憲法(前文と九条)の読み方:文脈(脈絡)・修飾を無視してはならない!

古川さん、

全的に同意します。
わたしとおなじように問題を発見し解決しようとしているひとがすぐ近くにいるとおもえるのは、
こころあたたまり、こころづよいことです。

さて、みなさん、

前文に関する古川さんの適切な指摘に屋上屋を架すようですが、
わたしがつねづねたいせつにしていること、そして、
世のひとびとが、往々にして、関心をむけないか、気もつかないでいることについて、
ひとことおぎなっておきたいとおもいます。

ひとつのまとまりのある文章を「つまみぐい」するな、ということです。
べつな言いかたをするなら、
ひとつは、文脈(コンテクスト)を無視するな、であり、
もうひとつは、修飾語(句)=形容詞・副詞(句)を無視するな、ということです。

小泉という名の総理大臣が、かつて、この「日本国憲法前文」をつまみぐいして
とんでもない曲解を平然とたれながしたことがありました。
該当するところは、つぎの文章です。

《われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと
努めている国際社会にいて、名誉ある地位を占めたいと思う》(原文は旧かなづかい)。

小泉氏が「つまみぐい」したのは、「国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う」
の部分、それだけでした。
原文では、この「名誉ある地位を占めたいと思う」のは、どのような「国際社会」であるのかを、
明確にしています。すなわち、この「国際社会」とは、
「平和を維持」し「専制と隷従」を、「圧迫と偏狭」とを、この地球上から「永遠に除去しようと」
努力している、そういう「国際社会」なのであって、まかりまちがっても、
アメリカという名の帝国主義国家による、アフリカやアラビアやアジアにある弱小国家や地域への
不法な侵略や干渉に明確に反対しないどころか追認すらしているような諸国のことでは、
けっしてないでしょう?

前文を、文脈にそって正確に読めば、こんな恣意的解釈のつけこむ余地などまったくないのですから、
小泉氏の「読み」はきわめて意図的なものと言わざるをえません。

前文の、ひいては「日本国憲法」全体の唯一の欠陥は、古川さんが的確に指摘し、
わたしもことあるごとに指摘してきた、主語の「ジャパニーズ。ピープル」の「ピープル」を
「国民」にすりかえた部分です。
これは、三権(立法・行政・司法)の大勢を当時具体的に占めていた
旧「大日本帝国」の支配階級による、意図的な、きわめて巧妙な手段による、
「日本国憲法」換骨奪胎の策謀でした。
天皇条項を残存させた(「元首」を「象徴」と変えたにせよ)行為と双璧をなしています。

その点をのぞけば、この部分を「美しくない」「翻訳調」の文章だといって誹謗は、
成立しえないでしょう。

まず、日本にくらす「われら」(これは「われわれ」よりもやわらかいひびきをもった語で、
しかも「かな」で表記されています)は、
まず、「恒久の平和」をねがっていること、そして、
「人間相互の関係を支配」している「崇高な理想」を
「深く」「自覚」する、と自分の立ち位置を明確に示す。
(ただ「自覚」するのではなく「深く」つまり「根底的に」自覚する。)

つぎに、「われらの安全と生存を保持」しようという決意がのべられるが、
その手段方法としては、唯一、「諸国民」の「公正」と「信義」とに
「信頼」することによって、であると明確化し、しかも
その「諸国民」とは、戦争をこととするようなひとたちではなく、
「平和を愛する」「諸国民」なのであることを、これまた明確に示しています。

ここからでてくる当然のこととして、
「全世界」のピープル(ひとびと)が、「ひとしく」つまりひとりの例外もなく、
「恐怖」と「欠乏」からまぬかれて、
「平和」にくらしていく「権利」をもっているのであることを
「確認」する、と、「われら」の決意のありかを明確に示し、

世界中のひとびとがこのようにくらすことができるようにするためには、
世界中の諸国家はどのような行為を為さなけらばならないのかを、
具体的に、「われら」の決意として、のべています。
すなわち、どの国家も、
自分の国のことにだけ「専念し」て、その結果「他国」を「無視」するような
ことがあってはならない。
これは「政治道徳の法則」であって、「普遍的」なものである。

したがって、もし、自分の国の「主権」を「維持」したいのなら、
この普遍的な法則にしたがうべきであり、
ほかの国家と「対等」な「関係」に立とうとすべきなのである。

さいごのしめくくりとして、これまでにのべてきたことを「崇高な理想と目的」と位置づけ、
その「理想」と「目的」を「達成する」のだということを、
「われら」は、日本国の「国家」としての「名誉にかけて、誓う、と明言しています。

わずか見開き2ページにおさまるこのみじかい前文のなかで、
人類が「平和」に生きていくとための条件がどこにあるのかを、
うたがいの余地なく明確に示しています。

もう、お気づきになったでしょうが、
カギとなる名詞と動詞(キーワード)には、すべて、適切な形容詞・副詞句がつけられています。
つまり、その名詞あるいは動詞をはっきりと「限定」しているのです。

あらゆる語は、根源的に、多義的なものですから、
恣意的に用いようとすればいくらでもできます。
そのような恣意的利用をさせないために、
名詞や動詞を「限定」しているのです。
ここでの「修飾」とはたんなる「おかざり」ではないのですね。

きわめて遺憾なことに、この前文と密接に照応しあっている条項は
第二章(第九条)におかれてしまっていますが、
本来は、この「戦争の放棄」こそが、前文にすぐつづいておかれるべきであったのですね。

ひこ

 

註1:これは、この前のコメント「日本大衆の憲法(13条)・一切衆生(前文と九条)」に対するコメントです。

2:「前文に九条が続くべきであった」という指摘は卓見で重要です。これは、前文と本文の本来の関係(憲法の三大原則の第二章「戦争放棄・戦力不保持」の心臓部が冒頭にあり、以下の第三章「人権の尊重」、第四章以下「主権在民」に続くべき脈絡にあった)ことを明らかにし、第一章「天皇」は旧憲法の「国体観」との妥協の産物であった事を示します。

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