非核非戦の碑のこと

みなさま

 

こんにちは。

73年前の8月9日、原爆が投下され、一面焼野原になった原子野には、

おびただしい屍が夏日にさらされたままになっていました。

その御遺骨が集められて、長崎の東本願寺教務所に安置されている

ことは聞いていましたが、先週、はじめて御遺骨と対面してきました。

当時、身元のわからない屍が放置されているのを見かねた人たちが、

門徒を中心に、爆心地付近の白骨を拾い集め始めました。水を求めて

川の中に折り重なったままの遺体など、途方もない数のご遺体を荼毘に

ふし、仮設の教務所に集める・・市の収容施設も膨大な遺骨の山だった

ため、一時、大浦天主堂横の妙行寺に安置しますが、そこも被害を

受けていたため雨漏りがひどく、結局、現在のNBC長崎放送の

上手にある教務所に収骨所をつくり、現在に至っています。東本願寺

では毎月9日に、一万体とも二万体ともいわれるお骨の法要を行って

いるそうです。

「非核非戦」と書かれた碑。この地下数メートルの広さの場所が収骨所。

ご住職が開けてくださった扉の向こうには、衣装ケースほどの大きさの、

灰色の鉄箱がぎっしり積み重ねられていました。

「これは川の中で見つけたと聞いています」。開けてくださった箱を

のぞいて息をのみました。茶色く変色した頭蓋骨がひとつ。大人のもの

より小さい、たぶん十代の子どもと思われるもの――

私は写真や、遺品などの「もの」を目にしたことはあっても、「ひと」を

前にしたのは初めてで、立ちすくみ、しばらく何もできませんでした。

他の箱には、大小の(たぶん牛や馬などの動物も)お骨がぎっしりと

つめられていました。

お寺が作った資料には、こう書かれていました。

「戦没者たちは決して、敵の砲弾や原爆で死んだのではありません。

戦争を「聖戦」と呼び、美化していこうとする人間の無明――

そのただひとつなる罪によってではないでしょうか」

「無明」とは仏教用語でよくわかりません。でも、私はこう思った

のです。

「多くの人々が、たったひとつの命をつなごうとしなかった、

たいせつにしなかった結果、彼らをこういう姿にしたのだ」と。

「非核非戦」の碑の左の碑にはこう書かれていました。

「共に生きよ」。

 

西岡由香(転送歓迎です)

 

非戦非核.JPG

 

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由香さん

何時も心に響く活動と体験記を有難うございます。
平和世界サイトに転載・ミロクML転送をさせて
貰います。
文中の仏教用語「無明」は単なる知識の「無知」で
はなく体験の「無明」(明らかな確証の無いこと、
涅槃の体験のないこと、涅槃とは無風という意味で
すが、具体的には業風に左右されない、過去・現在
の身口意の三業:体・口・心の行動・遺伝・習慣等
を静止して体験・了解することで、それにより業風・
業世界:俗界を明らめない事)です。詳細は下記特
に3.「生存とは何か」に説明していますのでご覧
頂ければ幸いです:
魯参
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由香さん、みなさん

「共に生きよ」は共生ですが、「共に殺す」核・戦争
は眞にその最大・最悪・最低・最緊要な問題・罪悪・
悪業ですね。その根本は無明にある、「命を大切にし
なかった」ことにある(動物として個我:差別:罪の
「泡沫」意識を優先して、五大・日月・遺伝子などの
因縁生起の相依相対の「大海」命の真理を明らめなか
った(無明)にあると言う事ですね。罪(隔離病患:
sin=separation sickness)の俗諦(世俗の真理)
から真諦(勝義諦:真の意味での真実)の聖(全体
健全:holy=wholly wholesome)真に帰一・合一す
る「共に生きる」、「大生命に生きる」のが宗教(re-
ligion<Latin re-ligare=re-union)・倫理・道徳の道
ですね。
魯参
—–

ゆかさん、魯参さん、みなさん、

「遺骨」の収集という行為に、わたしは、違和感をもっていて、そのむねを記したこともいくどかありましたが、ゆかさんがここに記したその「遺骨」に関しては、ゆかさんのきもちになんの違和もなく全的に共感します。

いまから8年まえに書いた文章のことをおもいだしたので、さっそく手にいれたばかりの技術でスキャンし添付しました。

ここに記した骨たちと今回ゆかさんが対面した骨たちとでは、骨になる以前の生はことなります。

ゆかさんの対面した骨たちは、まぎれもなく原爆という殺人専用兵器によって殺されたひとたちの生をつたえています、具体的に。

だからこそ、いっそう、この骨たちの「声」に耳をすまさなければいけないとおもいます。ゆかさんは、その声をしっかと聴いたから、このメールを発信したのでしょう。

じつは、遺骨に関しては、12歳、中学1年生のときに鮮烈な体験をあじわったことがあります。

かつてある雑誌に発表したものの一部をコピペしておきます。ここで「きみ」と呼びかけられているのは12歳の彦坂諦で、呼びかけているのは60歳の彦坂諦です。コピペしたらこんなに小さな字になってしまいました。なおすすべを知らないので、そのまま。読みにくいのはカンニンね。

きみたち旅順中学生は、旅順港口をにらむ白玉山の忠霊塔のなかにいた。そこに収められている日露戦争の勇士たちの遺骨を運びだして、外に待機しているトラックに積みこむ。これが、命ぜられた作業の概要だった。どこへ移すのかは、知らされていない。が、まもなく進駐してくるソ連軍に「英霊」が汚されるのを防ぐためである、ということは察しがついた。

 地下の納骨堂のひんやりと湿った空気のなかに、ずらりと、白木の箱が並んでいる。その数の厖大さにきみたちは圧倒された。あたまがくらくらした。

 はじめのうち、きみたちは、一つ一つの箱をていねいにとりあつかっていた。そっと両手にかかえて、なかの遺骨に語りかけるような気持でそれを運び、またそっと、荷台のうえの男たちに手渡していた。けれども、ときがたつにつれきみたちの作業は機械的になっていった。きみたちは、疲れてもきたし、単調な作業に飽いてもいた。一つ一つの遺骨に思いを入れるには、遺骨の数は厖大にすぎた。しだいに、きみたちは、自分がなにを運んでいるのかを考えなくなった。

 とうぜんのことながら、骨箱にたいするきみたちのとりあつかいはしだいに乱暴になっていった。それに、きみたちは見ていたのだ、きみたちから骨箱を受けとって荷台に積みあげる作業に従事していた大人たち-民間人なのか軍人なのか見わけはつかなかったが、たぶん兵隊たちなのだろう-の乱暴な態度を。彼らは、まるでトロ箱かなんかをあつかうように、無造作に、箱を積みあげていくのだった。

 ときおり、しかし、ハッとする瞬間もあった。長年月湿った塔内に閉じこめられていた箱のなかには、くずれかけて、なかから骨の露出しているのもあった。そういう箱につきあたると、いやでも、きみたちは、自分がいまなにを運んでいるのかを思いしらされるのだった。それに、これらの骨は、きみたちにとっては、たんなる遺骨以上のものであったのだ。

 この忠霊塔は、きみたちにとっては、日露戦争の聖地というだけではなく、きみたちのげんに暮しているこの「満州」を死力をつくして護りぬかなければならないと誓う、その誓いのシンボルでもあった。「日清日露の勇士たちの尊い血」を代償として手にいれた「満蒙」の地という観念は、きみたちの血のなかに溶けこんでいたのだ。

 もちろん、このシンボルは、具体的なかたちをとるさいには旅順港口を見おろす丘のうえにそびえる白亜の塔となっていたのであって、一つ一つの骨箱のかたちをとっていたわけではなく、ましてそのなかの骨としてきみたちの目にうつっていたのではなかった。逆にいえば、この白塔のなかが空洞ではなくこのように厖大な数の骨箱に充たされていたこと自体、きみたちにとっては衝撃的ですらあったのだ。そして、これらの「御遺骨」をいずれかの地にお移しもうしあげるといったきわめてシンボリックな行為の具体的な内容がいまげんにきみたちのやっているきわめて即物的な作業でしかないことに、きみたちはいささか失望していた。

遺骨とどうむきあうかという問題、いいかえれば「慰霊」のしかたに関する問題については、これまでいくども発言してきましたし、これからもなお、考えたいこと、発言したいことはどっさりあります。

しかし、きょうはひとまず、ここでとめておきます。

魯参さん、

「無明」についての説明、さすがだとおもいました。

ひとつだけ、注文があります。日本語でも、もっと平易に説明できるのならしていただきたいってことです。

英文のほうがわかりやすい。

日本語だとどうしても、専門語をそのままつかって解説をつけるというかたちになりがちですが、じつは、その解説そのものが「簡潔」すぎるのですね。

わたしは、逆に、まわりくどすぎると言われるのですが、しかし、かなり意識して、なんとかわかってもらいたいと工夫しているのです。

ごめんね、よけいな口出ししちゃって。

ひこ

 

この骨たちの声に耳をすます

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ひこさん、みなさん

ひこさんのコメントと書類を平和世界サイト
に追加させてもらいました(ご指摘の通りで
英語が判りやすいので括弧内に追加しました)。
(植民)支配・戦争・原爆等の金力・権力・
暴力により骨となった命の声に耳をすませば
金・力・物の到底想像もできない命・和・心
の尊さが、それ故に犠牲にされた悔しさが聞
こえて決して支配・戦争・原爆等を許しては
ならないという決意が確固とするのですね。
(戦争を企み行う連中には命・和・心の覚悟
の偉大も判らなければ金・力・物の妄執の卑
小も判らないでしょう。不明・無明の輩に権
力を与える組織ー国家などーを廃止・超越し
人類・生類が自由・自治・平等・平和に暮ら
すべきですね。)

 

魯参
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皆様

 

こんにちは。

今日、被爆者で構成される「紙しばい会」が開かれ、私が描かせて

いただいた紙芝居も発表されました。

先日、ご遺骨を集めた東本願寺の「非核非戦の碑」を紹介しましたが

被爆者の方から「紙芝居にご遺骨を描いてほしい」と依頼されました。

「こういう碑があることを多くの方に知ってほしい」と。

正直、うろたえました・・私が目にしたご遺骨を・・どうやって

描いたら良いのだろうって。

その時、思い出しました。8月6日、大分県臼杵市で講演したとき

「臼杵の石仏」の近くへ連れて行っていただいたことを。

石仏は山の中腹に彫られているので、そこまでは登れなかったの

ですが、山のふもとに広い蓮池があり、うつくしいピンクの蓮の

花が、まるで手のひらをあわせるように咲いていました。

それで、描いたのがこの絵です。

ひこさんが以前書かれていたことばを思い出しています。

「死者を供養するやり方は人それぞれで良いのだ」と。

ある人は音楽。ある人は行動で。

この絵も、彼らへの供養になれたかなあ・・

毎月9日にはお寺で法要が行われているとか。来週、行ってきます。

 

西岡由香

 

       

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非核非戦.jpg

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ゆかさん、

 

よくぞ、でかした!

このまえ、沖縄の遺骨の写真を紹介しましたね。

あの写真だって「ありのまま」をただ写しとったものではありません。

 

まして、絵は、「きもち」をつたえるものでしょう?

あなの絵には、あなたのこのいまの心情がうつしだされています。

あなた自身の「私的な」きもちがこめられた絵は、そのまま、普遍性をもつ、

つまり、見るひとのきもちにひびくはずです。

 

わたしは、ゆかさんがおぼえていてくれたように、

わたしにはわたし「だけ」の「とむらい」かたがあるのだとおもっています。

「とむらう」という動詞には「かなしむ」きもちと「いたむ(悼む)」きもちの両方が

ふくまれています。

 

かなしむこともいたむことも、本来、私的な行為です。

みなでよりあつまってするものではありません。

 

そういうと、一般におこなわれている式典を否定しているように受けとられるかもしれない

ので、ひとことつけくわえておくと、わたし自身は、みんなでとむらう行事には、

長崎の原爆被害者の「慰霊祭」のような特別のばあいをのぞいて、

出席はしません。

けれども、そういうやりかたを否定もしなければ、わたしのやりかたを、わたしではないひと

に押しつけるつもりも毛頭ありません。

 

たとえ、みんなでよりあつまってとむらいの儀式をやったとしても、

たいせつなのは、そこに出ているひとりひとりのおもいです。

だから、こうしなければとむらったことにならない、

それでは死者の魂を慰霊したことにならない、

などというひととは、ぜったいにおなじきもちにはなれません。

 

国家の慰霊が、どんなに「厳粛に」おこなわれようと、

ぜったいに、死者の霊をほんとうになぐさめることにならないのは、

むろん、本来純粋に私的な好意であることを、

国家が代行することなど不可能なだけでなく、

みんなでよりあつまって(集団的に)おこなうからだ、

と、わたしは考えています。

 

「紙しばい」という、映画もろくに見られないしテレビなどなかったわたしの時代の

こどもたちの唯一のたのしみが、あらゆる映像が氾濫しているこの時代に

復活していることには、深い意味がくされているように感じています。

芝居は舞台を必要としますが、紙芝居は、絵を順番に送りだして見せる

カンタンナ道具があればすぐにでも「上演」できます。

いいおもいつきですね。

 

ひこ

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由香さん、みなさん

早速、原爆被爆者たちの会の「紙しばい会」で

発表のニュースを有難うございました。

「遺骨を描いてほしい」の要望に「どう供養す

るか」を思い、広い蓮池の「合掌するような蓮

を想い」描かれた発想も作品も素晴らしいもの

ですね。遺骨も薄緑に彩られて鎮魂され「共に

生きよ」の言葉を発し、蓮池全体が、泥田に染

まらず、蓮の葉の水滴に描かれるように、清ら

かに咲くように古来のメッセージを伝えて画面

全体が明るく希望に満ちているようです。地獄

の絵図の原爆の惨禍を伝える紙芝居の中にこの

ような明るい絵を加えられたことは未来への希

望を与えてくれるものです。蓮の花は俗世界を

超えた涅槃悟りの世界・極楽浄土(原語sukha-

vatiは幸せに満ちたという意味で空間的場所を

表すのではなく涅槃の状態)を表し一切への供

養(可能性・実際)を表すものですから大成功

ですのでご安心下さい。

 

早速、平和世界のサイトの「非核非戦」と「紙
芝居」の両方記事に追加させてもらいますので

ご了承ください。

 

魯参

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ひこさん、魯参さん、みなさま

 

おはようございます。(日本は朝です)

昨夜「投稿してよかったのだろうか・・」と思いつつ眠りについた

ので、今朝、ひこさんと魯参さんのあたたかいメールに救われる

思いでした。ありがとうございました!

魯参さん

「蓮の花は俗世界を超えた涅槃悟りの世界・極楽浄土(原語sukha-vati

は幸せに満ちたという意味で空間的場所を表すのではなく涅槃の状態)

を表し一切への供養(可能性・実際)を表すもの」

 

そうなんですね!知りませんでした・・

無意識に蓮の花を選んだつもりでしたが、実は死者たちが「描かせて」

くれたのかもしれません。

 

ひこさん

「とむらう」という言葉で、アイヌことばの「トムラウシ」という

ことばを思い出しました。(同じ名前の山があるので)

意味は色々あるようですが「花が多いところ」もひとつの意味だそうです。

――ただ滅亡の世せまるを待つのみか ここにおいて われらなお

地上にひらく 一輪の花の力を念じて合掌す――

(石牟礼道子さん「花を奉る」より)

花の力を念じて合掌する。あわせる手は自らの両手でなく誰かの手で

あってもいい。花弁のひとひらのような絵を奉りたい――ひこさんの

ことばに、そう励まされました。

 

「花を奉る」の全文はこちらです。

http://www.asahi.com/special/kotonoha311/ishimuremichiko/

 

西岡由香

      

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魯参さん、ゆかさん、

 

けさは意識的に寝坊して、8時すこしまえにおきだし、すぐに、

魯参さんとゆかさんの文章を発見、うれしかった!

 

たしかに蓮には、魯参さんが説いてくれたように、とくべつな意味があります。

それを知らないひとでも、泥のなかからあのように美しい花がひらくことに

衝撃をおぼえた体験をもっているでしょう。

 

そこへ、ゆかさんが「とむらう」から「トムラウシ」へそして石牟礼さんのすばらしい詩

「花を奉る」へと連想をはたらかせ、この詩の全文を紹介してくれた。

 

この詩は、まだ知らないでいました。しかし、

石牟礼さんならごく自然にこのおもいをやしなっておられるのだろう、と、

一読、直観しました。

 

「われら人類の劫塵いまや累なりて/三界いわん方なく瞑し」、このひとことで、

このいまわたしらが生きている(ことを余儀なくされている)この世界を

あますところなく表現してくれています。

 

まなこを「沈めて」とか、花がまさに咲こうとするのを「聴く」とか、

意表をつく動詞をもちいることによって、

いいふるされた常套句では感得しえない深い感動をよびおこす、

この石牟礼さんのこの感覚!

 

感動したところを引こうとしたら、けっきょく、全編を引くほかなくなったので、

それは断念します。

この詩をおもいうかべたゆかさんの感性に、かぎりないしたしみをおぼえました。

 

石牟礼さんの『苦界浄土』が世におくりだされたとき、わたしは、

モスクワ大学の大学院生・講師クラス用の宿舎に起居していました。

なぜそんなところにいたのか?

それを語りだすとながぁいおはなしになってしまうので、はぶきます。

 

とにかく、この本を、すぐに、白井愛からおくってもらい、

受けとったその日は、読みおえるまで、ねむることさえわすれて、

この本の世界に生きたことを、いまなお鮮明に想起しえます。

 

そんなにたいせつな本なのに、いま、手元にはない。

だれかに貸したままになったらしい。

だから、おぼろげな記憶をたよりに書くのですが、

感動して、なみだがとまらなかった挿話があります。

 

やっと手に入れた小舟で沖に出て漁をする夫婦ふたりのはなしです。

男女平等とかいったリクツをこねるまえに、ここでは、まずしさのゆえもあるけれど、

「夫」と呼ばれる男と「妻」と呼ばれる女とが、

おなじ労働の現場で、協働している。

ごく自然に。それ以外のありようはありえないゆえに。

 

いえ、感動したのは、そこだけじゃないんです。

もっともっと深い感動がしわぁっとわきあがってきたのは、

このふたりが、これから釣りあげる魚たちに語りかける場面でした。

 

アイヌが熊祭りをするように、この夫婦は、捕食する魚たちに

語りかけながら釣りをしている。

そのすがたにも、そのことばにも、一点のくもり(不自然さ)もない。

 

「自然の摂理」ということを、ごく自然に、おもいうかべずにはいられませんでした。

このふたりは、知識のあるひとたちとちがって、自分らがなにをやっているのかを

説明などしない、いや、できない。

しかし、その行動で、自然のなかで生きるすべての生きものとともに生きている

おのれのありようを、すなおにあらわしている。

そのすがたを、石牟礼さんは、この詩「花を奉る」のなかにあらわれているのとおなじ

自然さで、えがきだしていた。

 

魯参さん、ゆかさん、もういちど、ありがとう。

 

ひこ

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由香さん、ひこさん

由香さん、ひこさんの思い・引用を有難う

ございました。引用の「花を奉る」は真に

思い深く言葉の魅力のある詩ですね。愛語

は相手を愛しての言葉だけでなく言葉を愛

して止まないから生まれる言葉でもあるの

ですね。各人の世界は各人の心だが又各人

の言葉であり深められ練りに練られて出て

くるものが真の愛語ですね、離しようもな

く繋がっている、そして詩も絵も花も手も。

思いが蓮池を呼び起こし、蓮の蕾を呼び出

し合掌の手になり他者の手にも願いにもな

り骸骨の浄土にもなる。共に達したい浄土

が極楽になり、別れて倒しあう俗世は地獄

になる。それが判らないから俗世があり地

獄になる。「共に生きよ」が蓮華世界であ

ることを明るい絵は呼びかけている。

このスレッドを平和世界サイトに転

載、mirokuMLに転送させてもらい

ます。

魯参