おすすめマンガ:ペリリュー楽園のゲルニカ

おすすめマンガ

みなさま
こんにちは。
ひこさん、魯参さん、お返事ありがとうございました。
ひこさんのメールに、ガダルカナルへ行かれた赤松清和さんのことが
書かれていたので思わず返信してしまいました。
というのもすごいマンガに出会ったからです。
ひこさんの御本「ひとはどのようにして兵となるのか」に書かれて
いる、楽園のように美しい島と、そこで展開する戦闘をなぞるかの
ようなマンガです。
「ペリリュー 楽園のゲルニカ」(武田一義さん著)
第二次世界大戦時、日本軍は、米軍がフィリピンに上陸するのを
阻止するためにパラオ諸島のペリリュー島に大軍を送って
徹底的な持久戦を展開します。そこで何が起こったか・・
3等身のとってもかわいいキャラクターなのに、描かれている
戦場の凄惨さは死臭が漂うよう。四肢が吹き飛んだり
精神を病んだり、水を得るために死体をあさったり。
そこで描かれる死は勇ましくも美しくもない、一兵卒も軍曹も
上官も、「玉砕」すら禁じられ、ただ大本営の「時間かせぎ」のために
持久戦を命じられ消費されていく。
「功績係」を命じられた主人公の田丸は、彼らの惨めな死を
「英雄の死」と「創作」して家族に送ろうとして気づきます。
「もしかしたら伝えられている勇士たちの死も・・?」
こちらに詳しい説明やマンガが載っています。このページの一番下
から「試し読み」ができますので、ぜひごらんになってください。
西岡由香

ーーーーー

ゆかさん、
おしらせ、ありがとう!!
いま、アマゾンに1~7巻セットを注文しました。
マンガというジャンルの力を知ったのは、30年ほどまえ、40歳ほど歳下の娘たちからでした。
その後、もっぱら少女漫画に関心をいだいていた。
とはいえ、関心のどあいは低かった。
なのに、あなたに出会ったおかげで、このジャンルの力を深く知るにいたっています。
悲しいことを悲しく、苦しいことを苦しく書くのではないことを、
わたしは、白井愛から学びました。
「掃きだめの鶴」という詩があります。
「掃きだめの鶴には じつは もう 行くところがなかった」ではじまる。
行くところがなかった、けれども「掃きだめの鶴は飛び立った」。
「掃きだめの鶴は飛びつづけた。
怒りの重さゆえに かろやかに
披露の重さゆえに 快活に」
とはいえ、散文には限界があります。
映像作品にも限界がある。
とりわけ、ドキュメンタリには。
リアルに描けば、リアルにことの真実がつたわるってものじゃない。
このマンガをかいまみただけで、
これは出ているかぎり全巻を読まねばならぬとおもった。
ちょういと見ではすまされない。
赤松さんを深く知ったことによって、わたしは、戦場・戦闘という「ことば」の真実が
どういうものであるのかを、ほんのちょっぴり、知ることができました。
と同時に、戦場を描いている作品(小説とドキュメンタリをふくめて)が
いかに玉石混淆であるかをもおもいしらされました。
なにを、どのように、どこまで、描きうるのか。
これは、わたしにとっては、いまなお未解決な課題です。
武田さんのこの作品が届くのがたのしみです。
いま、体調がすぐれず、まともに生活できていないのですが、
このマンガを読んだら、きっと、元気になるでしょう。
ひこ
ーーーーー

由香さん、みなさん

有益で興味ある情報を有難うございました。
早速地球倫理のブログに転載させてもらい
ました。これから平和世界やFBなどにも転
載・利用させてもらうつもりです。
詳しい解説と実際の作品を読ませてもらい
ました。カバーと導入部の色刷りは印象的
で忘れがたいものですね。この楽園の島が
ゲルニカと同様に無差別爆撃を受けて屍の
累々たる廃墟と化すことをピカソの意図と
同様に十巻余の記念碑にするのでしょうね。
人間は特に優れた視覚の動物だから絵画等
視覚作品は印象的で忘れ難いですね。この
作品も由香さんの教皇や平和世界の為に描
いてもらったウェブサイトの題画などと同
じように、楽園の島に地獄を経験するだろ
う三頭身の一等兵は忘れ難いものですねー
この兵卒は読者が自己同一化してしまう様
に創作されたのでしょう。
戦死通知は少し変えて皆に利用されたよう
にすぐ思われましたが、主人公ー読者もそ
れをやらされ、戦争の片棒担ぎをふと後悔
するところは時々使われる島や海や空の自
然に促されあるいは頷かれる良心ですね。
解説にあったように生々しい惨状は柔らげ
られ読者を引き留めているようですが、相
手を敵・鬼畜とするのもある程度読者には
客観視できるようですね。
皆さん、サンプルページを是非読んで下さ
い。更に先を読まれた方は是非とも感想や
カットなどの紹介をお願いします。
これが世界中で老若男女に広く読まれて、
戦争の愚劣・野蛮・悲惨が忘れ難い痕跡
を残してくれることを祈って皆で共有・拡
参に努めましょう‼ 
魯参
ーーーーー
ひこさん、魯参さん、みなさま
こんにちは。
紹介したマンガ「ペリリュー 楽園のゲルニカ」を
ごらんいただき、またお薦めくださってありがとうございます。
今朝の新聞では、アメリカの「週末時計」がのこり100秒に
なったと伝えています。核の脅威、環境破壊の影響からです。
ペリリューのマンガの中で、スコールのあと美しい虹が出る
シーンがあります。その下で敵味方が殺しあっている。
その救いようのない描写に、もう「ああ・・」としか言いようが
ありませんでした。現在の世界も同じかもしれません。
敵味方を冷酷に手にかけてきた上官の一人が、飢えに直面して
「自分の体はこんなに生きたがっていると初めてわかった。
自分はもう戦えない」と告白するシーンが出てきます。
しかし絶望的な戦闘は終わらずに続いていく。兵士たちは
壕の中で語り合います。
「自分の家は大家族だから自分が死ねば軍人恩給で家族が助かる」。
為政者たちは、「死を正当化しなければならない」状況をつくりだして
「生きたがっている」体に無理やり死を受け入れさせていったのだ、
そんな気がします。
西岡由香
ーーーーー

由香さん、みなさん

虹の下で流血の地獄絵図を現出する人間とい
うのは何者なのでしょうか?三日月の星空の
下の島影も戦争中の田丸と平和時の読者とは
見え方が全く違いますね。しかし彼も一人で
星空の下の浜辺を歩きながら「嘘」を反省さ
せられるのですねー死者と遺族の為と思って
したことが国家の戦争犯罪の共犯者になり、
国家の神話増進の役を担ったのではないかと。
「お母さん」とは彼自身のでしょうか、小山
君のでしょうかーこれも自然やいのちが呼び
かけたのでしょうね。
一頁目の[第一話]の字の入った絵(最初は写真
と思ったが二頁目の浜辺の絵を見ると武田さん
はこれだけの写実的な絵=しかも波を透かした
光まで描ける才能の持ち主だと思いましたが)
を見る人それぞれの、同じ人でもその時の状況
によって、見方は違うのだと思わされます。
一人一人の業が見る世界を作っているのですね。
こちらで人々に接していて月の満ち欠けに頓着
しないことに気付きました(現代人一般がそう
なっているかも知れません)。「月は朧に東山」
という情感は若い時と今では自分でも随分違う
と思います。各人がそれぞれの世界を持ち、そ
れぞれの天国・地獄を生きているのですね。
「軍人恩給で家族が助かる」は「自国を守る」
と心情は違え同じ思想(自己中)ですね。そし
てこれが核・戦争は勿論一切悪と苦界を創り出
している根源ですね。例え生身は「生きたい」
と思う上官でも戦時中では逃亡も反抗も出来な
くなっているのですね。戦争が始まってしまえ
ばあらゆる犯罪・極悪が罷り通り、それをしな
ければ「生きられない」ということになります
―社会的動物の弱さですね。
社会的動物の真の強さは共に友として平和を守
り、共に真善美聖(全体健全)を享受・増進す
ることでしょう。この判り切ったことが判らな
短見・短慮の子供大人を早く目覚めさせるか権
力の座から排除するかしないと世界終末は現実
と化すでしょう‼
ーーーーー
魯参さん、ゆかさん、みなさん、
「ペリリュー島――楽園のゲルニカ」全7巻、明日にはそろいそうです。
8巻目も予約しました。
この作品には大きな期待をよせていますので、読みおえたら、感想を投稿します。
添付したものは、明仁がパラオを訪れたときにある集会で話した原稿です。
大本営が、ぺりリュー島の部隊にどういう姿勢でどういう命令をくだしたか、
その命令は、当時の状況においてどういう意味をもったのか、
その命令によって、現地の将兵は、どういう目に遭わされたのか、
などについてものべているので、御参考までに。
玉砕命令と玉砕するなという命令とはどちらもおなじですが、
現地の兵のきもちでは、おそらく、するな、のほうがつらかったでしょう。
この島での悲惨が、じつは、硫黄島、沖縄での悲惨の直接的前提となったこと。
これだけは、補足的に言っておきたいですね。
ひこ
添付不可能の為書類転載:

責任隠蔽のパフォーマンス

――天皇のパラオ「慰霊」の旅について――

 

2015年4月12日 韓国YMCA302会議室

共催 敗戦70年:象徴天皇制の70年を撃つ 4.29反「昭和の日 行動

反安保実行委員会

話者 彦坂 諦

 

 

はじめに

 

ごくふつうの順序ではなすことにします。まず、パラオとは、ペリリュー島とはどういうところか、そこでの戦闘とはどういうものであったのか?

 

A.パラオ日本」の「領土」だった?

 

パラオは日本の「領土」だったのだ、だから、ペリリユー島での戦闘は自衛のための戦いだったのだ、と言うひとたちがいます。そうでしょうか?

たしかに「南洋庁」といった「北海道庁」とおなじ名前の役所があり、学校ではこどもたちが日本語で教育を受けていたのですから、そうおもうのもむりはない。しかし、正確に言うと、パラオ諸島は「大日本帝国」の「領土」ではなく「委任統治領」でした。

ながいあいだパラオがどこにあるのかさえ知らなかった「国民」に足下に火がついたようにいっせいに口をひらきだしたマスコミが、こぞってまきちらかしている事実は、ほとんど、不正確、というより、過去の現実を犯罪的なほどにゆがめています。

なによりも、「委任統治」とはなにかをおさえていない。そこをすどおりして、あたかもあそこが日本の「領土」であったかのごとく、そこで日本がパラオのひとびとをどんなに幸福にしたか、パラオのひとびとがどんなに日本に、いまでも、感謝しているか、それだけを、しゃべりたてています。明仁天皇までそんなふうにおもっているということが、パラオでの晩餐会における挨拶のなかからうかがわれます。

では、じっさいはどうであったのか?

この委任統治という制度は、一種の詐術なのです。なぜか? 第一次大戦でドイツに勝利したイギリス、フランスなどは、秘密協定によって、戦後はドイツの植民地を分けどりすることにきめていた。しかし、そこにアメリカのウイルソン大統領が、敗戦国の植民地を戦勝国で再配分するという慣行はもうやめようじゃないかという正論をひっさげて介入し、まあ、本音のところでは、まあ、アメリカに不利にならないようにってとこだったともいわれていますが、そのせいで「委任統治」という制度がひねりだされた。

たしかに、おもてむきは、戦勝国が敗戦国の旧植民地を自国の植民地として搾取することをふせぎ、住民の福祉を推進し、きたるべき自治・独立への支援をおこなうことをめざす、といったふうにうたわれている制度ですが、実質的には、従来の植民地支配となんら変るところがなく、たんなる名称の変更にすぎなかった。じっさい、委任統治の受任国となったのは、大戦中に該当する植民地を占領した国家でした。詐術というゆえんです。

「大日本帝国」は、第一次大戦において、まさに、漁夫の利をねらって参戦し、国際聯盟から、ドイツの植民地であった島々の委任統治受任国となった。まさに漁夫の利を得たってわけです。

その後「大日本帝国」は国際連盟を脱退します。そこで、委任統治領に軍事施設をつくってはいけないという国際連盟の制約はもう受けないぞとばかり、おおっぴらに海軍の基地を建設しました。これが、ペリリュー島にアメリカ軍が攻めてくる原因となったのです。

 

B.ペリリュー島での戦闘

 

1.守備隊は敢闘した

ペリリュー島戦での戦闘は、あの大戦のなかではめずらしくまともな戦闘でした。文字どおりの激戦だったのです。

1944年の9月、アメリカ軍がこの島におしよせてきたとき、兵力においても装備や火力においても日本軍守備隊は桁違いに劣っていました。戦力を単純に比較すると、日本軍守備がほぼ1万人に対してアメリカ軍は5万近くですから1対5ということになりますが、しかし、日本軍には支援する海軍の艦船も航空機ももはやなくなっていたのに対し、アメリカ軍のほうには、空母28、戦艦15、巡洋艦20、駆逐艦77、航空機1170を擁する大規模な支援艦隊がいて、連日のように熾烈な空爆撃と艦砲射撃をあびせかけ、鬱蒼たる密林に覆われていたこの島をまるはだかにしてしまったのですから、おそらく日本軍の数百倍もの火力であったにちがいありません。

にもかかわらず、このように優勢な相手を凌駕するほどの戦闘技量とたくみな戦術を駆使して、具体的に言うと、適切に配置された洞窟陣地から、正確な、つまり、命中率の高い砲撃と、腕によりをかけた正確な狙撃とで、米軍をなやませ、武器弾薬も食料もつきたそのときまで、徹底抗戦をつづけたのです。ペリリュー島にはいたるところに洞窟がありました。これは米軍の熾烈な空爆と艦砲射撃をもしのげたほど堅固な洞窟でしたから、守備隊は、これらの洞窟を連結した陣地を適切に配置して、ゲリラ戦をつづけたのでした。

アメリカ第一海兵師団長は、こんな島は二日か三日で占領できると豪語したそうです。サイパンやグアムで、バンザイトツゲキとともに泡と消えた日本軍をまのあたりにしていたので、なめてかかっていたのでしょう。サイパンもグアムもほぼ3週間前後で占領しています。ところが、このペリリュー島では、適切に配置されていた洞窟陣地からの砲撃や狙撃になやまされ、多数の死傷者を出し、つまるところ、日本軍が「玉砕」するまでに73日、つまりほぼ二ヶ月半もの歳月をついやしてしまったのでした。

この「異例の奮闘ぶり」に日本軍首脳はいたく満足したらしく、中川大佐率いる守備隊には3度も「感状」があたえられていますし、裕仁天皇からは12回も「御嘉賞のおことば」をたまわっています。しかし、そんなことで、70日間もペリリュー島の洞窟にこもって戦い死んでいった将兵のいったいなにがむくわれたというのでしょう。

この島は珊瑚礁からできていたので、海岸の砂をのぞいて、およそ土というものがない。

鶴嘴(堅い地 面を掘るための鉄製の道具)も歯が立たない堅い岩でできていますから、戦死者を埋葬することなどできません。それに、洞窟から一歩外に出れば、たちまち、アメリカ軍に発見され、集中砲火をあびせられるのですから、死体の収容などできっこない。戦死者の遺体はのざらしにされ、熱帯の太陽のもとで腐敗していきました。

それに、小銃で撃たれて死ねば遺体はのこりますが、空爆なり艦砲射撃なりの砲弾に直撃されれば、木っ端みじんとなって飛び散り、ひとひらの肉片すらのこらなくなります。

戦闘の最後の段階でアメリカ軍はそれこそ非人道的な攻撃法をとった。つまり、占領し、整備し、拡大したペリリュー飛行場から飛びたったF4U戦闘機が、そのころはもう日本軍には高射砲はおろか対空機関砲もなかったのですから、日本軍の陣地の上空すれすれに、いくども旋回をくりかえして、ナパームガスを充填した容器を投下し、すぐそのあとに焼夷弾をおとして火をつけ、陣地一帯を焼きつくしました。

洞窟の入り口から火炎放射器で火炎を送りこみ、日本兵を焼きころそうとした。しかし、日本兵は火炎の届かないところに避難していたのであまり効果がないとわかると、こんどは、ドラム缶を大量にならべ、そこからホースで洞窟内にガソリンを注入し、それに火をつけて、焼きころしをはかった。これは、すこぶる「効果的」で、大勢の日本兵が犠牲になりました。

要するに、黒こげになり、灰になってしまって、遺体などとは言いえない死者たちが大勢いたってことです。こんなふうに死んでしまってから、いくら天皇陛下にほめていただいたとて、その死者にとって、いったい、なにになるというのでしょう。

 

2.犬死だった

ここで、この戦闘に関してだれも言わないでいることを言っておきます。この島で死んだ1万人あまりの将兵は犬死だった、ということです。こんなことを口にすると、自称愛国者たちは憤激することでしょう。自称愛国者でなくても、たいていのひとはいやがるでしょう。しかし、これらのひとびとの死は無駄であったのだと、あえて言うことから、その死を深く悼むことへの道がひらけるのであると、わたしは考えています。

なぜ、犬死だったというのか? 戦略的に無意味な戦闘に投入されての死だったからです。ペリリュー島をアメリカ軍が攻略しようとした1944年の9月には、すでに、あの戦争における勝敗はきまっていました。制海権も制空権ももちえないなかでの島嶼防衛など不可能であることは、サイパンとグアムでのてひどいまけいくさのあとでは、軍事常識さえあればわかっていたはずです。だからこそ、大本営は、「水際防衛」作戦をやめて、「徹底抗戦」「持久戦」と言えばひびきはいいでしょうが、要するに、全滅する時期をできるだけひきのばせと命じたのです。この意味で、ペリリュー島戦とは、まさに、硫黄島戦と沖縄戦とのさきがけであったのでした。

要するに、大本営では、守備隊が全滅することはわかっていた。いいかえれば、守備隊は見捨てることにきめていた。ただ、全滅する時期をできるだけひきのばせ、と命じているのです。なぜか? 米軍の日本本土への来襲を一日でもいいから遅らせるためです。後知恵のたぐいではあるけれど、せめて時の裕仁天皇にほんのすこしでもまっとうに状況を判断しうる能力があったなら、ペリリュー島での1万人あまりの将兵の死も、硫黄島での2万人あまりの死も、沖縄での一般住民をも含めての20万人の死も、東京大空襲での8万人以上の死も、広島では12万人とも20万人とも、長崎では7万人とも14万人ともいわれて正確な数字をつかむことさえむつかしいような大量の死をも、避けられたはずです。

このあたりのことを、はたして、パラオへの「慰霊」の旅をしたいとねがった明仁天皇にはどこまでわかっているのか? それよりなにより、守備隊の将兵にこれだけの苦難をあじあわせる原因をつくりだした父親裕仁について、どこまでどのように知っているのか、どのように批判し、反省しえているのか?

 

C.「慰霊」とはどういうことなのか?

 

ここでおはなしすることをひきうけたあと、そういえば「慰霊」についてはいくどかはなしたことがあるなとおもって、たしかめてみました。三度ほど記録が残っています。いずれも「反天連」の季刊雑誌『運動〈経験〉』に掲載されています。

いちばんはやい時期のものは「英霊の送られかた」ですが、これは集会ではなしたものではなく、書きおろしで、2004年4月発行の第11号に掲載されています。

つぎは、2005年の7月3日におこなわれた「天皇のサイパン『慰霊』訪問反対!死者を利用した戦争国家化を許すな!7.3討論会」ではなしたもので、2005年12月発行の第16号にのっています。

3番目は2007年の「国家による『慰霊・追悼』に反対する8.15集会」で、音楽批評家の東琢磨さんといっしょにはなした内容を記録したもので、「『美しい国』の『美しい死者』はいらない」というタイトルで2007年12月発行の第23号に掲載されています。

 

以上の内容を、「慰霊」とはどういうことかというここでの主題に即して、まとめてみましょう。

まず、戦死した将兵は、つねに、時の国家権力によって利用されてきたし、いまなお利用されていることを指摘しています。なんのために利用するのか? 国民精神を総動員するためです。なにに向けてか? 新たな戦争に向けて、です。

では、国家が死者を利用するには、死者をどのようにとりあつかえばいいのか?

 

1.死者を顕彰する

死者を利用するには、死者を顕彰する必要がある。なぜか? 死者を利用する国家とは近代国家です。近代国家とは国民国家です。すくなくとも建前としては「民族国家」です。

したがって、その国家の「防衛」は、その「国民=民族」の聖なる義務ということになります。

となれば、とうぜん、祖国防衛の戦における死者たちに、国家は、祖国への愛と献身に感謝し、その勲功をたたえなければなりません。ですから、どんな国にも、たいてい「戦没者記念碑」とか「無名戦士の墓」といった施設があります。

戦争における死者の国家への献身に、国家が感謝し、その勲功をたたえるという施設の中核が日本では靖国神社です。

戦死者を靖国神社にまつるという行為は、当時の日本人の生と死に関する意識を吸収しつくすものだったのですね。つまり、戦争で死んだむすこや夫は、お国のため、天皇陛下のためにいのちをささげたのだというふうに、その生と死に最終的な意味づけをあたえたのです。

なぜ死んだのだろう? どこでどんなふうに死んだのだろう? のこされた遺族は、自然な感情として、戦死した身内の死の実情を知りたがります。しかし、死の理由を求めるこの行為くらい、その兵を戦場で死なせる原因をつくった国家の側からすれば、ぐあいのわるいことはありません。

ですから、国家は、遺族に対して、身内が戦死しなければならなかった現実を納得させるための意味をつくりだしてあたえなければなりません。国家がそういった意味づけを提供しなければならないのは、あらたに戦争をはじめるとき、「国民」をもういちど戦場に送りこまなければならないからです。そのためには戦死したという不幸が幸福へと、死の悲劇が栄光へと変りうるように、意識を転換させなければならない。

 

2.死者は美しい英雄でなければならない

栄光のなかの死者は、そして、つねに美しい。美しくなければならない。なぜか? そうでなければ、死者をたたえることができないからです。しかし、現実には、死者は美しいとはかぎらない。いや、むしろ、みにくく、おぞましくさえある。

「資料1」をごらんください。ほかにも、いろいろな死のありようについて叙述しているところをぬきがきして、資料2から資料6までに並べておきましたから、これもごらんください。

人間の死にかたは平和な時代にあってすら千差万別であって、ひとりとしておなじ死にかたをすることはない。まして、戦場では、いつ、どこで、なにが、どのようにおこるのか、まったく予想もつかないのです。そんな状況のもとで、単一の「美しい死」など、もともと、ありえようはずもない。

その、ひとりひとりの死者の、そのとき、そのところでの死にまつわるもろもろの具体的な人間的真実は、しかし、国家が死者をたたえるには邪魔でしかない。なぜなら、国家が必要とするのは具体的真実ではなく、抽象化された物語だからです。その物語のヒーローは、そして、顔も名もある具体的な人間ではなく、英雄という型にはまった美しく模範的な人物でなければならないのです。なぜなら、具体的存在としての人間は、かならず、

国家が必要とする型にはまった美しい物語の秩序をみだしてしまうものだからです。

 

国家が必要としているのは、死者のあとにつづくと期待されている次世代の「国民」のこころに、祖国に対する誇りと愛をやしない祖国防衛の戦いに生命をささげようという「気概」をよびおこすことのできるような、美しく英雄的な死者のすがたなのです。

国家による「慰霊」とは、このように、死者の顕彰・英雄化・美化と密接不可分の関係にある。現実の死者たちは、このようにして、国家権力にくすねとられ利用されてきた。

 

3.美しいことばは現実を隠蔽する

死者を美化するのにもちいられるのは美しいことばです。ところで、美しいことばには現実を隠蔽する機能があります。これは、わたしが身をもって深いところから感じていることですし、ひとりの表現者として、美しく書くな、正確に書け、と、つねに自分自身をいましめていることでもあります。

はじめてそこに気がついたのは、防衛省の防衛研修所が編集して朝雲出版社から出している「戦史叢書」を読んでいるときのことでした。この叢書は全102巻におよぶ膨大なもので、「公刊戦史」と呼ばれ、あたかも日本国の公式の戦史であるかのようにおもわれているのですが、こんなものを国家による正史にすることなどぜったいにゆるしてはなるまいと、わたしは考えています。

しかし、たとえば、ガダルカナルにおいて、第二師団の兵たちがなぜ密林のなかで餓死させられていったのか、その理由をさぐるには、そもそも、軍の下級機関である現地の諸部隊からどのような報告が上級緒機関へあげられていたのか、その、ありていに言えば虚偽の報告にもとづいて、大本営という戦争指導の最上級機関が下級の緒機関にどういった非現実的で実行不可能な命令をくだしていたのか、それを知るためには、もってこいの資料ですので、わたしは、シリーズ「ある無能兵士の軌跡」を書くさいにつかっていました。

そこで気づいたことがあります。なにかつごうのわるいことがあって、しかしそこに触れないと話がすすまないというところにさしかかると、それまでは素っ気ないくらいただ事実を記述するだけであったのに、急に、叙述の調子が変ってきて、妙に美文調になってくるのですね。

きょうの主題である天皇「慰霊」の旅の場ペリリュウ島に即した例もあげておきましょうか。つぎのような文章をどのように受けとられるでしょうか。

 

翌十八日、千明隊主力は、南島半島にあって獅子奮迅の活躍をし、敵に恐怖と戦慄を与えつづけた。関東軍で鍛え抜いた第三大隊精鋭は、とくに歩兵十五連隊の名誉にかけて決死奮戦するも、ついに衆寡敵せず、そのときわずかに残る負傷者は南湾の断崖に立ち、はるかに北方を拝し、絶海の怒濤の中に身を投じて千明大隊長の後を追った。(中略)

熱血群馬健児! 千明大隊長以下将兵の最期の絶叫を伝えよう。

「われらここに祖国を遙かなる南海の孤島に英霊となり、祖国の繁栄と平和、同胞家族の幸福を見守る。願わくば我等のこの殉国の精神、永遠に銘感されん事を」

 

これは船坂弘『ペリリュー島玉砕戦』(光人社NF文庫、2010)からアトランダムにぬきだした文章です。船坂氏は、御自身ペリリュー島のすぐ南にあるアンガウル島での戦闘に参加した生き残りのひとりです。この文章に意図的な潤色は、たぶん、ないでしょう。しかし、あの激戦当時の意識がそのまましみついていて、無意識にこの文体になってしまった、というより、このような文体でしか書けないのではないかとおもいます。

それにしても、「将兵の最後の絶叫を伝えよう」以下の文章は、どこからどう見ても、

あのペリリュー戦のなかで死んでいったひとたちの意識であるはずがない。戦後の、それもある種のひとびとに特有の意識でしかないでしょう。しかし、このひとのなかでは、それが、あの島で「玉砕」した勇士たちの「英霊」の声となってしまっているのですね。

ここには、あとで触れる天皇による「慰霊」の「おことば」のありようとも、いまの第二次安倍政権になってからありありと見えるようになってきた歴史修正主義の言説ともかかさなりあう問題がひそんでいるのではないでしょうか?

 

4。死者へのおもいをくすねとられる

ところで、このようにして死者を悼むきもちが国家にからめとられていくその国民の側にもそれをゆるしてしまう下地があるのではないか? どういうことか?

ほんらい、死者を悼むということと死者を顕彰するということとはまったく方向がちがう正反対のことです。死者を悼むというのは、それぞれの個人が、身内やたいせつなひとをうしなったとき、その喪失感にたえられずになげきかなしむことです。しかし、死者を顕彰するというのは、もともと、死者を悼むこととはこころのむきが反対のことですから、

そのことによって、そのひとをうしなったかなしみがつぐなえるはずはありません。なのに、それをつぐなってあまりあるかのように錯覚させるというところに、国家による「慰霊」の詐術があるのですね。

そのように、ほんらいまったく私的な死者へのおもいを国家によってくすねとられてしまうのは、なぜか?

なによりも、死者を顕彰するということからまったく隔絶した悼みかたを、はたして、現実にわたしたちはなしえているのだろうか? というおもいがわたしにはあります。世間一般の弔辞をおもいうかべてみてください。けっして、死んだひとのわるくちは言いませんよね。それどころか、個人が生前どれほど世のためひとのためにつくしたかを口をきわめてほめそやすでしょう。つまり、死者の生前の功績をたたえて顕彰しようとします。まかりまちがっても、そのひとの死が無意味であったなどと言ってはなりません。

だれだって、身内の死が犬死だったなどとは思いたくない。そういった心情に、国家はみごとにつけこむのです。

プラトンの『メネクセノス』のなかで、追悼演説というもののありようをじつにいきいきと描いているところがある。ソクラテスがメネクセノスに語りかけているところです。

戦争で死ぬということはたぶん立派なことなんだろう、とソクラテスは語りはじめます。

なぜなら、貧乏なまま死んでも盛大な葬式をやってもらえるし、身分が低いまま死んでも学識あるひとが長い時間かけてねりあげた賛辞をささげてもらえるからだ。ひとびとはじつにたくみにほめそやすのだ。あたっていようがいまいが、じつに美しいことばのあやをつけてわれわれのたましいを魅了し、あらゆる方法で国家を賞賛し、戦死者をも、われわれの祖先をも、いや、現にまだ生きているわれわれまでもほめそやすのだ。

ソクラテスのこの語りにはイロニーがひそんでいます。しかし、このような追悼演説にほろりとなってしまう感覚が、わたしたちのうちにひそんでいはしないでしょうか?

 

5.死者の美化を、なぜ、ゆるしてはならないのか?

国家こそ、ひとびとを死に追いやった張本人です。にもかかわらず、その国家がそのひとびとの死に美しい意味をあたえる、そして、その死をそのように意味づけることによって、

またあらたな死者をつくりだそうとするからです。しかし、それだけではない。

さまざまにことなった死にかたをしたひとりひとりの具体的な人間としての死者を、ひとまとめにして、美しい死者にしてしまうということは、じつは、個々の具体的な死者の死にかたに、その死そのものに、責任をおわなければならないはずの具体的な人物の存在をアイマイにしてしまい、あるいは、その個人的責任を免除してしまうことになるからです。いいかえれば、いったい、だれが、どのようにして殺したのかをアイマイウヤムヤにしてしまうかららです。

一般的に言えば、むろん、兵を殺したのは戦争です。戦争という大状況が兵たちを殺しているのです。けれども、そのようにして、一挙に戦争という大状況に責任をもっていくというのは、じつは、死者たちひとりひとりの死に具体的に責任を負っているはずの特定の個人を免責することにもなります。ある特定の個人の死には、かならず、特定の個人が具体的に責任をもっているはずです。たとえば、ルソン島で日本軍の兵隊が飢えていた時期に、なんと、従卒にウイスキーの瓶をかつがせて移動していた参謀がいました。従卒はその後餓死しています。この幹部将校はこの従兵の死に責任を負っているはずです。

福島第一原子力発電所の事故のばあいでもおなじことです。それぞれの段階でその場の責任をになっていたひとに、それぞれの重みで、責任があるはずです。まちがえないでいただきたいのですが、東電の社員であるというだけでひとしなみに非難されるといった風潮を是認しているのではありません。東電という会社に、その会社を運営していた社長以下の幹部たちに責任があることは明白です。事故をおこすまでの、また事故がおきてからのちのすべての措置に国家のそれぞれの機関が密接にかかわっていたのですから、とうぜん、それぞれの部署にいたひとには、それぞれに、個人的責任があるはずです。

具体的に個人の責任を問うということは、その個人の属する組織の責任をウヤムヤにすることではけっしてありません。逆に、個人の責任を具体的に問うことによって、その個人が属している組織の責任をきわだたせることができるのです。

と同時に、この問いはそのままそれを投げかけるこのわたし自身にはねかえってくるのです。自分だけが安全なところにいて、やすんじて他人を批判しているわけにはいかなくなるのです。いわば、これは、責任追及という行為の原点でもあるでしょう。

ところが、この国の風土のなかでは、一度たりとも、ほんとうの意味で責任を負っている人物の責任が具体的に問われたことはなかったし、いまもない。戦争なり事故なりといったことを、なにかえたいの知れない大状況としてとらえ、しかもつねに想定外のできごとであるとして、そこでじっさいに生じたもろもろの悲劇が、いったい、だれによって、どのような理由あるいは原因によってひきおこされたのかを、いっさい不問に付してしまう。だれが、どのような、どれほどの責任を、そこでそのことに対して、負っているのかは、つねに、アイマイウヤムヤにされてしまう。これが典型的にあらわれるのが「慰霊」という行為においてなのではないでしょうか?

 

D.なにを隠蔽しているのか?

 

これまで、かつてわたし自身が書いたりはなしたりしたことをふまえて、国家による「慰霊」とはどういうものであるのかをおはなししてきました。

まず、国家が死者を「慰霊」するのは、死者を利用してあらたな戦争での死者を獲得するためである、とうことを確認しました。

利用するためには、死者をたたえなければならない。たたえるためには、死者は英雄でなければならない。死者の顕彰と英雄化とは、国家による「慰霊」と密接に関係していること。このことも確認しました。

死者を顕彰するためには、現実のみじめでおぞましい死のありようをかくして、美しい物語をつくりださなければならないのだ、ということも指摘しました。

ところで、ここでわたしがはなしたことすべてをつらぬいている一本の糸が、隠蔽という行為ではないかとおもいます。すべてはがこの隠蔽ということばに凝集します。べつな言いかたをすれば、これまでわたしが語ってきたことをひとまとめにして、ひとことで表現できるキーワード、それが隠蔽ということばであるとおもいます。すなわち、「慰霊」という行為に必然的に付随してくる行為が隠蔽なのであるとおもうのです。

では、いったい、なにを隠蔽しているのか? 簡潔に要約するとつぎのふたつです。

ひとつは、事実・現実です。もうひとつは、責任の所在とありようです。このふたつについて、これから考察していきたちとおもいます。

 

1.かんたんに決着などつけないでほしい

あとで具体的に触れるつもりですが、サイパン島での「慰霊」における明仁天皇のパフォーマンスは、わたしたちのこのいまの「日本国」とそれを支えているわたしたち「日本国民」がほんとうに決着をつけなければならない戦後責任の、すくなくともその一端を、アイマイウヤムヤにしてしまったのだ、とわたしは批判しています。べつな言いかたをすれば、これは、決着をつけてはならないことに決着をつけてしまった、ということです。

決着をつけるというのは、そのものやことをある状況において位置づけ、安心して、わすれることです。それも、ほんとうに、現実に、なにがどうであったかをアイマイウヤムヤにしたままで。これこそ隠蔽ということばによって表現される行為にほかならないでしょう。

少年時代にナチの強制収容所を体験したユダヤ人のエリ・ヴィーゼルが、アウシュビッツをはじめとするナチの絶滅収容所のガス室のなかで殺されていったひとたちについて、こんなことを言っています(資料6参照)。

彼らをそっとしておいていただきたい。いつまでも、彼らのいるべきままの姿で、いるべきところに残しておいていただきたい。わたしが胸をつかれたのはそのあとにつづくことばです。「あなたがたの存在に疼く、類うべくもない傷として、苦痛として。」

わからないことにひとは不安をおぼえます。だから、たとえどんなにおぞましいことであっても、それが事実であり、これこれこういう理由があってその事実は生じたのであるという合理的な説明があたえられると、ホッとします。安心して、そこで決着をつけることができて、わすれてしまえるのです。エリ・ヴィーセルが血を吐くおもいで抗議し、要請しているのは、そんなにかんたんに決着をつけないでほしいということです。いえ、理解などしてくれるな、と言っているのです。

いいかえれば、わからないこと、わかりえないことを、そのまま、こころに突きささったとげとして、ぬかないでおいてほしいということでしょう。わかったつもりになるってことは、ことの本質を隠蔽してしまうってことだからです。

日本国政府がとりおこなう「慰霊」祭とは、まさに、エリヴィーゼルがしないでほしいとねがっていることをやっていることになります。ことの真実を隠蔽したままで、いま生きている者がかってにつくりだした意義づけを、死者たちに押しつけ、そうやって決着をつけてしまうからです。

 

2.公の空間と公のことば

このように、ことの真実を隠蔽して決着をつける「慰霊」とは、どのような道具立てあるいは方法を必要するのでしょうか?

必要とされるのは、まず、公的な時間と空間です。そこでの公的な儀礼の行事です。具体的には公的な祭祀としておこなわれなければいけない。そしてさいごに、公的言辞です。ひとことでまとめていえば、「慰霊」は公的に、つまりおおやけの行事としておこなわれなければならない。

その場で語られる「慰霊」のことばは、徹頭徹尾、おおやけのものでなければならない。「南太平洋慰霊の旅」の船上でおこなわれた「慰霊祭」で、肉親を亡くした遺族が語った「慰霊のことば」は、はじめからしまいまで、おおやけのことばとしか言いよのないものであったことに対するおどろきと感慨について、さきほどおはなししましたが、このように、公的な「慰霊祭」の、主催者でもない、ただの一般参加者のひとりである遺族のなかにすら、おおやけのことばが浸透している。というより、そのほかに語ることばをもちえていないという事実は、じゅうぶん考えるにあたいすることだとおもいます。

ことほどさように、こういった「慰霊」の場にあっては、完璧に、いかなる私的なおもいも私的な行為も排除されるのです。

もうひとつ、必要とされることがある。儀式=セレモニーです。その儀式にふさわしい

モノとかたちです。

モノとしては、すべからく象徴となりうるものすべてです。立派な祭壇、豪華な飾り、あるいは「慰霊碑」、あるいは伽藍ですね。かたちとしては、荘厳な儀式=セレモニーですね。それにしても、ひとは、なぜ、セレモニーなしではやっていけないのか? 偶像崇拝を排除するひとたちでさえ、そびえたつゴシックの尖塔やロココの粋をこらした会堂や荘厳な音楽を排除することはできなかった。セレモニーの荘厳な雰囲気にいざなわれるひとびとは、たえなる楽の音にたましいをひたされる。そこにおいてなお自分自身でありつづけることはまことにむつかしい。セレモニーとはまさに麻薬なのではないでしょうか?

 

3.明仁天皇のパフォーマンス

このところ、テレビでも新聞でも、天皇の「慰霊」の旅に関しては、天野さんが指摘したように、おまつりさわぎと言ってもいいようなヨイショぶりを示しています。マスコミあげてのサンケイ化です。

こういった天皇への賛辞を、いくども、いくども、見たり聞いたりさせられていると、ひょっとしたらこのわたしのほうがおかしいんじゃないか、とすら、おもえてくるほどです。

ほめたたえられているおもな点はみっつあります。

1.天皇は戦没者の「慰霊」に、一貫してあついおもいをいだいている。こんかいの  パラオ訪問は、サイパン訪問以来10年越しの悲願であった。

2.敵も味方もわけへだてなく、また、それぞれの土地の住民にも充分な配慮を示し  ながら、あの戦争で犠牲になったすべてのひとを「慰霊」している。

3.戦争のことを知らなくなっている国民に対して、「悲しい歴史があった」ことを  わすれるなと、身をもって示している。

まず、「1」についてですが、天皇個人が「慰霊」に関してあついおもいをいだいていることそれ自体はうそいつわりのないところであるとおもいます。問題は、そのおもいの内容です。それが、どこまで過去の現実に即しているか、です。

つぎに「2」の「わけへだてなく」についてです。問題は、ここでもまた、このようなきもちが、はたして、どこからどのようにしてうまれてきたのか、です。

これは、日本人のしかも軍人軍属だけを「慰霊」していて、そこになんのうたがいもいだいていなかった旧軍人たちの意識からは、彼なりに一歩も二歩も踏みだしていることになります。

ただし、日本人の「慰霊」のしかたそのものが変ってきていることは事実です。つまり、日本人だけ、それも軍人軍属だけを対象としていた時代から、敵味方を問わず、戦闘員であろうが一般市民であろうが、どの民族のひとであろうが、あの戦争のなかで犠牲になったひとびとを、すべて、わけへだてなく「慰霊」するという方向への変化です。

こういった時代の流れのなかに、天皇もまたいる、だけのことかもしれません。むろん、天皇は、このような状況に影響されてではなく、はじめからこういうきもちをいだいていたように、おもえなくもないのですが。

つぎに「3」について。たしかに、天皇は、いま安倍政権のもとで進められている戦争国家体制の構築には個人的に危機感をもっているようです。また、一般「国民」あの戦争のことを知らなさすぎることに対しても。問題は、その彼の「悲しい歴史」といったとらえかたにある。おなじことですが、その歴史をつくったのはほかでもない自分の父親であることをどれほど自覚しているか、です。これについても、あとで触れます。

さて、明仁天皇は、10年前のサイパン「慰霊」の旅において、いろいろと、異例のパフォーマンスをおこなっています。天皇は、とうぜんのことながら、まず、日本軍将兵の戦死者を対象に日本国政府が建立した公的施設である「中部太平洋戦没者の碑」における「慰霊」祭に出席しました。しかし、それだけにとどまらず、アメリカ軍の戦没者の名が刻んである記念碑や「沖縄の塔」や「太平洋韓国人追念記念塔」にも、それだけでなくサイパン島先住民の犠牲者の名を刻んだ記念碑などをもまんべんなくおとずれたばかりか、それぞれの場所でそれぞれの生き残りのひとたちと「歓談」してもいるのです。とりわけ、チャモロ人の敬老会館をおとずれて、いまや70代、80代 になったチャモロ人たちと「歓談」しています。

このような天皇の目配りは、かなりの感動をあちこちにあたえたようで、韓国の新聞などでもひじょうに高く評価していました。にもかかわらず、ではなく、だからこそ、そのことが、このいま、このわたしたちにとって、どのような意味を客観的にもっているのかを、わたしたちは、とくと見きわめなければならないでしょう。

今回のペリリュー島訪問でも、日本国厚生労働省の建立した「西太平洋戦没者の碑」だけでなく「米軍第81歩兵師団慰霊モニュメント」にも花をたむけました。住民との「懇談」もおこなったもようです。

このような天皇夫妻の「慰霊」のやりかたが、では、わたしたちのこの日本国と日本国民のこのいま状況のもとで、どのような意味を客観的にもっているのか?

韓国人やチャモロ人の死者を「慰霊」したり、チャモロ人の老人たちと「歓談」したりすることによって、また、パラオにくらすひとびとにこまやかな配慮を示すことによって、天皇は、これまでうちすてられてきたひとびとをみごとに感動させもしました。まさにそういった行為そのもののなかに、明仁天皇の主観的意図がどうであったかにかかわらず、この日本国のこの状況のなかに生きているこのわたしたちにとってゆるすわけにはいかない政治的道義的意味が客観的にひそんでいるのではないでしょうか? では、それはどういう意味なのか?

つけてはならない決着をつけてしまったことになる。天皇個人は、ひょっとすると、長年の心の負債をこのようなかたちで返済しえてホッとしていたかもしれないけれど、しかし、まさにそのことによって、わたしたちのこのいまの「日本国」とそれを支えているわたしたち「日本国民」がほんとうに決着をつけなければならない戦後責任の、すくなくともその一端を、その「国民」の統合の「象徴」であるとされている天皇が、このようなかたちでアイマイにしてしまったのです。つまり、隠蔽してはならないものを隠蔽してしまったのです。そのことに対する責任を、この天皇がせおわなければいけないことも、また、あきらかではないでしょうか?

その明仁個人には、みずからの行為が、隠蔽してはならないものを隠蔽しているのだといった意識は、たぶん、ないでしょう。それだけにいっそう深く、彼のこの行為は、彼が「慰霊」しているつもりの死者たちを傷つけているのだと、すくなくともわたしはおもうのです。

明仁天皇は、平和を愛し戦争は二度とおこすまいとおもっているひとである、と見られています。このひとの主観においてまぎれもなくそうであろうことは、わたしにもわかります。なにせ、わたしとおなじとしごろ(ちょっと下ですが)のひとですから、いくら安全なところに疎開していたといっても、戦争の惨禍をまったく知らないわけはないからです。ちょっとまえに指摘したように、この彼が、安倍政権が突き進もうとしている戦争国家への道に危険を感じていることもまちがいないとおもいます。

それに、いつかわたしは皮肉をとばしたことがあるのですね、戦後民主主義はいまや死んでしまった。かろうじて息をしているのは、ヴァイニング夫人から民主主義を純粋培養された明仁天皇のうちでだけだ、と。

ただ、主観的に彼がいくら民主主義者であり平和主義者であったとしても、彼が現在の地位にとどまりつづけるかぎり、すなわち天皇という地位からおりてしまわないかぎり、彼は、ことばほんらいの意味における民主主義者・平和主義者ではありえない。それに、彼は、父である裕仁が、戦前・戦中・戦後をとおして、なにを、どのようにしてきたかについて、ひとことも批判を口にしていない。「わたしの立場では」もうしあげられませんと言ったことはある。弁解にすぎません、これは。「わたしの立場」を彼がどう考えているのかを白状したにひとしい。

それに、無意識であるだけにいっそう深く、そのものやことをおおいかくすはたらきをしてしまう行為がありうるのです。「客観的に」という表現をわたしがつかうのは、たとえ主観的にどれほどの善意で、あるいはこころからくやむきもちで、死者たちをなぐさめようとしたところで、その死者たちの死が、いったいどのような状況のもとで、どのようもたらされたものなのか、すなわち、個々具体的な死者たちがその死のさいに直面していたのはどのような現実なのか、そのような状況を現実につくりだして死者たちをそこへ追いこんだのはだれなのか、したがって、その死の責任はだれがどのように負わなければならないのか、その責任をはたすにはどうすればいいのか、などなどといった無数の問いを封じこめてしまうようなかたちでなされるかぎり、ほんとうの意味で死者たちを「慰霊」することなどできるわけもないでしょう。

 

4.明仁天皇はなにをどう語ったか?

今回のパラオ訪問に出発する前に、またパラオでの晩餐会で、明仁天皇がなにをどう語ったか、そのなかに、彼の意識がはっきりとあらわれています。

まず、出発前でのことばのなかからぬきだしておきます。

 

太平洋に浮かぶ美しい島々で、このような悲しい歴史があったことを、私どもは決して忘れてはならないと思います.

 

わたしが批判している美しいことばの典型です、これは。なるほどペリリュー島もあの戦闘のまえまでは「美しい島々」のひとつでした。しかし、米軍の空爆と艦砲射撃によって、この島の密林はあとかたもなく消滅し岩だけがむきだしになる無惨なすがたになっていたのです。「美しい島」などと言えた義理じゃなかった。

「悲しい歴史」という言いかたのうちに、昭和史にかけてはこのひとをおいてはだれもいないとまで言われている有名なノンフィクション作家である保阪正康氏は、「強いトーン。ともすれば戦後七十年がたち、追悼も形式化する中で、本心からの決意だ。ある意味で感動する」と語っています(『東京新聞』4.8.)。

保阪氏にしてもこんな程度なんですから、一般の「国民」がころりと感動するのもむりはないかもしれません。しかしねえ、「悲しい歴史」なんてことばを、その歴史をつくった張本人の口から聞くのはそれこそ「悲しい」。ま、正確には張本人の息子から、ですが。

このような表現をなんら心理的抵抗もなしにすらすらと口にしうるというところに、じつは、ほかならぬ自分自身も、たとえ「やんごとなき」おかたの後継者=皇太子としてであれ、体験したはずのあの戦争を、あたかも自然災害ででもあるかのようにしか感じとっていないひとびとの意識をみごとに体現していることがわかります。まことにそのようなひとびとの象徴であるにふさわしい。

晩餐会での「おことば」のなかからはつぎの一節をぬいておきましょう。だいたい、なぜ、「おことば」なんて表現をこういう場でのあいさつをあらわすのにつかうのでしょうね?

 

しかしながら、先の戦争においては、貴国を含むこの地域において日米の熾烈な戦闘が行われ、多くの人命が失われました。日本軍は貴国民に安全な場所への疎開を勧めるなど、島民の安全に配慮したと言われておりますが、空襲や食糧難、疫病による犠牲者が生じたことは痛ましいことでした。

 

なんとそらぞらし! わたしはそう感じました。しかし、多くの「国民」はそうはおもわないらしい。

あきれたのは、日本軍がペリリュー島の住民を避難させたという「伝説」を天皇までが信じこんでいることです。この「伝説」はいまではもはや「神話」の域に達していて、多少なりともウヨクの気のあるひとたちなら金科玉条のようにもちだして皇軍の仁慈をたたえるたびにもちだされています。

戦闘開始の前に島民をパラオ本島へ送りだしたことは事実ですが、それがほんとうに島民の安全を守ためであったかどうか、またパラオ本島がはたして「安全」なところと言えたかどうか、そこへの道中の安全がどこまで確保されていたのか、などなど、わからないことはどっさりあって、そういったことすべてをほうりだしたまま、この神話だけが定着してきらいがあります。

天皇も認めているように、パラオ本島への空爆は熾烈なものでした。ペリリュー島とのちがいは攻撃軍が上陸してきたかこなかったかのちがいだけです。むろん、このちがいはとてつもなく大きいのですが。

それにしても、「空襲や食糧難、疫病による犠牲者」が「生じた」だなどと、よくまあ、ひとごとのように言えたものです。こういった「災害」が自然に」「生じた」わけがないでしょう。ただ「痛ましい」とだけ言ってすませるようなことではないでしょう。

なんどもくりかえして言うように、いえ、この先なんどもなんどもくりかえすつもりですが、美しいことばは現実を隠蔽すします。明仁天皇のことばもまた美しすぎる。彼自身が主観的にどれほど真摯に、あの戦争のなかで犠牲になったひとびとすべてを悼もうとしているのであろうとも、事実として、彼の行動それ自体が、あの戦争の実像を隠蔽してしまっていること、それよりなにより、自然災害などではけっしてない、まぎれもなく裕仁という名をもった個人があの戦争ひきおこしたのであることへの、その個人的責任を隠蔽

してしまっていること、これは否定しがたい事実であると、すくなくともわたしは考えています。

2014年8月15日にとりおこなわれた「戦没者追悼式」における天皇の「おことば」に関してもおなじことが言えます。この「おことば」は、じつは毎年おなじ文言で、ただ「終戦以来」何年という数字だけが変えられているのだとも聞いています。

徹頭徹尾、これはおおやけのことばです。個人的なおもいを、とうぜんありうる制約のなかで、最大限こめたつもりであろうと、好意的に解釈したとしても、ステレオタイプの公的言辞以外のなにものでもない。まさに「慰霊」祭用追悼文の、まあ、強いていえば、よくできているほうの典型です。

 

おわりに

 

それにしても、なぜ「慰霊」なのか? そもそも、「慰霊」ということばに、そのことばによってあらわされる行為に、わたしは根底的な違和を感じているのですね。どういう違和か?

わたしのことばづかいに敏感なかたはとうにお気づきのことだとおもいますが、わたしは、わたしのかけがえのないひとが「この世を去った」とは言っても「神に召された」とも「あの世にいった」とも、けっして、言いません。あの世の「霊」の存在をみとめていないのですから、「霊」をなぐさめるという意味での「慰霊」という行為に違和感があるのはとうぜんでしょう。

わたしには、わたしのかけがえのないひとの死に対して、このわたしにしかできない、わたしだけの悼みかたがあって、そのやりかたによって、いまはこの世にいないそのひとと対話しているのです。

そのわたしからすると、疑問におもわれてならないのです、なぜ、ひとびとは、よりあつまって、いっせいにおなじ行動をとらないといけないのか? 黙祷はわたしもします。しかし、「黙祷!」という号令のもとでいっせいにこうべをたれることには違和感があります。つまりつぎのようなことを、わたしは言いたいのです。

靖国の祭礼や戦没者慰霊祭といったものを批判する理由は、すくなくともこのわたしにとっては、国家権力がそれをとりおこなっているからということにかぎられるのではない。そのような儀礼が、たいせつなことを隠蔽しているからなのです。

ですから、おなじように、わたしは、権力に刃向かって殺された同志を追悼するそのしかたにも違和を感じてきました。「同志は倒れぬ」という歌と「海ゆかば」とはおなじではないかとさえおもっています。そのような場でも、ひとびとは、おなじ時刻に、いっせいに、黙祷をささげていました。

そのわたしは、では、死者とどういう関係をとりむすんでいるのか? 「しのぶ」というやまとことばがふさわしいでしょうね。現実にはここにいないそのひとを恋いしたう。

そのひとはわたしの記憶のなかに生きている。ですから、わたしの肉体が消滅してしまえば、そのひとについての記憶も、とうぜんのことながら、消滅する。わたしの愛したひとの死をわたしが悼むという行為は、徹頭徹尾、私的な行為です。おおやけの、あるいは集団的な行為につながるところはいっさいありません。

わたしのこういった考えを、わたし以外のひとびとに押しつけるつもりは毛頭ありません。ただ、自分では、自分だけの独自のやりかたで亡くなったひとを追悼しているのだとおもっていても、そのやりかたのなかに、いつのまにか、世間一般でそうやっているようなやりかたがしのびこんでいるってこともあるのだってこと、そして、そのようなやりかたをしていれば、いつしか、公的な、ひいては国家的な追悼のやりかた、つまり「慰霊」という方式にくすねとられてしまうおそれはあるのではないか。そう指摘しているだけです。あとは、『歎異抄』の言いかたをまねて言えば、「面々の御はからひ」にてそうろう。

 

 

資料:

 

資料2

場内はあのころすでに、猛爆で破壊し尽くされ、路上に遊軍の死体が無数に横たわっていた。手足のない死体。首のない死体。そして、ちぎれた手足も首も、転がっていた。すでに腐乱して異臭を放っている死体もあった。

(古山高麗雄『断作戦』文春文庫 、二〇〇三)

 

資料3

激しい音と共に、壕内が煙で埋まった。胸に何かドンと当たった。煙が消えると、あの戦友は、即死して大の字になっていた。頭部の後半分がなくなっていた。芳太郎の胸に当たったのは、戦友の吹きとばされた頭の一部だったのである。

戦友の脳漿で胸がベトベトになっていた。               (同右書)

 

 

資料4

日本兵の死体は岩陰や斜面に放置されていた。葬りたくてもそのすべがない。地面は固く尖った珊瑚礁岩で、土というものが存在しないのだ。敵の死体は倒れたそのままの場所で腐敗していった。歯茎を剥き出し、まるで笑っているように見える膨満した顔の遺体が、グロテスクにねじれた姿勢をとっていたるところに散乱していた。

(ユージン・B・スレッジ/伊藤眞・曽田和子訳『ペリリュー・沖縄戦記』

講談社学術文庫、二〇〇八)

 

資料5

死んでゆく人間の脆さは、枯れ木の折れるより尚はかないものだ。昨日元気だからといって、今日の生命を誰も保証はできなかった。(中略)

みながみな一度に斃れたのではない。もう綺麗に白骨となってしまったのもおれば、蝿ののたかっているのもいるし、まだかすかに息のある者もある。けれどもそれは単に時間の相違でしかなかった。そしてそれらの死体はほとんど例外なしに、ズボンをすっかりぬいでいたり、半ばはずしていたりした。露出した抗ガン睾丸は、大きく紫色にふくれあがって、頭ほどの大きさになっていた。顔のほうが先にくさるのか、顔には蝿がたかっていても、抗ガン睾丸には蝿もたかっていない死体もある。(中略)

あるとき道に迷った。ふと見るとむこうのボサのところに、兵隊が腰をおろしている。声をかけたが返事がない。へんだなと重い、前にまわってみる。

なんと、戦闘帽の下に顔がない。白くかわいた頭蓋骨が、黒くポッカリと眼窩をあけて戦闘帽をかぶっているのだ。被服はそっくりそのまま腐りもせず、巻脚絆をまいた足などは軍靴の中に収まっている。  (吉田嘉七『ガダルカナル戦詩集』創樹社、一九七二)

 

資料6

栄養が失調して行く過程は、フランクルが指摘するとおり、栄養の絶対的な欠乏のもとで、文字どおり生命が自己の蛋白質を、さいげんもなく食いつぶしていく過程である。それが食いつくされたとき、彼は生きることをやめる。それは、単純に生きることをやめるのであって、死ぬというようなものではない。ある朝、私の傍で食事をしていた男が、ふいに食器を手放して居眠りをはじまめた。食事は、強制収容所においては、苦痛に近いまでの幸福感にあふれた時間である。いかなる力も、そのとき囚人の手から食器をひきはなすことはできない。したがって、食事をはじめた男が、食器を手放して眠り出すということは、私には到底考えられないことであったので、驚いてゆさぶってみると彼はすでに死んでいた。そのときの手ごたえのなさは、すでに死に対する人間的な反応をうしなっているはずの私にとって。思いがけない衝撃であった。すでに中身が流れ去って、皮だけになった林檎をつかんだような触感は、その後ながく私の記憶にのこった。はかないというようなものではなかった。

「これはもう、一人の人間の死ではない。」私は、直感的にそう思った。

(石原吉郎『望郷と海』筑摩書房、一九七二)

 

資料6

ひどい下痢がつづいて、駅の便所を往復し、一度しゃがむと立ち上るにも脚がよろめき、把手のもげたドアに体押しつけるようにして立ち、歩くには片手で壁をたよる、こうなると風船のしぼむようなもので、やがたて柱に背をもたせかけたまま腰を浮かすこともできなくなり、だが下痢はようしゃなく襲いかかって、みるみる尻の周囲を黄色く染め、あわてた清太はむしょうに恥かしくて、逃げ出すにも体はうごかず、せめてその色をかくそうと、床の上のわずかな砂や埃を掌でかきよせ、上におおい、だが手のとどく範囲はしれたもので、人が見れば飢に気のふれた浮浪児の、みずから垂れ流した糞とたわむれる姿と思ったかも知れぬ・

もはや飢はなく、渇きもない、重たげに首を胸におとしこみ、「わあ、きたない」「死んどんのやろか」「あめりか軍がもうすぐ来るいうのに恥やで、駅にこんなんおったら」耳だけが生きていて、さまざまな物音を聞き分け、そのふいに静まるときが夜、構内を歩く下駄のひびきと、頭上を過ぎつる列車の騒音、急に駆け出す靴音、「お母ちゃーん」幼児の声、すぐ近くでぼそぼそしゃべる男の声、駅員の乱暴にバケツをほうりだした音、「今、何日なんやろ」何日なんや、どれくらいたってんやろ、気づくと眼の前にコンクリートの床があって、だが自分がすわってる時のままの姿でくの字なりに横倒しになったとは気づかず、床のかすかなほこりの、清太の弱い呼吸につれてふるえるのをひたとみつめつつ、何日なんやろな、何日やろかとそれのみ考えつつ、清太は死んだ。

(野坂昭如『火垂るの墓』(新潮文庫、一九九二)

 

資料7

近ごろ、強制収容所の世界と化したヨーロッパにおけるユダヤ人の不可解な――ひいては謎めいた――ふるまいが提示する問題について、ほうぼうで問答がかわされはじめている。家畜の群れが屠所に行くように、彼らが夜のなかへはいって行ったのはなぜか。この問いは本質的とは言わぬまでも重要なものだである。なぜならざ、それは人間の時間を超越した真実に触れているからである。この問いは、安らかな良心の持ち主たちをさいなんでいる。そこで彼らは突如として、早く安心させてもらい、罪人を名指してもらい、さらに彼らの罪を画定確定してもらい、第三者を介して通過してきたにすぎぬ物語おを自分たちのために明瞭にとり出してもらわねばならぬ、という必要を感じているのである。(中略)

ところで、」はっきり言うが、この遊戯は屈辱を加える側面を伴っている。消え去った人たちの名において語ろうとするのは――そして、これこれが彼らを行動せしめた動機だとか、これこれが彼らの意志を軟弱tたらしめた理由だとか言って、彼らの名において語るのは――これあhはまさしく彼らを辱めることなのである。はっきり言うが、死者たちはかような死後の屈辱とは違うものにふさわしかったのである。(中略)

それゆえ、彼らをそっとしておいていただきたい。これらの墓所なき死者を掘りださないでほしい。彼らを、いつまでも、彼らのいたままの姿で、いるべきところに残しておいていただきたい。すなわち、あなたがたの存在の憶測に疼く、類うべくもない傷として、苦痛として。

(エリ・ヴィーゼル/村上光彦訳『死者の歌』晶文社、一九七〇)

 

 

 

核・戦争・国粋などの卑劣・野卑をなくそう‼

長崎より

みなさま
 
こんにちは。
被爆から75年目の今年、4月にニューヨークで開かれる
NPT再検討会議に向けて、長崎からもたくさんの訪問団が
渡米します。「NPT再検討会議を成功させるナガサキ連絡会」
結成の集いが昨日、平和祈念像横の被災協会館で開かれました。
 
昨年11月に来日した教皇フランシスコはこう語りました。
「核兵器から解放された平和な世界、それはあらゆる場所で
数えきれないほどの人が熱望している事です。この理想を
実現するためにはすべての人の参加が必要です」。
 
その言葉に答えるように、被爆者や大学生や合唱団、シスター
など、会場いっぱいの方がかけつけました。山内神父は
「教皇の言葉は理想で、非現実的という声もある。しかし
現実の海が荒れるほど、理想という羅針盤を見なければ
いけない」「人間が持っている素晴らしい才能を、人を殺す
ために使って何になりますか」と力説。東京で、いじめを
告白した青年に向けた教皇の言葉を引用しながらこう解説
されました。
 
「この社会を改革するために、あなたはこの苦しみを与え
られている。いじめのない社会をつくるための使命を与え
られている。自分を高めなさい。いじめのない社会をつく
りなさい。その苦しみは、そのために与えられたのだから」。
 
「言葉を交わしあう。助けあう。皆の幸せのために皆で
行動する。これが平和の基礎です。平和は足元から始まり
ます。その〝土〟から学者や、表現者、行動する人達が
出るのです。核をつくるような社会を根底から変えていきましょう」。
 
会場を出ると、さっきまでの雨もあがって、雲の切れ間か
ら清々しい日差しが平和公園に降り注いでいました。
西岡由香
ーーーーー
由香さん、みなさん

何時ものご努力・情報有難うございます。
生かされるいのちに感謝し報謝し共有し
共同・共働して参りましょう!
地球倫理・平和世界ブログに転載・共有
させてもらいます。
核・戦争・自己中(国粋・名利等)など
の愚劣・卑劣・野蛮・野卑を世界から消
す為に活動しましょう‼
魯参

Human karma (triple poisons of delusion, desire, divisiveness) disclosed: Stop it to solve all problems!人間業の愚劣露呈:貪瞋痴三毒業を止めよ‼

 

Human karma (triple poisons of delusion, desire, divisiveness) disclosed: Stop it to solve all problems!
 
Iran shot down the Ukraine flight!
This was caused by Iran, U.S., allies of them, human institutions, individuals.
No reason, excuse, compensation can regain life lost!
Stop this folly/barbalism, by stilling karma (nirvana) and do paradigm shift by awakening therein:
paradigm shift:
nirvana/awakening:
———–

人間業の愚劣露呈:貪瞋痴三毒業を止めよ‼

イラン、ウクライナ機の撃墜認める 人的ミスとおわび

テヘラン=杉崎慎弥

 イランの首都テヘランでウクライナ国際航空機が墜落して176人が死亡した事故について、イランの統合参謀本部は11日、イランメディアを通じた声明で、撃墜を認めた。「人的ミスだった」としている。ザリフ外相も同日のツイッターで撃墜を認めた。イランはこれまで、ミサイルによる撃墜を否定していた。

 統合参謀本部は声明で、イランが8日に米軍の駐留するイラク軍基地をミサイル攻撃した後、「イラン軍は高い警戒レベルにあり、米国の戦闘機が我々を標的にしていると報じられるなど敏感な状態だった」と釈明。「(ウクライナ機が)イランの精鋭部隊・革命防衛隊の軍事拠点の方角に向かうなどしたため、不注意で撃墜した」と撃墜を認めた。同本部は、犠牲者への追悼と謝罪も表明した。

 墜落により多数の自国民が犠牲になったカナダのトルドー首相は9日、「イランの地対空ミサイルによって撃ち落とされた」と指摘していた。(テヘラン=杉崎慎弥

 

ーーーーー

コメント:

如何なる理由もこの罪業を償うことは出来ない‼

如何なる弁明も弁償もこの罪業を軽減できない‼

これに至った米国・イラン・その他一切の国家・権力・機関・組織・個人は責任を自覚せよ‼

人間業の三毒(貪瞋痴)に正義はない:我見による貪欲・敵対(戦争・軍備・核・基地・国家主義・資本主義など)が世界破壊の根本にあることに目覚めて、皆が「一切相依相対の因縁生起の世界に生きている存在」であることを認めて「枠組転換」をするべきである。それがなければ世界終末時計2分前を解消できない。

註1.枠組転換:

https://heiwasekai.wordpress.com/2018/01/20/%e3%80%8c%e6%9e%a0%e7%b5%84%e8%bb%a2%e6%8f%9b%e3%80%8d%ef%bc%9aparadigm-shift/

註2.業を止め(涅槃)覚醒するには:

https://buddhism869196463.wordpress.com/%e3%83%9b%e3%83%bc%e3%83%a0%ef%bc%9ahome/?frame-nonce=166327dc1f

 

地球問題群解決の為に大衆・衆生の結束を

今年初めの一冊

みなさま
こんにちは。
お正月休み、ずっと読みたかった本に没頭していました。
韓国大統領である文在寅氏の自伝「運命」。そのタイトルどおり、
苦悩から歓喜へ、そしてまた苦悩へ…最後の一行まで、ベートー
ヴェンの交響曲が鳴り響いているような本でした。
冒頭、生涯の盟友であり同志だったノ・ムヒョン元大統領の
衝撃的な死から始まって、貧しい少年時代、苦学しながら
通った大学でデモを主導して軍事政権に逮捕されたこと、獄中で
知った司法試験合格、釜山で、ノ・ムヒョン氏と合同弁護士
事務所を構えて、人権抑圧の社会にあらがい奔走した日々・・
まさに韓国の現代史。釜山の民主化闘争がこんなに爆発力の
あるものだったなんて知らなかった。催涙弾の煙の中にいるような
リアル感は、自伝というより壮大な詩のよう。
そしてノ・ムヒョン氏が大統領に就任し、側近として直面した、
政界や財界との壮絶な駆け引き、そして盟友の死・・400ページが
あっという間でした。
この本が書かれたのはパク・クネ政権前の2012年。文氏は前書きで
「彼(ノ・ムヒョン氏)が抱えていた重荷を私たちが潔く抱えること
こそ、最も美しい別れだ」と書いていますが、
その後、キャンドル革命でのパク・クネ大統領が罷免されたあと、
圧倒的民意を受けて文大統領が誕生した事実を見る時、
ノ・ムヒョン氏は、別れどころか韓国国民の中に生き続けていると
実感しました。
「幼いころの貧しさの記憶は、そのまま人生の教訓となった。
苦しかった時期に私たちが助けてもらったように、私も苦しんで
いる人たちを助けながら暮らしたいと思った」
「人権弁護活動はそれ自体が独裁に抵抗する運動でもあって、
弁護士のできる民主化運動だった」・・もしかしたら今、
文大統領が行なっているのは「大統領のできる民主化運動」なの
かもしれません。
「日本語版への序文」で文大統領はこう書いています。
「この本を、韓国と韓国人を理解しようとする日本の読者の方々に
出会いたいという私からの招待状だと思って読んでいただけるよう
願っています」。
こんなすごい本に出会ったら、韓国に行かないわけにいかなく
なりました。
文大統領、招待状を、受け取りました。
西岡由香
Attachments area
運命.jpg
ーーーーー

地球問題群解決の為に大衆・衆生の結束を

由香さん、みなさん

人種・国境・性別などの差別・自己中を超えて
大衆が繋がり権力・独裁などを超えて横の繋が
りを大切にして行くことが非常に大切ですね。
善隣外交も権力執着の為に外に目をむけさせ、
外敵を作り、戦争・軍備・核・基地など増強し
国内に分断・搾取を持ち込む権力・独裁に頼る
ことはできず、大衆レベルで繋がらないとでき
ませんね。
更には衆生として生態系一体の地球主義で地球
問題群を解決する為には自己中の錯誤・束縛・
差別・搾取・殺戮の文明・国家主義から覚醒・
自由・平等・博愛・平和の文化・生命主義への
枠組転換が必要ですね。
当方コメントの好例として世界平和ウェブ・地
球倫理ブログに転載させて頂きます。

2020年は被爆75年。核廃絶の始まりの年に!

2020年は被爆75年。核廃絶の始まりの年に!

核廃絶にはすべての人の参加が必要です。
2020年はヒロシマ・ナガサキの被爆から75年。75歳以上の高齢者は何をしなければならないかを考える。

この世代は敗戦後の日本再生に関わってきました。
平和・民主・文化国家の建設にはすべての人の参加が必要でした。

善隣友好、個人の尊厳を重んじ基本的人権の保障、政府には戦争をさせない。日本は侵略する国では無くなったと世界に認められました。

この世代は、労働組合に団結する経験をもっていました。
ところが一方で日本政府はアメリカの核の傘に入り、日本全土をアメリカの基地に提供しました。沖縄の施政権まで提供、アメリカの自由にさせてきました。朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争などの発進基地にされました。
これに対して身体を張って反対してきました。ここ50年間でつぎつぎに労働組合をつぶし、ひとびとの団結に政府はくさびを打ち込んできました。日米同盟軍としての自衛隊とするべく9条改憲をしつこく政府は国民にせまっています。
今は苦しくとも明日(未来)があると考えてきました。「力が平和を創る」「未来には科学が進歩して、問題を解決してくれる」という文明史観が地球の未来を破壊に導いている。
その結果「世界終末2分前」と呼ばれ核戦争の危機をつくりだしています。
一方では、火力発電・原子力発電で海をあたため、石炭・石油依存の燃料系は二酸化炭素排出で、気候危機を導いています。この5、60年のつけで明日がなくなりかねない状態です。

未来は今なのだ!今未来を準備できているかが問題だ。
文明社会以前の「気奥にある縄文」に立ち返ってかんがえなければならない。
企業は利潤追求第一ではなく、ひとびとの暮らしを支え生活を豊かにすることを目的としなければならない。
政府は一人も取り残さずひとびとが輝く社会を保障しなければならない。

当面、韓国、北朝鮮、日本のひとびとがなかよくなり、連帯して、朝鮮戦争を終結すること、朝鮮半島と日本列島には核兵器を持ち込ませないという「北東アジア非核兵器地帯」を実現していく課題がある。
今と未来のすべてのこどもたちがのびのびと生きられる「大地」を準備すること。
これは日本に住むすべてのひとびとの心の奥底にある願いではないだろうか。
このことを高齢者が提起する2020年にしようではないか。

  2020.1.4
  憲法かたらいば
  古川ひろすけ

ーーーーー

 

国粋主義・核破壊・戦争廃絶を‼

 

古川さん、みなさん
平和世界ウェブサイトと地球倫理ブログに

転載させてもらいます。大衆・人類・生類

として少数権力者徒党に騙されず、全体健

全な個人・社会・環境を作る様智慧・活動

を出し合い佳い新年・好い新日を創生して

参りましょう。

 

現在自己中の権化となっている国粋主義、

生命系に入れてはならない核破壊・放射能

(原爆・原発)、人類史の千分の一で衆生・

環境破壊の戦争の妄想・強欲・差別から一刻

も早く目覚め、平和と平等の世界を構築すべ

く共に友として努力しましょう‼

 

魯参

謹賀新年!

謹賀新年!

 

皆様、どうぞ2020年もよろしくお願いいたします。

 

毎年恒例の「元旦座り込み」に行ってきました。今年で19回目。
風は冷たかったけれど、澄んだ青空にまぶしい日ざし。まるで
1124日、ローマ教皇が来崎された日の空のよう。集まった75人で
「平和」のプラカードを掲げて声をあげました。
「情勢はきびしいけれど、笑顔で、しなやかにがんばろう!」と。

 

たくましくなった高校生たちの背中を見ながら、年末に訪れた
釜山の「民主抗争記念館」の風景を思い出していました。
記念館には大勢の子どもたちが訪れて、軍事政権に抗して
たたかった市民のパネルや、顔写真でデザインされた「民主主義
万歳」のパネルに見入っていました。「声をあげる市民が歴史を
つくる」ことを知った若者が、今度は担い手として街頭で灯を
掲げていく。それは韓国だけの話ではないのでしょう。長崎の
若者たちもまた、被爆者や戦争被害者の方々に学び、世界へと
活動の幅を広げています。核兵器の非人道性や被害、加害も
だけれど、同時に、「戦争にあらがい、平和を訴えてきた」
人々のことも伝えていこう。その姿を知った人たちがきっと、
次の灯を掲げてくれるから。

 

いつか、みんなの顔文字で「核兵器廃絶万歳」「平和万歳」の
パネルが描ける日がくるよう、がんばります!
皆様、どうぞ2020年もよろしくお願いいたします。

西岡由香

 

DSC_1017.JPG

 

 

 

DSC_1021.JPG

ーーーーー
由香さん、みなさん

頌春
こちらは13時間遅れの元日を迎えました。
こちらでは元日は暦上の年初だけで、店
は営業、仕事などは明日から始まります。
由香さん、
元旦の座り込み平和運動ご苦労さまでし
た。19回目で成長した若者達を含む100
人程の参加とのこと、継続の大切さを実
証していますね。添付写真と共にご報告
を記事・メッセージとして平和世界・地
球倫理のブログに転載させて頂きました。
大人の無理解・無行動に対して若者達が
世界で立ち上がりつつありますー温暖化
のグレタさん、集団銃撃に怒り立ち上が
った米国の若者達、日本でも基地・安保・
・核・入試などで声をあげていますが、
tw・FBで以下のようなものがありました。
家庭・学校・地域・SNSなどで若者達と
の交流を考えて進めてゆく必要がありま
すね。
みなさん、
新年是佳年・日々是好日を‼
魯参
ーーーーー
ゆかさん、魯参さん、みなさん、
ゆかさん、
恒例とはいえ新年そうそうに行動に踏み切っているゆかさんのすがたは、
みんなのはげましとなるでしょう。
魯参さん、
まさに「継続は力なり」ですね。
わかいい世代のはつらつとした行動力に期待しましょう。
みなさん、
以下のような年賀状を、例年出している相手には送りましたが、
みなさんと共有できる内容ですので、以下に再録します。
 昨年の三月『亜人間を生きる(白井愛 たたかいの軌跡)』を上梓し、白井愛との約束をやっとはたせました。もうこれで死んでもいいと公言していましたが、現実には、いまも生きています。としたら、もうひとつ、これだけは書き遺しておきたいとねがっていたものをしあげてからにしたいというのぞみがわいてきて、いまそのしごとをしています。このわたしが、なぜ、どのようにして、「大日本帝国」によって純粋培養された「愛国少年」から、このいまのわたしへと転生しえたのか、という物語です。
 このいま、この日本列島は、かつて、アジア太平洋全域で平和にくらしていた無慮無数のひとびとを殺し、自国の民衆をも殺させ、国土を荒廃させて、無惨な敗北を喫した、あの侵略戦争を、たくらみ、実行した張本人の直系の子孫に、乗っとられ支配されています。
 この連中が、この過去を改竄し、かつてとはちがうかたちではあってもおなじ侵略戦争を、またぞろ、たくらんでいます。この陰謀を、過去の事実を知らされないまま育ってきた世代は、見ぬきえず、あまつさえ、そこにアイデンティティの恢復をすら見いだそうとしている。
 この状況に対して、たとえ死を目前にしているとはいえ、あの過去を現実に生きた者が拱手傍観していることは、ゆるされない。非力なりとも、なしうることをなそう。
ひこ

釜山報告です

釜山報告です

 
みなさま
 
こんにちは。長崎の西岡です。
小林様、教皇フランシスコのイラストごらんいただき、ご感想
ありがとうございました!イラストは、長崎にある二十六聖人
記念館がポストカードにして記念館で販売してくださることに
なりました。
 
それから、先週、釜山に行ってきました。
日韓関係の悪化と言われていますが、実際に一人で歩いてみても
バスや商店や食堂、資料館など、釜山の方たちはとても丁寧で
あたたかく接してくれました。街は若者であふれ、エネルギッシュで
活気に満ちていてうらやましいほど。
また、釜山在住の友人の案内で歴史館などを回ってきました。
朝鮮半島から日本に連行された方の多くが、釜山港からの船に
乗船したことから釜山に資料館が建てられたそうです。
展示の規模もさることながら、「強制連行」や「慰安婦」などの
テーマで「人」に焦点をあてて、アニメーションや実物大の人形、
炭鉱の模型など「見る」というより「五感にたたきつけてくる」
ような展示に打ちのめされる思いでした。
ホームページはこちらから
とてもすべては伝えきれませんが、2ページのマンガレポートに
してみました。ごらんいただけたら嬉しいです。
 
「民主公園」の中に建つ「民主抗争記念館」には、タイヤの跡が
ついた太極旗や、戦車の前に立つ市民のデモから、近年の
「キャンドル革命」までの写真パネルがずらりと並び、圧倒的な
人々のパワーに飲みこまれそう。↓民主公園のHPです
 
夜になると気温は0度。凍えるような寒さの中、「カムジャタン」
という鍋をつつきました。
戦後、韓国の軍事政権下で戒厳令が出されていたため、市民は
夜間外出ができず、早朝、街頭に出て、昨夜の残り物を煮た
鍋を囲みながら民主化を論じたそうです。
写真は「カムジャタン」と「キャンドル革命」の通路です。この
通路の向こうは出口です。過去の民主化や弾圧、そしてキャンドルの
通路を経て現在へ。まるで「ここからはあなたが」と告げるように。
私も、この凍てつくような社会で、ちっぽけですが灯をともしたい。
そう思いつつ帰途につきました。韓国の熱い人々に続けるように。
(転送歓迎です)
 
西岡由香
カムジャタン.jpg
キャンドル.jpg
ーーーーー
ゆかさん、
そうですか、釜山へねえ。
長崎と釜山、下関と釜山、対馬と釜山、いずれも、まあ、目と鼻の先といっていいい
位置にあります。文化的には同一の地帯と言ってもいいくらいです。
わたしは、小学校時代、海からはなれた盆地の山口にくらしていましたが、
下関のことはけっこうよく知ってました。
1945(昭和20)年の5月、説明するとながくなるから省きますが、
わたしたち家族9人は、関門海峡を当時の「関釜連絡船」で朝鮮半島へ渡りました。
いつもは下関から出るはずの船が直前までどこからでるか報されず、
仙崎へ行け、いや、下関だ、いや博多だと、くるくる変って、けっきょく博多で
朝から日暮れまで、カンカン照りの埠頭に坐って出航を待ち、
やっと乗れるとおもった船には、もうここまで、といって止められてのれず、
つぎの船がさいわいまもなく出たのでそこへ乗りこみ、
といった、まるで難民みたいなあつかいで釜山へ渡りました。
乗りそこなった船は「米潜(アメリカ海軍の潜水艦)にやられて沈没したと、
釜山で報されました。
ここまでは、よけいなこと。
書きたかったのは、ほうほうのていで上陸し、「満州」の「奉天=現シェンヤン」への
特急「ひかり」の出発(夕刻)までのあいだ、釜山の町を歩いたときの印象です。
ビックリしました。
なんて活気にあふれていたことか。
町ゆくひとびとは、身なりこそよくなかったけど、みんな、しっかと足を地に着け、
いそがしそうに、早足で歩きまわっていた。
店には、いろんな品物がどっさり並んでいた。
食堂に入ってみたら、「配給切符なしで」好きなものが食べられた。
そのころ、「内地」では、東京(京浜)・阪神・中京地帯だけでなく、
中小都市までつぎつぎと空爆を受けて壊滅していくありさまでした。
食糧は、米も肉も魚も、すべて「配給」で、それもほとんど手に入らなかった。
家の庭も学校の校庭も掘りおこして野菜畑になっていた。
仙台から、ふつうは東京経由で下関へ来るはずだったのに、
東京を経由する東北線・東海道線は通行禁止で、
わたしらは郡山から磐越西線に乗り換え、新津から羽越本線・北陸本線経由で
京都へ、その先の山陽本線はまだ通れたけれど、大阪・神戸を通過するさいは、
列車の窓を閉め切るよう命令されるといったありさまでした。
ところが、海ひとつ越えただけなのに、釜山では、まったく平和な日常生活があった、
と、すくなくともその当時のわたしには感じられた。
むろん、朝鮮人民がどれほどくるしめられていたかなど、当時のわたしはまったく知らなかった。
ただ、うわべだけでも、品物が店にあふれ、空襲警報がなく、飲食店が店をあけていて、
そこでは配給切符をださなくても料理が食べられた。
なんて「自由」なんだろう。そう感じたのでした、当時のわたしは。
そののち、奉天のすぐ南で「南満州鉄道」の特急(『アジア号」ではなかった)で
大連へ、ついで旅順へ着いても、印象は変わらなかった。
戦争などどこにはなかった、感じられなかった。
平和な日常生活があった。
言いたかったのは、「印象」って、現実のほんの一部からかたちづくられるにすぎないってことです。
釜山の町とそこにくらすひとびとが、当時のわたしの眼に、どれほど「のどか」で
「平和」であるように、その時見えたとしても、
そのときのそのわたしの印象は、たぶん、空襲がなかった、店で料理が食べられた、
という2点からのみかたちづくられていた。
釜山のひとたちの苦難は、べつなところにあったのだが、
「朝鮮総督府」による、日常生活のすみずみにいたるまでの抑圧は、
その帝国主義国に属する支配民族の子どもの眼にはうつってない。
彼らの苦難がむしろ「大日本帝国」=「朝鮮総督府」崩壊のあとに、
米軍の直接支配と、アメリカの傀儡政権の支配のもとでもたらされるであろうことなど、
もちろん、当時の少年わたくしにはわかっていない。
ひこ
ーーーーー
由香さん、みなさん

一度見たら忘れない教皇の絵が聖人記念館
で絵葉書となって販売とのこと良かったで
すね。
釜山報告有難うございました。自己中の悪・
国家主義・植民主義・戦争主義の悪の被害
を加害者の無智と共に露見する展覧、その
報告は皆が見て緊急に廃絶すべきものです
ね。地球倫理と平和世界ブログに転載させ
て頂きます。
マンガレポートも憲遊記のように続々発表
され纏められると佳いですね。
ミロクの皆さんと共に友として灯を点して
行きましょう‼

福岡訪問:小人餓鬼地獄か大人大心天国か

 

ひこさん、魯参さん、みなさま

 

こんにちは。

2日間、福岡に行っていました。

香港だけでなく、日本にも文化でたたかう人がいます。

福岡在住で被爆者の西山進さん。92歳の現役漫画家で、いまも

千葉の被団協新聞など2本の連載を持っている方です。

酸素チューブを鼻につけたまま、ペンを動かす姿に圧倒されました。

被爆体験のない私が、原爆の漫画を描こうとするとき、わからない

ことが山ほどあります。

資料館の写真は白黒なので、人々はどんな色の服を着ていたのか。

瓦の色は何色だったか。目覚ましベルの形、などなど・・

漫画家の西山さんに尋ねると漫画で教えて下さるので、

時々、福岡に通っては教えを乞うているのです。漫画の師匠でも

ありますが、人生の師匠でもあり、毎回目を見張るお話ばかり。

昨日聞いたのは戦後の事でした。1965年頃、東京で週刊誌の

文芸評論のイラスト描きの仕事をしていた西山さんは「先生」と

呼ばれるほどだったそうです。

それを変えたのが、当時の東京都知事選でした。

憲法学者、美濃部達吉の長男である美濃部亮吉が都知事選に

立候補したとき、その週刊誌は彼を批判する評論に、イラストを

つけるよう西山さんに依頼しました。

「僕にはできません」。

西山さんは断って、その仕事を辞め、印刷所の美術などで生計を

たてたそうです。

「そのままだったら、今頃家が建っていたのに」。

福岡の団地のアパートの一角で西山さんは屈託なく笑いました。

自らの信念を貫いた人の、尊厳に満ちた笑顔でした。

 

西岡由香

 

ーーーーー

ゆかさん、みなさん、
澤地久枝さんに感嘆したすぐあとに、もっと年長の「現役」のかたを
報されては、わたしも、なんとか体力のつづくかぎり「現役」でいたいとおもいました。
もっとも、オカネがなくなりそうなので、いま、すごく倹約してますが。
いい「師匠」出会えてよかったですね。
この先をかなり書いたところで、不意に、全部消えてしまいました。
こういう目にあうのははじめてじゃありません。
ったく、油断も隙もあったもんじゃない。
気をとりなおして。
(じつは、これも一度消えてしまった。ひょんなことで復活)
いま92歳ってことは、被爆したときすでに18歳の青年だったのだから、
当時の状況を正確に再現できるでしょう。
あなたにとって、これ以上の条件は求めてもえられないほどですよね。
おまけに、マンガという、あなたとも共通の表現法を身につけおられるのですからね。
美濃部の選挙のとき、わたしは、それこそ、いまなら戸別訪問でとっつかまるでしょうが、
一軒、一軒、たずねて、このま美濃部を知事にすることが、
わたしたちにとってどれほどたいせつであったかを、
情理をつくして説明し、
美濃への投票を依頼したことをおぼえています。
当時、新宿にくらしてましたからね。
あのときくらい、真剣に「選挙運動」にとりくんだことはなかったかもしれない。
西山さんが拒否した週刊誌てのは、大手の出版社から出ている有名なやつ
だったのでしょうね。当然、稿料もよかったはず。
凡人にはことわれない。
一度でも拒否すると、それ以後は完全に「干され」ますからね。
このいまの、この日本国の状況は、もっともっともっとわるい。
香港はひとごとじゃない。
WAMのMLで前田朗さんが、ちょうど先ごろ、
辛淑玉(シン・スゴ)さんの文章を紹介してくれました。
うまく転載できないんで、
コピーして貼りつけます。
《 最近、単独で来る原稿依頼は、ほぼ全て断っている。先日も「あいちトリエンナー
レ」関連で「表現の自由」に関する原稿依頼が来たが、お断りした。

私を含む「在日」の多くにとって、もうそんな段階はとっくに過ぎて生存権の問題に
まで来ているということを多くの日本人は知らないし、知ろうともしない。ユダヤ人
がゲットーに押し込められ、さらには絶滅収容所で虐待をうけていた時も、ドイツ人
は平穏な日常を営むことができたのと同じだ。

そして、自分達の平穏な日常がどうして批判されなければならないのかと、声をあげ
る者に逆ギレする。

あいちトリエンナーレの騒動は、表現の自由の問題ではない。それ以前に歴史的事実
の否認という大問題が日本側にはあるのに、批判する側もそこは飛ばして、レイシス
トとの対話が必要と寝ぼけたことばかりいう。

安倍をはじめ、河村や大阪維新の会の首長達が歴史的事実を否認しているのをどう考
えるか。それを抜きにして今回の脅迫騒動を語ることはできない。

かつて、ハンナ・アーレントは『真理と政治』の中で、「歴史的な出来事など、人々
にとって世界が共通であり続けることを保証するリアリティとしての“事実の真理”
は、数学や化学などの普遍的な“理性の真理”より傷つきやすい。“事実の真理”は
それが集団や国家に歓迎されない時、タブー視されたり、それを口にする者が攻撃さ
れたり、事実が意見へあるいは“あからさまな嘘”とすりかえられたりする」と記し
た。

日本政府と反動政治家にとって、戦時性暴力に軍が組織的に関わってたという事実
は、認めたくない“事実の真理”なのだ。

今、それを口にする者が、アーレントがいうように迫害の対象となっている。単なる
“表現の自由”の問題以前に、“事実の真理”が攻撃されていることに向き合わなけ
ればならないのに、私に依頼されるのは「日本人」の困難についてばかりだ。彼らに
は、私達マイノリティの困難は,想像できないどころか、意識の片隅にものぼらない
のであろう。

再度いう。ヘイトクライムのターゲットにされた私が「表現の自由」を語る時代は
とっくに過ぎた。

いまの日本社会を見ると、ゴゴスマのコメンテーターでDHCテレビの常連である武田
邦彦教授による「日本男子も韓国女性が来たら暴行しなけりゃいかん」という発言
や、東国原元宮崎県知事が番組で同席した韓国人女性に対して「黙ってろよオマエ
はー黙ってけーこの野郎、喋りすぎだよオマエ!」と罵倒した姿は、この時流に乗っ
かることが勝ち組に入ることなのだと見せつけた。

すでに、自ら韓国や在日を叩くか、少なくともレイシストの言動に対して沈黙するか
しなければ{日本人}から排除されるという恐怖が蔓延しているのだ。

私は、朝日が日和ったことはDHCのヘイト垂れ流しよりも罪が大きいと思っている。

朝日は戦前、当初は軍の行動に批判的な論調を掲げていたのに、満州事変後は右翼や
在郷軍人団体の不買運動に押し切られ、積極肯定へと論調を一変させた経緯がある。

最近の日韓関係の悪化についても、朝日には反韓「世論」に迎合するような記事が
目立ち始めている。

怖いのであろう。しかしリベラル祇が裏切ったときのダメージは、社会にとって致
命的なだけでなく、ターゲットにされたものには死しかないほどの絶望なのだ。

リベラルを標榜する新聞社は満州事変報道で寝返ったことへの教訓わ忘れたか、い
や、きっと安倍と同様になかったことにしたいのかもしれない。

私は原稿依頼してきた編集者に、以下のように返事した。

「この国には、在日の私の言葉に耳を傾ける大衆は、もういないのです。集団リンチ
はあっても集団sポートはないのです。今語るべきは日本人なのだと思います。》

辛さんんが絶望しているのは「日本人」の「大衆」にです。
インテリにでは、もう、ない。
「集団リンチ」はあっても「集団サポート」はない。
このことばが胸をえぐります。
香港では、「大衆」が、自由をもとめてたちあがっている。
「自分の」自由を、犯されまい、として。
ひるがえってこの日本国では、
「大衆」は、自由がうばわれていることにさえ気づいていない。
おしまいに、白井愛の詩「独創」のさいごの部分を引いておきます。
(前略)
それというのも
公衆ひとりひとりのかかえる 私 は
自分で自分を立入禁止にしている危険な倉庫
権威と常識に万全の警備をおねがいしている安全な倉庫
      じつは、あまりに安全
      あまりに安泰 なので
      なかは からっぽ
      がらんどう
      いや なんといっても
      がらんどう 以上に 安心できる倉庫も ありません
      がらんどう 以上に 貴重な財産も ありません
      だって そこには 普遍 がスッポリ入ります
だから
この世の ありとあらゆる 権威ある番犬に
見張りをおねがいしています
仕事も 多忙も ステータスも 友情に人間愛まで
プロの番犬といっしょになって
がらんどう を護衛しています
      たいせつな がらんどう び
      私 が生まれぬよう
      私 が育たぬよう
      独創 などという狂気の胞子が 飛びこまぬよう
         (白井愛『悪魔のセレナーデ』19~21ページ)
「私」はゴチになってます。ここじゃあらわせないけど。
ひこ

 

ーーーーー

由香さん、みなさん

貴重な体験・事件・情報のお知らせを

有難うございます。(歯の手術などで

返事が遅れました。)

西山さんは使命感に動かされて、とい

うより使命そのものになって、92歳に

なっても、酸素チューブを付け乍らも、

勇猛進しておられるのですね。それも

最も多感で直観の鋭い18歳の時の原爆

被災体験がそうさせているのでしょう。

頼まれた美濃部亮吉のイラストは似顔

ではなく風刺画のようなものだったの

でしょうから、飯の種を失っても拒絶

することになったのでしょう。

地獄のような惨禍を直接体験しなかっ

たとしても、普通の人はその惨状を想

像しても、心身にはならないから善悪

も見通せず、毅然として命を懸ける事

も無いのでしょう。それにしても二・

三世議員と言われる人達の人生体験と

は何だったのでしょうかーそれで経世

済民など出来るのでしょうか、まして

大衆・衆生を全体健全にすることなど

出来るでしょうか?多分三バンを引き

継いで、所謂立身出世(世間を出るど

ころか世間に出て我執から破壊するだ

け)をして我慢(高慢)の限りを尽く

す位に考えて居るのでしょう。

一人一人が西山さんのように真理・倫

理を骨肉にして独立不羈、不屈不退に

生きれば核・戦争・暖化・絶滅など無

くなるでしょう。共・友にあり平和を

目指す私達も西山さんのように生きた

衣ですね。(ミロクMLに共有させて

もらいます。)

魯参

ーーーーー

ひこさん、魯参さん、みなさま
こんにちは。
お返事ありがとうございました。福岡の西山さんに伝えます。
来週から足のリハビリのために入院されるそうですが、「リハビリ
してまた講演やりたい」と意気軒高です。見習わなきゃ!
先日、西山さんから伺った中にこういうお話がありました。
1945年の敗戦直前、西山さんが勤めていた三菱造船では、鉄が
足りないのでベニヤ板を鉄板がわりにして「特攻艇」をつくって
いました。それから撃つと矢が飛ぶ「毒矢空気銃」。
米軍の爆撃機に対して毒矢。そのばかばかしさに「この戦争は
もうだめだ」と西山さんは思っていたそうです。
造船所には徴用された朝鮮の人たちも多く働いていました。
西山さんは修理の部署でしたが、しょっちゅう、旋盤などを
「壊れた」と持ってくる朝鮮の方がいたそうです。
おかしいな、と思いながらも修理していた西山さん。
「いま思えば、機械を動かさない。それが彼のレジスタンス
だったんだろう」。
ほどなくして、原爆投下。長崎には当時3万人の朝鮮人の方がいて
約2万人が被爆したといわれています。
「被爆後に救援に行った三菱兵器工場は、地面がピンク色だった。
一面、ずるむけになった人の皮膚の色だった」と西山さん。
遺体から人の尊厳をも奪う原爆が許されないのはもちろんですが、
戦争は差別とともにやってきて、はじめは少数者から、そして
権力者以外の人々の自由を、尊厳を奪っていく。
国籍も男女の別もわからなくなって、地面をピンクに染める。
そんな戦争を、戦争の足音を、権力者を、社会をも許しては
いけない―ー。
1945年8月9日の向こう側から、地響きのような声がきこえてきます。
西岡由香
ーーーーー
ゆかさん、魯参さん、みなさん、
「毒矢空気銃」よりは、まだ、わたしが猛特訓を受けていた「火炎瓶」を抱いて
戦車の前にとびこむほうが、持効性ありです。
鉄板がなければベニヤという発想ねえ。
現実にそのベニヤ板の「特攻艇」で「出撃」して
帰らなかったひとたちもいた。
いまからおもうと、なんて、バカバカシイことをオオマジメデやっていたのかと思うでしょうが……。
青年に達していれば、これじゃ負けるとおもえたでしょうが、
まだ稚い少年だったわたしは、本気で、勝利を信じていた。
「勝利の日まで」という「国策歌謡」がありました。
作詞はサトーハチロー、作曲は古賀政男、歌ったのは霧島昇。
これは、じつは、おなじタイトルの映画の主題歌でした。
映画は今井正監督であったのですが、彼が「出征」してしまったので、
急遽成瀬三喜男に変更。脚本はサトーハチロー。
キャストは当時の人気俳優からお笑い芸人まで総動員ってかたち。
知ってる名があるかも。
徳川夢声、高峯秀子、古川ロッパ、エンタツ・アチャコ、榎本健一(エノケン)、
山田五十鈴。
1944年、昭和19年のことです。
主題歌の歌詞:
丘にはためく あの日の丸を
仰ぎ眺める 我等の瞳
いつか溢るる 感謝の涙
燃えて来る来る 心の炎
   我等は皆(みんな) 力のかぎり
   勝利の日まで 勝利の日まで
あかるいメロディでした。
PCで楽譜を書く技術はしゅう習得してないので、
かりに、ドレミで書くと:
おーかーにはーためく(ソードーソドードーミソ)
あのーひのまるをー(ミラーソファミレミー)
あーおーぎながーめ(ファーラーミラソーファ#ソ)
わーれらーがひーとーみー(ミドソーソラードーレドー)
わたしはこのメロディはすきでした。
いまでも歌えます。
ただ、「あの日の丸」には忸怩たるおもいと、
怨恨がつきまとって消えない。
いまなお、「日の丸」を見ると嫌悪がわきあがる。
半世紀以上前に、わたしは、作曲家たちが戦時中どんな歌をうくっていたか、
戦後に、そのことについて、なにか言っているか、をしらべて書いたことがある。
古関祐司が、TV番組に登場したとき、そのあまりにおだやかなやすらかな表情に、
ああ、このひとにとっては、戦時中に猛烈ないきおいでうみだした歌どもは、
すでに遠い過去にきえていっているんだなあって思ったのがきっかけです。
このひとたちを、戦争協力者として「糾弾」はしなかった。
そうではなく、具体的に、それぞれのひとのおもいを想像しながら書いた。
サトーハチローに代表される詩人たちについても、おなじこと。
じっさい、舌鋒鋭く戦争責任を追及しる批評家が当時いた。
その追及のしかたに、わたしは、共感できなかった。
自分とはかかわりのないこととして追及していたからです。
わたしは、いつも、もしそのときわたしだったら、どうしただろう?
とおもわないわけにはいかないのです。
旭日旗をオリンピックで使用するときいて、烈火のごとく怒った。
なんたることぞ! あれこそ、戦闘を鼓舞する以外のなにものでもないシンボルだ。
上海事件では海軍の陸戦隊が旭日旗をかかげて殺しまくった。
それにしても、世界的に、この日本国だけが、血にまみれた旗(複数)や
「軍歌」「軍国歌謡」を、なんのてらいもなく堂々と公式の場で掲げたり
演奏したりしている。
自衛隊の分列行進につかわれている曲をはじめてきいたとき、おどろき、あきれた。
なんと、「われは官軍、わが敵は」ではじまる「抜刀隊の歌」ではないか。
我は官軍我敵は 天地容れざる朝敵で
敵の大将たる者は 古今無双の英雄で
之に従ふ兵(つわもの)は 共に剽悍決死の士
鬼神に恥ぬ勇あるも 天の許さぬ叛逆を
起しし者は昔より 栄えし例(ためし)あらざるぞ
敵の亡ぶる夫迄は 進めや進め諸共に
玉ちる剣(つるぎ)抜き連れて 死ぬる覚悟で進むべし
これも、中学生の時の「軍歌演習」で歌わされたおぼえがある。
皮肉なのは、この抜刀隊は主として会津藩の元藩士から成り、
朝敵とは西郷隆盛のことだってこと。
これをつかって行進している以上、「自衛隊」てのは「官軍」つまり
「天皇陛下」の軍隊だってことになるでしょうね。
中学校での「軍歌えんしゅうー!」で歌わされたのに、
「敵は幾万」というのがあった。
敵は幾万ありとても すべて烏合の勢(せい)なるぞ
烏合の勢にいあらずとも 味方に正しき道理あり
邪はそれ正に勝ち難く 直は曲にぞ勝栗の
堅きこころの一徹は 石に矢の立つためしあり
石に立つ矢のためしあり などて恐るる事やある
などて猶予(たゆた)う事やある
ウンザリなさるでしょうが、これまた、「抜刀隊の歌」とおなじ。
我に正義あり、正はかならず勝つという歌です。
「精神力礼賛」の歌でもある。
「ヤマトダマシイ」ですな。
これは精神主義と、戦後よく言われた。
ほんとうの「精神」に失礼だ。
戦時中の軍部が鼓吹したのは、たんなる大言壮語であって、
精神のひとかけらもそこにはなかった。
西山さんの体験談に触発されて、
ついつい、長文を書きつらねてしまいました。
ごめんなさい。
ひこ
ーーーーー
由香さん、ひこさん、みなさん

「被爆後に救援に行った三菱兵器工場は、
地面がピンク色だった。一面、ずるむけ
になった人の皮膚の色だった」は見た人
でなければ想像も及ばない地獄絵ですね。
是非絵に口にして伝えて欲しいものです。
空気銃毒矢もベニヤ特攻舟も万事休すの
破れかぶれでしょうが、命軽視も甚だし
いですね。「真理のみ勝つ」も自己中の
小人の「真理」は餓鬼の「妄想」「罪業」
となるのですね。
「全ての誤りは大小の誤り」と思います
が、小人は大世界(例えば命)が見えず
小世界(例えば我・我国・我種)からの
観点から餓鬼地獄を現出して自他共に毒
し破壊するのですね。
金・物・力の餓鬼・畜生・修羅の地獄世
界(核・戦争・暴力)に迷惑するのでは
なく命・心・和の人・天・友の極楽世界
(聖真・善・美)を共有して生きたいも
のですね。(貴重な情報をミロクMLと平
和世界サイトに共有させてもらいます。)
魯参

グレタいのちのさけび‼

グレタいのちのさけび‼

拡散希望:共に涙せずには見られぬビデオ共有:

Attachments area

Preview YouTube video 16歳グレタ・トゥンベリさん 温暖化対策で涙の訴え【全文】

ーーーーー

魯参さん

昨夜のテレビではその一部しか見れませんでしたので
今朝の新聞で全文訳を読み感動していたところです。
教えていただいたYouTubeでいま見ました。
グレタさんは泣きながら語っていましたが、わたしも涙を
流しながら視聴しました。
まさに「いのちのさけび‼️」ですね。
あのくらい本気にならなくてはダメなのですね。
わたし自身の甘さを反省しました。
「 気候変動のような大きな問題は、楽しく、クールで
セクシーに取り組むべきだ」などと発言しているどこかの
国の環境大臣には恐れ入ってしまいますが、グレタさんの
本気度を真似して、実行していくつもりです。

             大塚卿之 9/25

             otsuka.shimoda@gmail.com

             http://www.wadashigemasa.com/
ーーーーー
MIROKU(共・友)です!
魯参
ーーーーー
魯参さま、大塚さん、彦坂さん、 こんばんは
森陽子です。魯参さまとはあまりお話したことが無いので、緊張しています。
どうしても今夜は眠れなくて、薬を服用してもだめです。
風邪がすこし良くなったので、グレタさんの動画を、遅ればせながら、観たのです。
周りの大人がいろいろ足をひっぱるようなことを言っていますが、彼女のスピーチをきいて、
ああ、エンデが1980年に言っていた、「第三次世界大戦はもう始まっている、それは
時間の戦争だ」という発言や、「搾取できる自然がなくなったとき、経済成長は止まる」
という発言があったなあと、思い出していました。「経済成長はいつか終わる」と、彼は
言って、非難を浴びたのです。裁判沙汰の人生で、とうとう胃がんの手術を拒んで、
65歳で亡くなりました。
グレタさんの発言は、なにも、今になって始まったものではないのだとわかります。
大いに共感しています。
家を引っ越してしまったので、どの本に載っていたかは、思い出せないですが、おそらく
「エンデの遺言」が一番まとめてあると思いますが。。。。よくわかりません。
言葉の壁、国境の壁を超えることができたら、彼女に本の一冊も送ってさしあげたい
ですが、英語版でなければ、読めないでしょう。
そして日本では英語版の本を探すこともできそうにないですし、お金もありません。
なにか、いい知恵があったら、アドバイスいただけませんか。
また、日本語での発言を受け付けているところがあったら、なんとか、メールでも送って
みたいと思っていますが、どうしたらいいだろうかと、考えあぐねています。
みなさま、よかったら、お返事いただければと思います。
おやすみなさい。
森陽子
9/30
ーーーーー
森さん、大塚さん、みなさん
もう半世紀も前に「成長の限界」が言われていたのに
金の奴隷になり、金の権化が世界政治を左右し、地球
温暖化は嘘などと言っている大人社会に、居たたまれ
ず立ち上がった未来世代の代表に、命を守る者は共に
具体的行動をすべきですね。
グレタにはドイツ語の方が英語より判り易く、もう既
にエンデのものを読んでいるかも知れませんね。彼の
英訳を検索したら下記が見つかりました:

https://scifi.stackexchange.com/questions/60057/were-michael-ende-s-books-translated-into-english 

ウィキ日本語にはエンデ館の紹介もありますが、英訳

は良く判りません:

仏教の根幹である禅については道元が良く理解して、
それを全ての人々に広く進めた「普勧坐禅儀」があり
ますが、その主著「正法眼蔵」の第一巻には在俗信者
に書いた手紙を基にした「現成公案」が収められてお
り、判り易く説いており、古文に堪能な森さんには特
に名文としてお勧めですので以下をご参照くださいー
原文に親しみ、現代訳は一応の参考に止められるのが
良いでしょう:
なを大塚さんへの先の返信の中の「一如」(いちにょ)
は「一(体)の如し」で「一切生命はいのちとしては
一だが、業存在としては異であり、一体異体の両方
(真諦・俗諦)の面があり、どちらかと言えば俗を超
えた真実に近い「一の如し、如同」と表現したのでしょ
う。個体は謂わば泡沫、全体は大海の如くであると見れ
ば無量寿(限りなき命・終わりなき命:end-less life)
でありそれを知る般若の智慧が無量光です。
禅・仏教は誰でも涅槃・悟りが得られる具体的方法・教
えですから、試みて頂ければ幸甚です(下記にご紹介):
 
ーーーーー
森さん、魯参さん、大塚さん、みなさん、
グレタさんは、おそらく、エンデのいくつかを読んでいるのではないでしょうか?
ドイツ語のほうが読みやすいでしょうね、魯参亜さのおおっしゃるとおり。
もし読んでなくても、むろん、グレタさん自身のこころのそこからの叫びが、
年月を隔てて、エンデの警告と共鳴しあっているのだとおもいます。
グレタさんの涙の訴えに接したときのわたしのなによりも深いおもいは、
このわたし自身が責められているってことでした。
ことばと実行(実践)とが一致していない世のもろもろの「おとな」たちを
わたしは、いくどもいくども、「ことばつくして」批判してきました。
けれども、わたしは、いま、こうして、ここにいる。
つまり、わたしは、なにもなさなかったのだ。
これは60年代にサルトルが吐きだした自責のことばのもじりです。
たしかに、わたしは、発言した、集会で決議した、デモにもで出た、
しかし、いま、半世紀以上も前とかわらない、どころか、
そのいくす倍にもなる自然破壊をくいとめえないでいる。
つまり、わたしは、なにもなさなかったのだ。
ひこ
9/30
ーーーーー
魯参さん、大塚さん、彦坂さん、みなさま
お返事ありがとうございます。森陽子です。
グレタさんはエンデの作品は読んでいるのかもしれません。1976年のこととはいえ、
モモは日本でも100万部ベストセラーの支持を得ている作品なので、読者は多いと
思います。
ろざんさんの下記のリンクから貼ってきますが、
  • 1960 – Jim Knopf und Lukas der Lokomotivführer (Translated into English by Anthea Bell as Jim Button and Luke the Engine Driver)
  • 1973 – Momo (1973) (Translated into English by Francis Lobb as The Grey Gentlemen, and by J. Maxwell Brownjohn as Momo.)
  • 1978 Das Traumfresserchen (Translated into English by Gwen Mars as The Dream Eater in 1978)
  • 1979 – Die unendliche Geschichte: Von A bis Z (Translated into English by Ralph Manheim as The Neverending Story)
  • 1984 – Der Spiegel im Spiegel (1986) (Translated into English by J. Maxwell Brownjohn as Mirror in the Mirror: a labyrinth in 1986)
  • 1988 – Ophelias Schattentheater (Translated into English by Anthea Bell as Ophelia’s Shadow Theater in 1989)
  • 1989 – Der satanarchäolügenialkohöllische Wunschpunsch (Translated into English by Heike Schwarzbauer and Rick Takvorian as The Night of Wishes: or, The Satanarchaeolidealcohellish Notion Potion in 1992)
残念ながら、載っているのは文学作品の翻訳だけのようです。
上から順に日本語のタイトルを並べますが、
「ジムボタンと機関車大旅行」
「モモ」
「ゆめくい小人」
「はてしない物語」
「鏡の中の鏡」
「オフェリアと影の一座」
「魔法のカクテル」(だと思います)
の七冊です。
「オリーブの森で語り合う」はドイツで出された対談集ですが、
「エンデと語る」「エンデの遺言」については、子安教授やNHKが版権を持っていて、
ほかにも、エンデと大江健三郎の対談ビデオとか、アインシュタイン・ロマンの6巻とか、
いろいろいいインタビューなどが出ていたのですが、なぜかNHKが動かない。
わざと出さないのだろうか?などと、恣意的な疑いさえ持ってしまいます。
うちにはすべてが揃っていますが、主たるものは長野県の黒姫童話館に、一昨年、
寄付してしまいました。
それに、いっぺんにバーッと売れて、あとは絶版、という、資本主義的な本の売り方
にも、問題があると思います。
とにかく、グレタさんに贈りたくても、本が絶版ではどうしようもなく。
ドイツには、エンデの奥さまがご存命ですが、すでに痴呆が入ってしまって、老人ホー
ムで暮らしているとのことです。子安教授も、先年亡くなってしまわれました。
なのでエンデの本の版権は、親友のお子様だった、ローマン・ホッケ氏に引き継がれて
いるはずですが、彼は日本語はわからないし、ドイツ本国と関係をもっている友人は、
公的なかたも含めて4人くらいしかいません。しかも、しかも一人は右半身不随で入院
中、一人は音楽家なのでスイスに留学中、みなさまお忙しいかたばかり。
とてもとても、グレタさんのところまでは遠い。。。。
ドイツの本屋さんで探して来て、などと頼めるほど、親しい人はいないですし、どなたも
お金をもっていないので、相談する相手もないです。
文学的な解釈でいえば、ドイツより日本のほうがエンデへの研究は進んでいるらしいと
いうことは、子安美知子教授が生前、おっしゃっていたことです。
「正法眼蔵」については、買い求めていたのですが、夫の両親がすべて捨ててしまえと
言い、この狭いアパートには本も、エンデの著作だけを持って来るのがやっとだったので、
実家を整理したときになりゆきで捨てられてしまいました。
なので、webで読ませていただきますね。
古文も、だんだん、忘れかけてきています。
病気を持っていると、10年早く、老いが来ます。
すでにいまの段階で、二時間以上起きていることが難しいです。
でも、できることは、あるはずです。
グレタさんがあのように訴えているのですから、いまこそ大人たちが立ちあがらなければ。
頑張ろうと思っています。
おやすみなさい。
森陽子
10/1
ーーーーー

ひこさん、森さん、魯参さん、大塚さん、みなさん

 

琴 天音です。

グレタさんがスウェーデン出身というのは、頷けます。

スウェーデンでは日本のようにいわゆる受験勉強はありませんが、

外国語教育には熱心でトゥリリンガルとなる子が少なくありません。

世界に出ていくのに、語学の壁は大きいですから。

また日本のように詰め込みで決められたことをこなすのではなく、

子ども一人ひとりの学ぶ姿勢を大切にするので、

子どもは大人におもねることなく、自分の意見をちゃんと主張できます。

教育の大切さを感じます。

 

ーーーーー

ひこさん、森さん、魯参さん、大塚さん、みなさん

 

再度、琴 天音です。

先ほどの資料は、

『スウェーデンはなぜ少子国家にならなかったのか』あけび書房2002年

と、インターネットでスウェーデンの教育をいくつか調べたものを

本当に簡単に自分流にまとめたものです。

 

10/1 夕刻

ーーーーー
陽子さん、
あなたは、あなたとして、なすべきことをなしてきた。
だから、「なにもなさなかったのだ」と言えるのだと、わたしはおもいます。
この86年間この世に生きてきて、しみじみとおもいしらされていることがあります。
大部分のひとたちは、みんな、時代を吹き抜ける風に頭をたれてやりすごしてきたのだなあってこと。
時代に「かかわった」ひとたちはごく一部だけ。
あの大戦争のさなかでも、真剣に国家をおもっていたひとはすくなかった。
みんな、適当に、目立たぬように、ふるまっていた。
ずるくたちまわるひとたちのほうが多かった。
わたしは、真剣に、心の底から「大日本帝国」の「臣民」として、天皇陛下の「赤子」として、
その国家を愛し、その国家のために生命を捧げるために生きていた。
時代と深くかかわった。だから、「まちがっていた」ことを心底知ることができた。
なにごとにせよ、そこに深くかかわらなければ、そこがなにであるかはわからない。
深くかかわって、はじめて、おのれのあやまちを知ることができる。
サルトルは、時代に深くかかわって生きた。
なさねばならぬこと、なすべきことは、すべて、真摯になした。
だからこそ、「つまり、なにもなさなかったのだ」という悲痛な告白が口をついてでた。
わたしは、ほんとうに、なにもできなかったというおもいでいっぱいです。
13歳から14歳のころ、「自分たち」が「おとな」になったら、
この国を変えるのだと真剣に考えていた。
なのに、じっさいには、自分たちのあやまちをアイマイウヤムヤにしたまま、
孜々として働き、戦後の復興・高度成長をにない、
世界の一流国になったとうそぶき、
そこでの「つけ」をすべて「のちの世代」におしつけたのは、
要するに、この日本国をこのいまのこのていたらくに導いた
第一の責任者は、ほかならぬこのわたしの世代だった。
安倍政権を、なんとかたおそうと、わたしはわたしなりにせいいっぱい努力してきた。
しかし、現に、安倍政権は、たおれるどころか、史上最長の内閣などと
政権の僕と化したマスメディアからもちあげられている。
わたしは、安倍政権に反対しつづけてきたのだ、と、たとえば、韓国や中国の
ひとたちに言ってみてもはじまるまい。
安倍政権のこのいまのこの悪業のかずかずに対しては、
「日本国民」の一員として、責任を感じないわけにはいかない。
すくなくとも、それを止められなかった者としての責任が、わたしには、ある。
地球環境を際限なく破壊してきた当事者では、わたしは、ない。
けれども、破壊者たちの動きを止められなかった責任は、わたしに、ある。
いま、死を目前にする時期に達して、忸怩たるおもい。
しかし、あきらめない。
このわたしの心臓が鼓動を停止するその瞬間まで、
わたしは、わたしのなすべきことを、いかに些細なことであれ、なさねばならなぬ、
なすべきである、いや、なそう、なすつもりだ。
ひこ
10/2 朝
ーーーーー
彦坂さん
森陽子です。
お返事が遅れました。さきの台風17号が9/22日、長崎に上陸し、諫早の島原方面は
一晩、停電で、冷え込んだため、風邪をひいてしまい、長引いています。
わたしも、エンデ館を1997年に立ちあげてから、ずっと、おとなたちを批判してきたつもり
で、いました。
障害を負ってからも、ネットのなかでは、エンデも永遠に生き続けてほしい、と思いつつ、
ほそぼそと続けてきました。
彦坂さんが
「なにもなさなかったのだ」
とおっしゃるなら、私も、同じです。
じっさい、遊んできただけで、なんにも、できていません。
政府と闘うことも、子供を満足に育てることもできず、病に倒れていただけです。
息子はそんな私のことを、いつも、非難していた。
後姿で、いつも、私のことを責めているのを、私は知りながら。
何にもしなかったのです。
ただ、パソコンにばかり向かっていただけ。
今春就職した息子は、転勤族です。
私のところには、きっと帰ってこないでしょう。
幼かった息子を、25年前のあのとき、振り向いてやればよかった。抱きしめてやればよかった。
と、いつも、思い返しています。
ほんとに、なんにも、できなかった。
政府を動かすことも、政治を変えることも、何も。
森陽子 10/2 夕刻
ーーーーー

グレタ(16)いのちの叫び
相良倫子(14)平和の詩「生きる」

つまり、未来は今なんだ

明治七代のちのいのちが 2019.4 15歳未満の
人口1533万人(人口比12.1%)なんです。

2019.9 65歳以上の人口は3588万人(人口比28.4%)です。

明治150年ですから30×5、明治維新の五代目が今の大人です。65歳以上の孫・曾孫が今の15歳未満と考えていいでしょう。

「今だけ 自分だけ お金だけ」の世相は祖父母とて孫に「生きる」知恵・文化を継承してはいない。

10月18日読売新聞は

いじめ最多54万件
昨年度「重大事態」27%増      と伝えている

学校別で、小学校42万5844件、中学校9万7704件、高校1万7709件が重大事態にあるという。

からかい 悪口
遊ぶふりしてたたかれる
仲間外れ、無視
パソコンや携帯電話での中傷(1万6334件)

1918年度の自殺者332人で、9人(中学3高校6)はいじめを苦に自殺した
小中学校の不登校は16万4528人、小中高校での暴力行為は7万2940件だった
(文部科学省17日発表)

相良倫子さんは曾祖母から沖縄戦のはなしをきいてます。
チムグクル・ヌチドゥタカラ・イチャリバチョーデー・ユイマールがだいじの教えを学んで育った。

「政府 企業 ひとびと」を社会構成要素となっています。明治からはじまった資本主義です。一貫して政府は天皇制を利用してきた。
戦前までは「臣民」、戦後は「国民」。
平成・令和にいたっては内閣が元号をさだめ、天皇家を常にマスコミの載せ、政治利用している。

4月29日裕仁誕生日を「昭和の日」(2006年)とし、戦前・戦後を一体化し、朝鮮半島の植民地支配を無かったことにしようとしている。

朝鮮半島と日本列島に北東アジア非核地帯をつくるために「今」があります。

主役は15歳未満のこどもたちです。

ひとびとはなにをしなければならないか?

ひとりひとり脱皮しなければならない。
わたしたちの心の気奥に縄文の心があります。

贈与、贈与、「互酬」の交換様式の「新時代」を語り合おうではないか?

未来を準備しよう!

 2019年10月18日
  憲法語らい場
  古川ひろすけ

 

ーーーーー

 

FB投稿より:https://www.facebook.com/photo.php?fbid=3672285742797330&set=pcb.3672286786130559&type=3&__tn__=HH-R&eid=ARCo4u6akuGRXOUzCkKf-LXkQCzLcr-612wpSTrbHHKVQ_IiaO1GHMSpVe1KnPStMaMlB3XE1YK4ymQd

 

コメント: 口先と心こもると天地の差:過去の人未来の人と雲泥サ

香港:「香港に栄光あれ!」

みなさま

 

こんにちは。

ひこさんや森さんの問いかけに返事を書きたいと思いつつ、書きだすと

考えこんでしまって、なかなか返事が書けずにいます。

とりあえず今日、とても伝えたいことがありメールさせていただきます。

 

今日のTBS「報道特集」は、いま香港の人々の間に広がっている歌を

紹介していました。「香港に栄光あれ」。作詞作曲した若者は、顔も

名前も出さずこう語りました。「いま続いているデモにリーダーはいない。

だから自分もヒーローになりたくない」。ネットに載せた歌は瞬く間に広がり、

中高生がショッピングモールで開いた集会には「香港に栄光あれ」の

横断幕を前に人々が声をあわせました。

 

何故涙が止まらないの 何故怒りに震えるの

頭を上げ 沈黙を破り叫べ 自由よここに舞い戻れ

何故恐怖は消えないの 何故信じて諦めないの

何故血を流しても邁進を続けるの 自由で輝く香港のために

星も見えない暗い夜に 霧の遥か向こうから聞こえてくる角笛

自由のためにここに集え 全力でたたかえ 勇気と叡智は永久に不滅

夜明けだ 取り戻せわが香港を みな正義のためいま革命を

どうか民主と自由が永遠であれ 香港に栄光あれ

 

Youtubeで聞くことができます。画面の前で嗚咽してしまいました。

ぜひごらんいただけたらと思います。

キャスターの金平さんが一言「時代が変わる時は、歌が生まれるんですね」。

https://www.youtube.com/watch?v=U4auC9gEXLk

西岡由香

Attachments area

Preview YouTube video 香港に栄光あれ 《願榮光歸香港》交響楽団&合唱【英語&日本語字幕】《Glory to Hong Kong》

香港に栄光あれ 《願榮光歸香港》交響楽団&合唱【英語&日本語字幕】《Glory to Hong Kong》

 

 

ゆかさん、みなさん、

 

ゆかさん、ありがとう!

「報道特集」だったのか。

 

感動しました。

歌はこうしてうまれるのですね。

ほんらい、民衆のなかからうまれてくる歌には「作詞者・作曲者」なんてなかったのです。

歌そのものが共感をよべば、自然に、ひとびとが歌いだす。

 

それにつけても、わたしはかなしくてなりません。

もうかなりまえになるかしら、ポーランドでおこなわれた第二次大戦の犠牲者追悼式典に

ドイツの大統領が出席して、あの戦争はドイツの犯罪ですと明言して謝罪した。

真正な行為であった。安倍総理などとは次元がちがう。

 

かなしかったのは、そのことではない。

ポーランドのこの式典が、みごとに、「普通の国家」のかたちでとりおこなわれたことです。

儀仗兵もいたし、軍服が正面にでてた。

ワレサのポーランドがねえ。

 

いま、『異境』というタイトルの本をに出会ったところです。

サブタイトルは「私が生きぬいた中国」。

著者は、韓瑞穂(ハン・ルイス)という日本民族出身の中国人です。

 

このひと、1944年、というから昭和では19年、まさにあのアジア太平洋戦争のさなかに、

中国人と結婚して中国に渡っています。

彼女は、日本女子高等学院(現在の昭和大学)国文科を卒業してまもない21歳、

夫は、法政大学を卒業した22歳。

 

以来、国共内戦時代には、夫婦それぞれ、八路軍と行動をともにし、

中国共産党へ入党もし、まさに、あの激動の時代を生きて、

しかも、そののち、政権をとったあとの中国共産党の(毛沢東の)変質を

まのあたりにし、実害も受け、

と、いまのところ、ここまでしか読んでいないのですが、

それでも、現にいま、中国国際関係学院の教授として、

「名誉回復」された夫とともにくらしているとのこと。

 

なぜ、このひとのことをもちだしたのか?

中国共産党は、革命をなしとげるまでは、まぎれもなく、すばらしい党だった。

しかし、このいま、名ばかりの「共産党」が支配している国家資本主義体制の

中国は、初期の毛沢東・周恩来たちが志したのとはまったく反対の方向へ

大きく転換、イヤ、変質してしまっています。

 

共産党という党名が、まさか、こんなていたらくの支配をあらわすようになろうとは、

1945年から49年にかけての党員たちには想像もつかなかったでしょう。

 

香港でいまおきているのは、まさに、このいまの中国の負の部分を拡大して

見せつけている事態です。

1945年から49年にかけて八路軍・新四軍の兵士としてたたかったひとたちは、

いま、香港で、自由をもとめるたたかいにいのちをささげているわかものたちと

おなじひとたちだと言ってもいい。

 

普遍的な正しさをもつ日本国憲法前文と第九条とを、

わたしたちは、ぜったいに手放してはいけない。

「普通の国」になんかなっては、ぜったいにいけない。

ひこ

ーーーーー

由香さん、ひこさん、みなさん

ローマ教皇来日記念フォーラムでの講演が
決まったとのことご苦労様ですがおめでと
うございます。教皇は「亡くなった弟を背
負う少年」の写真で原爆・戦争廃絶のメッ
セージを発信されていますが、その発信地
として最悪の原爆(原発)被害を受けた日
本が最適と考えておられ11月の来日時には
重大宣言をされると思いますが、是非他の
諸宗教を参加して声を大に世界に呼びかけ
てほしいですね。 
「我願栄光帰香港」別YouTube有難うござ
いました。早速見せてもらいましたが、随
分多くのものが掲載されているのですね。
ひこさんの中日英比較に刺激されてもう一
度見て日英共に原文と大分違うのではない
か(特に英語の方の翻訳は)?と思われた
ので自分で訳をつけてみましたので、添付
共有します(中国語に堪能な方の点検・コ
メントをお願いします)。
これとひこさんの比較もミロクMLに共有さ
せてもらい、スレッドを平和世界サイトに
転載させて頂きたいと思いますのでご海容
下さい。
添付書類:

 

ーーーーー

魯参さん、
共感のしかたが、まことにあなたらしい。
そのあなたに共感。
わたしも、比較しようと思いました。
しかし、書きとめる労を惜しんだためできなかった。
ありがとう。印刷して、とくとくらべました。
日本語訳は、ほぼ、中国語の本文とおなじです。
「何以」と「何故」をあたまにもってくるところなど。
英語では、直接感情をぶつけてくるフレーズではなく、
内容をとって論理的に説明しているものになっている。                                                                                  
この傾向は全体通して感じられます。
「祈求民主輿自由万世不滅」と
「どうか民主と自由が永遠であれ」とは、
すこぅしニュアンスがちがうけど、
意味も感情もおなじようにつたわってくる。
英語では「With them」と、願うことと、願うひととを
論理的にはっきりさせている。
日本語訳も中国語本文も、
「民主」と「自由」が「万世不滅」=「永遠」であれと
願う心が直接表現されている。
要するに、「民主」と「自由」とが「永遠であれ」と
願う、その心情がストレートに表現されているから、
「だれが」「だれのために」などとは表現するまでもない。
英語訳では「Wish them 」とそれが表示されている。
「香港に栄光あれ」だけは、中国語で「我願」と、
主語が明示されている。
「取り戻せわが香港を」
「要光復這香港」
ここでは、「這」=「この」が「わが」になっていることに、
気がついた。
英語訳もおなじで「Let’s revive our HongKong]
と「わが」がつかわれている。
「この」には意味があるのになあ。
それより、「revive」は「とりもどす」にはちがいないが、
「甦らせる」というニュアンスもこめられているのではないかしら?
それと、もっと重要なことに気づいた。
「とりもどせ」と日本語で訳しているのは、
中国語の動詞「光復」です。
まさに韓国でなによりもたいせつにしていることばと
そっくりおなじ、おんなじ意味ですよね。
文化の根の深さを案じました。
いちいちあげつらっていては興ををそぐでしょうから
ここらへんでやめときます。
魯参さん、ありがとう。
なんか、わたしにかわって書きとめてくれた感じでした。
ひこ
ーーーーー

 

ひこさん、魯参さん、みなさま

 

おはようございます。

すごい!あっという間に翻訳を発信してくださる魯参さん、そして

解説してくださるひこさん、なんてすごい方々が集っているの

でしょう。

Youtubeのトップ画面の一番上にある検索欄に「香港に栄光あれ」を

入力して検索すると、いろんなバージョンが出てきます。日本語翻訳も

少しずつ違っています。

https://www.youtube.com/watch?v=eGZ45N3BNFQ

これにも涙が出ました。デモ中心の画像、美しいです。

 

実は11月に長崎で行われる、ローマ教皇来日記念フォーラムで20分

お話することになり、おととい神父さまと打ち合わせしてきました。

1865年に起きた「信徒発見」と、その後の禁教令撤廃について、

神父様がこう語っていました。

「長い禁教の歴史の中で、信徒たちは代々、信仰を伝え続けました。

ほとんどの世代で、そのときには結果は出なかった。でも最後の最後の

ページで奇跡がおきた。あいだのページには何もなかったかもしれないが、

そのページがなければ最後の1ページには到達しなかったのです」。

 

ひこさんや森さんが「なにもなしえなかった」と書かれていましたが

決して、決してそんなことはないと断言します。

香港の人たちも、魯参さんや、ここにおられるMLのみなさんも、

未来へ続く大切な1ページを、いのちをかけて生きておられるのですから。

 

西岡由香

Attachments area

Preview YouTube video 願榮光歸香港 [日本語版]《香港に栄光あれ》(Glory to Hong Kong)

願榮光歸香港 [日本語版]《香港に栄光あれ》(Glory to Hong Kong)

ーーーーー

由香さん、ひこさん、みなさん

ローマ教皇来日記念フォーラムでの講演が

決まったとのことご苦労様ですがおめでと

うございます。教皇は「亡くなった弟を背

負う少年」の写真で原爆・戦争廃絶のメッ

セージを発信されていますが、その発信地

として最悪の原爆(原発)被害を受けた日

本が最適と考えておられ11月の来日時には

重大宣言をされると思いますが、是非他の

諸宗教を参加して声を大に世界に呼びかけ

てほしいですね。 

「我願栄光帰香港」別YouTube有難うござ

いました。早速見せてもらいましたが、随

分多くのものが掲載されているのですね。

ひこさんの中日英比較に刺激されてもう一

度見て日英共に原文と大分違うのではない

か(特に英語の方の翻訳は)?と思われた

ので自分で訳をつけてみましたので、添付

共有します(中国語に堪能な方の点検・コ

メントをお願いします)。

これとひこさんの比較もミロクMLに共有さ

せてもらい、スレッドを平和世界サイトに

転載させて頂きたいと思いますのでご海容

下さい。

魯参

添付書類:

新訳: 誓願「香港に栄光あれ!」

 

ーーーーー

ゆかさん、魯参さん、みなさん、

ゆかさん、

ローマ教皇来日記念フォーラムであなたに講演させるということそれ自体、

長崎のカトリック教会のすばらしさを、いみじくも物語っています。

とっても、とってもいいことです。

あなた以上に、このいま、長崎の地で「キリシタン」について語りうる

ひとはいないでしょう。

いろんなヴァージョンがあることを、送っていただいたヴィデオ映像から知りました。

訴えようとすることそのことはおなじでも、ひょうげんのしかたに、それぞれ微妙な、

そして興味深いちがいがあります。

これこそ、民衆のなかから、民衆の、民衆のための、民衆による歌が

うまれてくるすじみちを、十二分にしめしてくれています。

「民謡」に相当する語は、英語そんほかでは、Folk song ですから、

「民族」の歌と言っていいでしょうが、ロシア語では「ナロードナヤ・ピィーエスニャ」

つまり、「民衆」の歌です。

しごとの場で、生活の場で、おのずからひとびとがくちにしていった、そういう歌です。

送ってもらった画像のなかで謳われているのは、まさにそういう歌ですね。

すこし、ちがう。そのちがいうってとこが、とっても気になる。

魯参さん、

いいですよ、あなたのこの訳!

わたしがひっかかったところもみごとに解決してくださいました。

この歌のばあいは、すくなくとも日本誤訳では、中国語本文の語順を

そっくりそのままうつしとって訳すことができあす。

英語でも、文頭にどの語が来るのかを重視して工夫すれば、できる。

あなたのこの訳はそこで成功しています。

小説のような長い文章ではなかなかそうはいかない。

けど、もう半世紀以上まえに、ワレンチン・カターエフという作家の

「オッチェ・ナーシ(われらが父よ)」という作品を翻訳したとき、

わたしは、無謀にも、語順をいっさいかえないままで「読める」だけでなく「美しい」

ひびきをもつ日本語になおせないかとこころみて、半ば成功したおぼえがあります。

「オッチェ」は「父(アチェーツ)」の呼称。父よ」と呼びかけるときの形ですから、

この部分は「天にましますわれらい父よ」というかの祈りの冒頭部分を用いているのです。

あえて、これをタイトルにしたのは、カターエフのこの作品が、

ナチに占領されたウクライナの都市で、母と幼い娘が、

朝、まだ暗いうちから、家を出て、いたるところに感じとられる監視の目を避けながら、

逃げまどい、その翌朝、凍死体となって発見される、それまでの経過を、

幼い子との対話をまじえて克明に描いたものだったからでしょう。

ひこ