新憲法を次世代へ:クニ・人々・大衆・衆生等

今、子どもたちと憲法前文を身につけるか?

 

古川さん、皆さん

春田です。
古川さんのかいはつした写憲用紙は、魯参さんがheiwasekaiのホームページに
アップしてくださっていますね。
写憲用紙(前文)
ぜひ皆さんにご活用いただきたいです。
憲法のこころは「尊敬の哲学」だと思います。権力をかざす為政者は「力の哲学」ですから憲法のこころはよめません。
安倍総理は「恥ずかしい憲法」と言っています。
他者に突きつける具体的な「もの」(力)がないと、恥ずかしいと思ってしまうのではないでしょうか。
お金、地位、知識にしても、人を怯ませる道具となりえます。
もちろん、人をたすける道具にもなりえるのですが。
しかし、力に依存し、その多寡で自分を測り、人を測る。
力で得た快感は中毒になる。
安倍さんだけでなく、みんなそうやって生きている。
元々は誰も何も持っていなかったはずなのに。
とても抽象的な思いをめぐらせていますが、
古川さんがよくおっしゃる「憲法は縄文の記憶(気奥)」は、
私にはよくわかります。
力を持っていなくても大丈夫と思うには、
存在の質を変えることだと思います。
前文に書かれているような理想を追究していきたい。
日々の暮らしの行為の中で、少しづつ理想をめざし、
内的に強く、信頼をつちかう。
そういうことを思わせてくれる憲法前文。
普及していく活動を続けたいですね。
1/28
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ひこさん
増田さん
みなさん


子供たちと
一緒に
前文を
読みましょう

と呼びかけました
前文は憲法のこころです。
「われらとわれらの子孫のためにーーーこの憲法を確定する」と第一文に書かれています。

六年・中三の社会科の教科書の巻末資料で、憲法前文は句点・読点付でびっしりかかれています。この状況で、ひとびとが、前文とであ
うことはできません。

そこで、「、」がくれば改行し、「。」がくれば、数行あけてのわかち書きにして、漢字にはルビをつける。下には、マス目の用紙をつけて、写経ならず写憲学習を私が開発しました。前文が九つの文で出来ていることが生徒たちに初めてわかりかました。

一文一文、主語と述語とを共にかくにんしていけば、意味が飛び込んできて歓声をあげます。25分で写憲出来ますから宿題です。主語述語を確認すれば、1時間もあれば憲法のこころに向き合えます。

主語は、「日本国民」、何カ所も「われら」です。間違いなく「ひとびと」です。
第一文で憲法の原則をまなべばいいのです。第二文では「人民の人民による人民のための政治(リンカーン)」を発見します。「恐怖と欠乏」は生きる尊厳をきずつけます。これが社会不安・戦争を生み出します。為政者は常に「力の哲学」をもつ傾向があります。大企業の側についたり、アメリカの核兵器に忖度する「国政」となっていきます。
ひとびとは 一人も取り残さず全ての人々が輝く未来を一緒につくって行きたい とかんがえます。政府をどのようにしていくのか を今ひとびとが子孫のためにかんがえなくてはなりません。

「天皇」も「元号」も前文にはでてきません。これは明治150年の刷り込みです。
ソ連の核実験成功(1949.8.29)以来アメリカの「核兵器」に「抑止力」を忖度する日本政府となって2019年は70年です。1950年6月25日以降ずっーと「朝鮮戦争」の渦中の中で日本列島は米軍基地を提供しづけてきています。「辺野古」新基地建設で200年未来まで「戦争の発進基地であり続けていいのか?「つまり未来は今なのだ!」

憲法のこころは「尊敬の哲学」だと思います。権力をかざす為政者たちは「力の哲学」ですから、憲法のこころはよめません。「天皇を戴く」憲法前文を想定して、教育改訂をおし進めています。この為政者に忖度した生き方で生活の糧に生きたのでは、人間の誇りも尊厳もありません。

子どもたちは審判員となります。体制に洗脳れているおとなたちは憲法の前文に自分を写し見ることがどうしても必要です。

未来を準備して生きていきましょう!

2019.1.28
   憲法語らい場
   古川ひろすけ

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ひこさん
 増田です。返信、ありがとうございます。
 身に余るお言葉(笑)をいただいたような気がしますが「私は、日本国憲法下で、とっても適格公務員!」(笑)
と自負していました。でも、アベ日本会議政府の連中・石原慎太郎極右都知事のような「日本国憲法下で、とっても
不適格公務員」たちによって乗っ取られている日本国では「公務員不適格」なんぞと決定されちゃうんですね…
 しかし、私は「生涯、一社会科教員」(笑)として、できることはやってきたし、これからもやっていこうと思っ
てます!
 憲法前文暗唱で、生徒たちに「前文の中で、どこの文章が一番好きですか?」と聞いたら、もちろん、いろいろな所
を生徒たちは上げますが、一番多かったのは「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと
努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたい」という所でした。
 本当に、ここ、いいですよね! 「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しよう」! ここが身に付いてい
たら、ヘイトスピーチなんで恥ずかしくてできないはずなんですけど… 
 話変わりますが、ひこさんはフルートをやってらっしゃるんですね! ぜひ、新著の出版お祝い会で、ご披露されて
はいかがでしょうか?
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古川さん、増田さん、そしてみなさん、
暗記かぁとおもうひとがあるかもしれませんがね、
むかし、寺子屋では、意味をくだいておしえるよりさきに朗読させていました。
いつのまにか意味がわかりかけてくる。そこへ先生が意味をつたえる。
般若心経を音読していたことがあります。
解説本はいちども読んだことがない。
だれもおしえてはくれなかった。
そうやって、音読しているうちに、いつのまにか暗記してしまった。
すると、意味がわかってきた。
いま、フルートで、おなじ体験をしています。
楽譜を見ながら、くりかえし、くりかえし、練習する。
いつのまにか暗譜してしまう。
暗譜するのが目的ではない。
いつのまにかその曲がからだにはいっている。
こどものうちに、いちどでいいから、そういうことを体験しておくといいですね。
読書百遍意おのずから通ずとはよく言ったもの。
そういえば、「歎異抄」もわたしの身のなかにはいっています。
さて、そんなふうに身についたことばは、かならず、行為となってあらわれるものです。
逆に言うと、行為となってあらわれないことばは、じつは身についていない。
増田さんについていうと、このひとは、日本国憲法の全体を、
ことばとして身につけているだけでなく、
日常の行為として顕現している。
そこがこのひとのこのひとたるところです。
ひこ
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古川様
 こんにちは。増田です。忘れたころの返信になって恐縮ですが、私の中学校社会科教員時代のことを思い出したので少し…
たくさんになるかも(笑)…書かせていただきますね。
 いつも、中3の公民(政治経済)学習の最初は憲法学習ですので、1学期の4月最初の授業で「『憲法前文の暗唱』を中間
テスト(だいたい5月初めか半ば)の前日までにやること」を課題に出しました。「テストの30点分で、テストそのものは
70点満点。第一段落だけだと10点、第二段落までだと20点、前文全部で30点。何回挑戦してもO.K! どうしても無理な
場合は、教科書の前文を見ながら朗読してね。その場合は5点。増田センセが給食中・トイレ使用中以外はO.K! いつでも
『暗唱するから聞いてください』ということでやりましょう。」
 生徒たちは初めは「え~っ…無理だよ~…」とか騒ぎますが、一人・二人と成功すると、みんなどんどんやる気が出てき
ます。修学旅行の新幹線の中でも、たくさんの生徒たちが挑戦して成功しました。最後の「日本国民は、国家の名誉にかけ、
全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。」という時には周りのみんなが拍手です。
 最後は、みんな、なんだか自然と選手宣誓の時のように右手を挙げるので、可笑しいような可愛いような(笑)でした…
 でも、この日本国憲法は女性も参政権を得て初めての普通選挙の衆議院で賛成421対反対8(共産党議員が「自衛戦争は良
し」とする立場から6人、あと後の社会党系が2人だったような気が…)、貴族院で298対2の超圧倒的(笑)賛成で「People
が誓った」ものなんですよね…People宣誓!!!
 原案は「天皇大権・無民主主義・無基本的人権の日本帝国憲法」を敗戦後も継続しようとした昭和天皇をはじめとする日本
支配層にGHQが押し付けたにせよ、衆議院・参議院で自由に議論し、修正し、25条を加え、People代表者たちが…昭和天皇
の最後の勅令で、朝鮮半島・台湾等の植民地臣民は日本国籍だったにもかかわらず参政権を奪われていましたが…「誓った」
ものでした。
 「Peopleへの押し付け度」という点では、伊藤博文を代表とした薩長成り上りどもが、Peopleには全く極秘で、いきなり、
Peopleに押し付けて、Peopleを「subject」なんぞに貶めてくれた帝国憲法よりも「押し付け度」は天地の差がありますよね…
 「トイレの中にも貼って覚えたんだよ。」とか「お母さんと一緒に競争して覚えたよ。」とかいう人たちもいました。
 アベシンゾーさんにも、妻とお母さんといっしょに覚えてほしい(笑)ものですけど、たった13条しかないポツダム宣言で
すら「つまびらかにしていない」なんぞと恥ずかしげもなく公言してしまえる人ですから、私は日本国憲法前文さえ「つまび
らかにしていない」のではないか、とニランデます(笑)けど…
 授業では一番初めに「日本国憲法を守らなきゃいけない人は誰ですか?」と生徒たちに聞いてみます。とても素直で良い子た
ち(笑)に日本の学校教育で育てられた子どもたちは「みんな」とか「国民」とかと答えます。
 「じゃ、日本国憲法には『憲法尊重擁護義務』…と黒板に書きます…は第何条にあるか、探してみてください」と言って第99
条を探し出させて…なにしろ、最後の方(笑)なのでなかなか時間がかかりますが「最後のシメなんだよね」と確認し…読ませ
ると「え~っ、国民が入ってないよ」ということで「みんなは『国民みんなが憲法を守らなきゃいけない』と言ってたけど、日
本国憲法には、それ無いよね? なんでだろ?」と…
 暗唱の前に「今、この憲法を変えなきゃいけないという政治家が増えているので、今後、どうなるか分かりませんが」と言っ
ておいたので「じゃ、覚える意味ないじゃん? 無駄じゃん?」と言った生徒もいました。
 「でも、この憲法を変えるかどうか、その時にみんなは投票することになるかもしれないから、これを変えていいだろうか? 
と考える基準になるでしょ? もう、その時は忘れてたとしても、投票するときに思い出す可能性は、一度覚えた人は早いと思う
し、これは人類の民主主義の歴史が詰まってるから、絶対に『無駄になる』ってことは無いとセンセは思うよ。」
 今、あの時の子たちは20代前半~50代になっていますが…
 「本土のわれわれも憲法の前文をいますぐ身につけましょう。」に全く賛成です! 石原都教委に免職された後、各地で市民歴
史講座の講師をさせていただきましたが、地元の我孫子市の講座では20代前半の若者が前文暗唱に挑戦し、参加者の前で見事な
暗唱をしてくれました。 
  あ、それから日本会議・自民党や石原慎太郎なんぞは日本国憲法は翻訳調で悪文だなどと言ってますが、前文は作家の山本有
三が口語調にしたものを元にしているので、普通の日本の法律の日本語よりはよっぽどマシではないでしょうか。   
 また、元に戻りますが、前文暗唱はいつも学年一人はできない生徒がいました。教科書に載っている前文をゆっくり朗読しても
らい「うん、素晴らしい朗読だったね、努力賞で10点」ということにしましたが、今、思えば「学習障害」だったのかな、と思
います。特別な支援が必要だったのに何もしてあげられず、今は申し訳ない気持ちです。
  ひこさんが言われるように、その状態を「的確に指示すべきことば=概念」を表す「ことば」が形成されて、初めて的確な対
応の方法が出て来る…まだまだ手探りではありますが…のですね!
  さて、最後に宣伝になりますが(笑)私が「公務員不適格」として石原慎太郎都知事配下の都教委によって分限免職された経
緯については『たたかう! 社会科教師』(社会批評社)を参照いただければ幸いです。
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今、子どもたちと一緒に憲法の前文をよみましょう!
「あたらしい憲法のはなし」では、
「この前文には、だれかこの憲法をつくったかということや、どんな考えでこの憲法の規則ができているかということなどが記されています。
この前文というものは、二つのはたらきをするのです。
その一つは、みなさんが憲法をよんで、その意味を知ろうとするときに、手びきになることです。つまりこんどの憲法は、この前文にある考えと、ちがったふうに考えてはならないということです。
もう一つのはたらきは、これからさき、この憲法をかえるときに、この前文に記された考え方と、ちがうような
かえかたをしてはならないということです。」(4~5ページ)と書かれています。
わたしたち国民(ひとびと)がまもらなければならないのは、この前文なのではないでしょうか?1条から103条は国に守らせることです。
わたしたちは、「九十九条の会」をつくり、裁判所に憲法の番人になってもらうのです。
9条が論議されて、前文から考えようとするマスコミも政治家も学者もおもてにはでてきません。
前文からかんがえるのは「ひとびと」Peopleの特権なのです。
子どもや孫に基地は残せない。美ら海を守ろう!、一人も取り残さずすべての人が輝く未来をいっしょにつくって行きましょう。オキナワは前文のここですね。
本土のわれわれも憲法の前文をいますぐ身につけましょう。
2019.1.22
憲法語らい場
古川ひろすけ
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クニについて

魯参さん、増田さん、古川さん、みなさん、
ことば(単語)についてなにか言うさいに、肝要なのは、
だれが、どういう立場で、なんのために、という問いを棚上げにしないことだと、
わたしは、むかしから考えてきました。
なぜなら、ひとつのことば(単語)は、ひとつ(かいくつか)の意味内容を指示=表現している、
すなわち、ひとつ(かいくつか)の概念を表現している、のであるからです。
おおむかしからひとびとがつかってきたことばもあれば、
ある時期に、意図的につくりだされることばもあります。
それまで、この社会になかった、いいかえれば、この社会に生きているだれもが、
まったく知らなかった、あるいは、意識化しえていなかった、そういう「こと=概念」を
なんとか表現しようとして、あたらしいことば(単語)がつくられるばあいを
おもいうかべてみると、この人間的いとなみが見えてくるでしょう。
ここ半世紀あまりのできごととして、典型的なのは、Sexual harrasment ということば(単語)を
女たちがつくりあげた(ものにした)ことでした。
それ以前にも、このことば=概念によってあらわすことのできる行為は存在した。
その行為をこうむった被害者たちはたくさんいた。
けれども、その行為をどのように表現すればいいのか、わからなかった。
その行為を的確に指示すべきことば=概念がなかったからです。
このことば=概念を、女たちが獲得しえたからこそ、
このことば=概念によって指示されうる行為を、
人間としてなすべからざる、他人の人権を破壊する行為として、
社会的に糾弾することができるようになった。
あたらしい概念はあたらしい表現=ことばによって指示されるだけではない。
おおむかしからひとびとが日常生活のなかでごくふつうにつかってきたことばには、
ながい歴史のなかでまとわりついたさまざまな手垢あるいはヘドロが
こびりついていている。
その手垢・ヘドロをていねいにあらいおとして、
そのことばがもともともっていたかがやきをとりもどす。
これは、詩人や作家のしごとですが、しかし、
詩人でも作家でもないどんなひとにでもできることですね。
わたしは、「くに」ということばを、このいまのこの状況のもとで、
わたしたちが、いまのこの国家による支配に起因して
うしなわされている、このことばのもともとのかがやきをとりもどしたい。
なんのためにか?
このわたしが、このいま、どうしても容認しえない、
日本国という名の国家をのとって支配している「やから」の企図を、
このことばにもともとのかがやきをとりもどさせることによって、
うちやぶりたい、と、おもっているからです。
そういった人間的ないとなみとかかわりのないところで、抽象的に、
ひとつのことばの「意味内容」(言語学的には「意義」)を
あげつらっているわけではない。
さて、古川さんがおっしゃる「縄文はせかいをつなぐ」には共感します。
というより、わたし自身、かなりむかしから、そうおもい、そう言ってきました。
どこでどのような表現をとったかは、おもいだせないのですが、
たしかに、いつか、こんなことを書いたという記憶があります。
おおむかし、人間がこの地球でくらしはじめたころ、
山も森も林も野原も岸辺も海も、だれのものでもなかった。
つまり、だれのものでもあった。
だれかが、それを所有しているのではなかった。
だれもが、その力に応じて、そこにくらしているひとたちみんなといっしょに、
いのちをつなぐかてを、山や森や林や野原や岸辺や海からいただいて、
それぞれのひとが必要とする分を、わけあってくらしていた。
わたしが、「日本国民」とか「日本人」とかいった表現をできるだけつかわずに、
「日本列島(あるいはたんにこの列島)」にくらすひとびとといった表現をとるのも、
じつは、「国家」「国民」といった概念から自由でありたいがゆえなのです。
縄文時代にこの列島にくらしていたひとびとには、
支配する者と支配される者という「区別」はまだなかった。
つまり、みんなが人間として平等だった。
つまり、みんな「ピープル」だった。
We, the People.
「ピープル」が大文字で書かれ、そこに定冠詞がつけられている。
これこそが、JapaneseとかEnglishとかAmericanとかいった形容詞の不要な
「ピープル」そのものなんですね。
じつは、CODでは、
「Persons composing community,race, or nation, as the English people,
English speaking peoples。」
といった説明がなされていて、あじわいぶかかった。
形容詞ってやつは、名詞を「限定」するんですね。
だから、people を「イギリスの」と限定すると、
それは、「イギリス人(民族としての)」あるいは「イギリス国民」となる。
「ジャパニース・ピープル」を「日本国民」と訳したからといって、「誤訳」にはなりません。
ただ、そこには、そう翻訳して「ひと(たち)」の思想が表現されている。
そういう「形容詞・限定」をとりはらった、
しかも、大文字で定冠詞をつけた「the People」こそが、
この地球に生きるすべてのひとびと、ただし、
支配者ではないひとびとを、的確に指示している!
感動します。 
ひこ
   
ーーーーー
増田さん、みなさん 
原住民、奴隷(そして女性も多くの点で)・・・
歴史は加えていった」はアメリカ事情・歴史を少
しでも知っている人達は歴史を知っているので、
勿論自らの努力と多くの協力者達の努力によって
変えていった事を知っているので表現したもので
す。「自力で」全てではなく、政治・経済・社会・
文化の進展と共に多数者の理解・協力があって成
し遂げたものでしょう。
魯参
ーーーーー
吉田様
 増田です。続いて、この第2メールも、とても大切なところだと思いますので、改めて返信します!
>We, the peopleとして、以上の元になった米国の憲法制定時を考えると英国から独立して生命・財
産・自由の権利を守りたい人々ということでしょうが、原住民・アフリカ奴隷は(また多くの点で女性
も)含まれませんでした。しかし歴史は順次これらを加えて行きました。
 そこなんですね! 実は、生徒たち=未来の主権行使者たちに教えたいのは、日本国憲法ではGHQ案
にあった 「the people」を日本政府の役人が全部「日本国民」(第10条にはJapanese nationalという英
語なのに)にしてしまったけど、ここは本来は「人々」「人民」とすべきところなので、外国籍の人たち
だって全て日本国憲法の基本的人権は保障されるんだよ! ということです。
 で、この吉田さんの最後の文言ですが「歴史は順次これらを加えて行きました。」は、ちょっと不正確
ではないかと思います。
「歴史の中で原住民・アフリカ奴隷は(また多くの点で女性も)闘い続けた結果、順次これらが加えられ
て行きました。」とすべきではないでしょうか?
 ちょっと揚げ足取り的(笑)になっちゃって申し訳ありませんが、どうも「歴史は」という表現は…よ
く使われる文言ですが…なんだか、時間経過の中で自然に「権利」が獲得できたような感じで、良くない
と思うのです。
 原住民・アフリカ奴隷は(また多くの点で女性も)、時には命を懸けた闘いの中で自力で「We, the 
people」に加わっていった、というのが歴史の事実なので…
   
 
ーーーーー
増田さん、みなさん、 
We, the Japanese peopleについては人により
(立場・都合)によりいろいろに解釈できる
(それが言葉の曖昧さ・好都合でもある)と
思います。法律家(政治家・官僚)は法律で
定められた日本人としての身分を持つもの、
特に他国(人)との関係ではビザなど所有者
ということになるでしょう。(これは属地主
義か属人主義かにより国家・国民の思想・主
義と関係しますね)。
We, the people in Japanと言えば出生の土地
に拘わらず、現在居住地が日本なら全ての人
が含まれるでしょう。(法律家・言語学者等
は、この表現を使わないのだから、上記の表
現は狭義に解して日本に生まれてその身分証
明を持つ者のみと議論するでしょう。)
We, the peopleとして、以上の元になった米
国の憲法制定時を考えると英国から独立して
生命・財産・自由の権利を守りたい人々とい
うことでしょうが、原住民・アフリカ奴隷は
(また多くの点で女性も)含まれませんでし
た。しかし歴史は順次これらを加えて行きま
した。今では米国に生まれれば米国人の権利
が生れますが、トランプは不法移民の子供達
の生得権を奪おうとしています。
以上から国家形成員の意向が反映されて変わ
るものだと判りますが、「国家主義と戦争の
世紀」悪を超越する為に、村・街・藩・州等
が政治・経済・社会・文化の発展と共に絶対
でなくなったように国(家:地位:権力:戦
争等)無くなり(国土・郷里などは消滅しな
い)、害あって利のない戦争・核・基地・軍
などを早く平和・命・福祉・教育などに全て
を転換すべきではないでしょうか?
魯参
ーーーーー
ひこさん、みなさん、
 こんにちは。増田です。
 私は今まで、憲法授業において「We, the Japanese people」を「『我々、日本の人々=日本の人民は』ということだから、
当然、日本人じゃないけれども、日本に住んでいる外国の人々も含むんですよ。日本語憲法では『日本国民』と書いてる
から『日本国籍を持つ日本人だけ』というふうに考えがちだけどね、『日本に住んでる全ての人々』ですよ」と教えてき
ました。
 つまり「the Japanese people」=「the people in Japan」だと思っていたんですけど、「the Japanese people」のニュアンスと
しては「日本国籍を持つ日本人だけ」を意味するものであり、「the people in Japan」は包含していないのでしょうか?
 英語に堪能な方、よろしく!
ーーーーー
藤田さん、古川さん、みなさん、
以下、再送です。
「平和の詩」に関しては、これが朗読された直後に大塚さんが文字におこしてつたえてくれ、
魯参さんがたたちに英訳して広めてくれたという経緯があります。
当時、わたしも、この詩のすばらしさに言及しています。
こんなふうに、世界にひろまっていくことを、うれしくおもっています。
さて、このこととはべつに、ちょうどいい機会ですから、
日本国憲法の前文にかぎらず、全体をとおして、
主語が「日本国民」「国民」となっていることについて、
と同時に「くに」とわたしがかならずかながきするものと「国=国家」とのちがいについて、
わたしの考えをおつたえしておこうとおもいます。
日本国憲法の英文では主語は一貫して
「We the japanesepeople」です。
「われわれ(われら)」あるいは「わたしたち」イコール「ピープル」ですね。
「ピープル」とは、「民(たみ)」「民衆」「大衆」「人民」という意味のことばです。
王(皇帝)でも貴族でもない「平民」であり、とりわけ、支配者となりうる富裕層ではなく、
つねに支配される側にいた、いまもいる「民(たみ)」を指していますね。
この「民(たみ)」こそが、自分のことを自分で決めて、自分で実行する。
これが、民主主義のに基本的ですよね。
だから、「民(たみ)」こそは、民主主義国家のにないて=「主権者」です。
このたいせつなことば=概念を「国民」ということば=概念にすりかえたのは、
べつなことばで表現すれば、ここに「国民」という語を密輸入したのは、
「大日本帝国」の支配者たちと階級的におなじ敗戦直後の内閣のひとびと、です。
いま、安倍政権は、日本国憲法の「改正(じつは「廃絶)」にあたって、
憲法を、「民(たみ)」が「政府」の暴走を抑制する(政府をしばる)原典から、
逆に、政府が「民(たみ)」をしばる法典へつくりかえようとしています。
「ピープル」を「国民」と言いかえたのは、このケシカラヌ改変の布石であったとさえ言ってもいい
重大な行為でした。
もういちど言います。いま、安倍政権は、
日本国憲法の根本精神を「国民」がまもるべき規範につくりかえようとしています。
九条だけの問題じゃないのです。たとえば女性の人権の否定=家父長制家族を
国家の基礎単位とする、基本的人権の否定などなど、じつは、日本国憲法の
精髄の部分を骨抜きにしてしまおうとしているのですね。
このひとたちの根本思想は、「国」が先、「民」があと。
「国」あってこそ「民」がある(ありうる)。
だから、とうぜん、「国民」という語になる。
さて、ずっとむかしから、わたしは、ことあるごとに、
「くに」と「国」とはちがうと力説してきました。
どうちがうのか?
「くに」とは、ひとがうまれ、そだち、そこで死ぬ土地のことです。
つまり、「ふるさと(故郷)。
英語ではcountry. フランス語ではpays、ロシア語では rogina(ラテン文字転写)です。
「Ma Normandie」というフランスでふるくからうたいつがれている歌では
「C’est le pays qui m’a donne le jour.」とうたわれています。
直訳すると「それはわたしに日々をくれたくにだ」と
この「日々」とは、毎日のこと、つまり、日々のくらし=人生のことです。
まさに、ふるさとの定義ですね。
なぜかながきで「くに」と表記するのか?
このことばは、ふるくから日本語としてあるからです。
「国」というのは中国からもたらされた文字です。
これを漢音では「こく」と読むので、
「日本国」「英国」「米国」などという表記が可能です。
つまり、国家の名称を表記するのにもちいいられる。
この文字を訓読みにして「くに」とした。
そこから、ふるさとと国家との区別があいまいになった。
じつは、これ、日本民族を全体としてひとつの「家族」と考える思想の
もとになっているのですね。
つまり、日本民族=日本人は、天皇を「祖」とする一大家族であるという思想です。
これをアジアから世界全体に広げると、
「八紘一宇(あめのしたをおおいていえとなす)」の思想になります。
安倍政権が企図する「改憲」の根本精神は、ここにあるのですね。
わたしたちは、「くに」を愛したいせつにすることと、
「国=国家=日本国」を愛したいせつにすることとを混同しっぱなしでは、
安倍政権のたくらむ戦略にとらえられたままになってしまうでしょう。
ついでに、もうひとつ。
日本国憲法では「日本国民」だけが主題となっています。
「日本国民」とは「日本国」の国籍をもっているひとのことです。
これをイコール「日本人」ととらえているひとびとが多いでしょうが、
日本国籍をもつひとのなかには、民族的に日本人ではないひとびとが
おおぜいいます。
こういうひとびとまでが、たとえば、こぞって、天皇を支持し、
天皇という存在を認めているのであると解釈しなければ、
日本国憲法第一条「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」
は、成立しません。実態としては、はたして、どうなのか?
もっと言うと、日本国憲法は日本国籍をもつひとたちだけを念頭においていますが、
じっさいに、この日本列島にくらしているひとたちのなかには、
日本国籍をもたない(取得しようとしない)ひとたちがすくなからずいます。
そのひとたちの基本的人権をまもる基本法典としては不備です。
わたしは、「We, the Japanese people]」ではなく
「We, the people in Japan」とすべきではないかと考えています。
「日本国にくらしているわれわれ人民は」ですね。
ひこ
ーーーーー

クニ・人々

(「平和の詩」米国平和団体掲載の続き)

ひこさん

みなさん

 

縄文はせかいをつなぐという話をさせてください。

 

ロブ・カジワラさんの呼びかけに賛同して署名するとWe the  Peopleで返ってきました。

われわれは「ひとびと」であり、「国家ではない」のだ!という電撃がはしりました。ロブはひい爺婆がハワイに移民したオキナワ四世なんです。相良倫子さんは曾祖母さんさんの話を聴いて、平和を考える子となりました。

オキナワはチムグクル(肝心・真心)とイチャリバチョーデー(行き会えば皆兄弟)ですから地球のどこにせいかつしようと世界平和のこころなんです。それは縄文です。縄文は共同が原理です。「いのちの交歓・生きる尊厳・誇り」です。これが新時代(NEW ERA)と思います。このことが今 未来でなければなりません。

「日本国憲法の前文」は縄文のよみがえりと考えています。「敗戦」・「震災 原発事故」などの歴史的傷口には縄文がよみがえります。その意味で、日本人は世界平和の使命を授かっているとおもいます。

 

日本史に漢字が伝来します。それまでには縄文ことば(やまとことば)がありました。それがかろうじて漢字の訓読みに残っています。もはや音霊・言霊はわかりませんが、あいうええを五元素にした48音があったからこそその音に漢字を当てはめてかんじそのものから真仮名(平仮名)とするものと一辺を引用した片仮名の五十(48)音図が日本語にはあります。

「くに」を縄文よみすると「宇宙の創造神が生み出した源を指導者が宇宙から受け取り、そこに暮らす人々のために尽くした場所」となります。支配者はそんざいしない。

國は「境界線を設けそこを武器で守る」ことになるし、国は「境界線のなかに玉(ギョク・天皇)を戴く」ことで支配者はあります。国家がわたしたちのまわりをがんじがらめに洗脳している状態にあります。

そこから自由になるにはたえず日本国憲法の前文にかえって、Wethe Peopleをとなえ、真理探求することと思います。新時代は競争ではなくか共同です。(協働には注意)

 

2019.1.19

憲法語らい場

古川ひろすけ

 

ーーー--

 

ひこさんへ

富士宮の小林です。

「くに」とは、ひとがうまれ、そだち、そこで死ぬ土地のことです。

つまり、「ふるさと(故郷)。

ということならば

今後の日本の再生は地方にあるということになりませんか。

1/16の朝日新聞の夕刊に掲載されていた国分功一郎の「思考のプリズム」、大衆社会と全体主義「政治が消えゆく前に」を読んでも同様なことを思いました。

さらに言うと、無政府主義者の石川三四郎が73年前に焼け野原になった東京に立ち考えていたことは、新生日本の誕生は地域の社会からの日本の再建だったのではないかと思います。民主主義をつくりだすとしたら地域のコミュニテイから自治政府をつくり、地域連合体として日本の「くに」をつくると彼は夢見た。そこで石川がアナーキスト仲間から批判と失笑をかったあの発言「日本村の村長に天皇になってもらう・・・・・・」が出たのではないかと推測するしだいです。

この石川の発言の是非はともかく、戦後73年たった日本の社会を根底からつくりかえるのは、僕には地域から出てくる動きのように思えてならないのです。沖縄のこともこの文脈でとらえてはどうでしょうか。                     

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藤田さん、古川さん、みなさん、

 

以下、再送です。

 

「平和の詩」に関しては、これが朗読された直後に大塚さんが文字におこしてつたえてくれ、

魯参さんがたたちに英訳して広めてくれたという経緯があります。

当時、わたしも、この詩のすばらしさに言及しています。

こんなふうに、世界にひろまっていくことを、うれしくおもっています。

 

さて、このこととはべつに、ちょうどいい機会ですから、

日本国憲法の前文にかぎらず、全体をとおして、

主語が「日本国民」「国民」となっていることについて、

と同時に「くに」とわたしがかならずかながきするものと「国=国家」とのちがいについて、

わたしの考えをおつたえしておこうとおもいます。

 

日本国憲法の英文では主語は一貫して

「We the japanesepeople」です。

「われわれ(われら)」あるいは「わたしたち」イコール「ピープル」ですね。

「ピープル」とは、「民(たみ)」「民衆」「大衆」「人民」という意味のことばです。

王(皇帝)でも貴族でもない「平民」であり、とりわけ、支配者となりうる富裕層ではなく、

つねに支配される側にいた、いまもいる「民(たみ)」を指していますね。

 

この「民(たみ)」こそが、自分のことを自分で決めて、自分で実行する。

これが、民主主義のに基本的ですよね。

だから、「民(たみ)」こそは、民主主義国家のにないて=「主権者」です。

 

このたいせつなことば=概念を「国民」ということば=概念にすりかえたのは、

べつなことばで表現すれば、ここに「国民」という語を密輸入したのは、

「大日本帝国」の支配者たちと階級的におなじ敗戦直後の内閣のひとびと、です。

 

いま、安倍政権は、日本国憲法の「改正(じつは「廃絶)」にあたって、

憲法を、「民(たみ)」が「政府」の暴走を抑制する(政府をしばる)原典から、

逆に、政府が「民(たみ)」をしばる法典へつくりかえようとしています。

 

「ピープル」を「国民」と言いかえたのは、このケシカラヌ改変の布石であったとさえ言ってもいい

重大な行為でした。

 

もういちど言います。いま、安倍政権は、

日本国憲法の根本精神を「国民」がまもるべき規範につくりかえようとしています。

九条だけの問題じゃないのです。たとえば女性の人権の否定=家父長制家族を

国家の基礎単位とする、基本的人権の否定などなど、じつは、日本国憲法の

精髄の部分を骨抜きにしてしまおうとしているのですね。

 

このひとたちの根本思想は、「国」が先、「民」があと。

「国」あってこそ「民」がある(ありうる)。

だから、とうぜん、「国民」という語になる。

 

さて、ずっとむかしから、わたしは、ことあるごとに、

「くに」と「国」とはちがうと力説してきました。

どうちがうのか?

 

「くに」とは、ひとがうまれ、そだち、そこで死ぬ土地のことです。

つまり、「ふるさと(故郷)。

英語ではcountry. フランス語ではpays、ロシア語では rogina(ラテン文字転写)です。

「Ma Normandie」というフランスでふるくからうたいつがれている歌では

「C’est le pays qui m’a donne le jour.」とうたわれています。

直訳すると「それはわたしに日々をくれたくにだ」と

この「日々」とは、毎日のこと、つまり、日々のくらし=人生のことです。

まさに、ふるさとの定義ですね。

 

なぜかながきで「くに」と表記するのか?

このことばは、ふるくから日本語としてあるからです。

「国」というのは中国からもたらされた文字です。

これを漢音では「こく」と読むので、

「日本国」「英国」「米国」などという表記が可能です。

つまり、国家の名称を表記するのにもちいいられる。

 

この文字を訓読みにして「くに」とした。

そこから、ふるさとと国家との区別があいまいになった。

 

じつは、これ、日本民族を全体としてひとつの「家族」と考える思想の

もとになっているのですね。

つまり、日本民族=日本人は、天皇を「祖」とする一大家族であるという思想です。

これをアジアから世界全体に広げると、

「八紘一宇(あめのしたをおおいていえとなす)」の思想になります。

安倍政権が企図する「改憲」の根本精神は、ここにあるのですね。

 

わたしたちは、「くに」を愛したいせつにすることと、

「国=国家=日本国」を愛したいせつにすることとを混同しっぱなしでは、

安倍政権のたくらむ戦略にとらえられたままになってしまうでしょう。

 

ついでに、もうひとつ。

日本国憲法では「日本国民」だけが主題となっています。

「日本国民」とは「日本国」の国籍をもっているひとのことです。

これをイコール「日本人」ととらえているひとびとが多いでしょうが、

日本国籍をもつひとのなかには、民族的に日本人ではないひとびとが

おおぜいいます。

こういうひとびとまでが、たとえば、こぞって、天皇を支持し、

天皇という存在を認めているのであると解釈しなければ、

日本国憲法第一条「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」

は、成立しません。実態としては、はたして、どうなのか?

 

もっと言うと、日本国憲法は日本国籍をもつひとたちだけを念頭においていますが、

じっさいに、この日本列島にくらしているひとたちのなかには、

日本国籍をもたない(取得しようとしない)ひとたちがすくなからずいます。

そのひとたちの基本的人権をまもる基本法典としては不備です。

わたしは、「We, the Japanese people]」ではなく

「We, the people in Japan」とすべきではないかと考えています。

「日本国にくらしているわれわれ人民は」ですね。

ひこ

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