はこれから始まると言ったほうがいいかもしれない。つまり世界の平和のために我々日本人は体を駆使して、“立ち働く”ということである。

★I CAN「核兵器禁止国際キャンペーン」はノーベル賞をもらいました。その裏には世界終末時計がトランプ政権誕生・政策で1分進められて2分前になった世界破滅の危機の自覚が世界中にあるのでしょう。トランプはなんと!一人で核兵器使用を決め執行できますし、その国は海外基地を1千程持ち、国内では銃による死者を年に万単位で出し、乱射事件が絶えません。最近の学校乱射事件で犠牲になった若者達・親達・先生達が彼に会って「もう終わりにしてくれ」と嘆願したら彼は学校は銃で武装したらと言います。銃や武備や核兵器を増やせば安全になるでしょうか、正反対でしょう。九条はその正道です。しかし、銃を増やせばますます事件が増えるのではないでしょうか?そんなアメリカで、今、戦争の制度は正当化できないとして戦争廃止・基地廃止・民間平和条約などを推進する団体ができて活動し始めています。大和の郷里(クニ)(権力者の国家ではありません)の我々は「平和憲法」を世界の憲法にするよう立ち上がり働くべきではないでしょうか?

添付書類:

ノンポリ市民の憲法論

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中