朝鮮半島と日本の非核を考える

朝鮮半島と日本の非核を考える

朝鮮半島の非核化と戦争終結が日程に上ってきています。
日本列島をどうしていくのかを考える

現在7/28まで、北品川の原美術館では、「The  Nature Rules  自然国家 : Dreaming Earth Project」が開催されている。

1953.7/27朝鮮戦争休戦協定が結ばれ、北緯38度線から南北に約2キロメートルずつ250キロメートルに及ぶ立ち入り禁止の帯状の緩衝地帯、非武装地帯(DMZ)がつくられ65年になります。106種の絶滅危惧種を含む5057種の生物がすむ「聖域」となっています。
地雷が敷き詰められて人間が足を踏み入れてないがため、生態系が回復していました。

崔 在銀(チェ  ジェウン)氏(1953年生れ)が2014年に「大地の夢プロジェクト」を立ち上げ、世界の美術家・建築家に呼びかけて、豊かな自然を守るアイディアを募ってきた。そのアイディアが展示されています。

1945年8月まで36年間日本の植民地とされてきた半島が、北緯38度線でソ連とアメリカにより分断され、48年に二つの国家となりました。
ソ連が1949年に「核」を開発するや、日本政府はアメリカの「核」に依存し、日米安保条約を結び、全列島に米軍基地を許し、朝鮮戦争やベトナム戦争等数々のアメリカの戦争の出撃基地となってきました。

朝鮮戦争(1950~53)は
休戦ということで現在もなお継続しています。
日本は2015年安保関連法、こんにち日米同盟ということで改憲が浮上しています。
一方朝鮮半島では「半島の非核化」「朝鮮戦争の終結」が日程にのぼっています。
DMZの「生態系(自然)を世界の宝に」のプロジェクトと言えます。

日本では「九条を世界の宝に」の運動がおこっています。

日本のひとびとはどうすべきでしょうか?

憲法の前文はひとびとの行動の指針でもあります。

「日本国民」は、実は「公僕」と「ひとびと」しかいないのです。そのことに気づいたならば、「イデオロギーよりアイデンティティ」で、「核」に支配されない民族として生まれかわらねばならないでしょう。

語り合って語り合って、「優しい」 今と明日 をいっしょにつくっていきましょう。

2019年6月9日
憲法語らい場
古川ひろすけ

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平和への道は無い:平和が道である!
There is no way to peace: Peace Is the Way!

辺野古の闘いに学ぶ:1. 辺野古新基地を認めない沖縄民意に学ぶ、2.辺野古の闘いから見える日本発展の可能性

1.辺野古新基地を認めない沖縄民意に学ぶ

 

知人友人の皆さんへ
    杉浦公昭
 最近の沖縄の動きから学んだ若干を書いてみました。
忌憚のないご批評を下されば幸いです。
                敬具。

辺野古の米軍新基地建設を認めない沖縄の民意に学んで

1.「オール沖縄」の誕生

1956年6月20日、沖縄の64市町村(当時)のうち56市町村で一斉に「プライス勧告(土地取上げ)反対、「四原則貫徹」住民大会が開かれ、20万人余の住民が参加しました。それ以降も住民の激しい抗議が続き、「島ぐるみ闘争」と呼ばれる運動へ発展してきました。

2012年、沖縄県民は、翁長雄志氏を共同代表としてオスプレイ反対県民大会民を開き、「建白書」を政府に提出しました。この動きから、「オール沖縄」を起こし、翁長知事を誕生させました。

2.「戦争する国造り」勢力と戦争放棄勢力との対決

「戦争する国造り」勢力は、憲法改悪を企んでいます。一方、沖縄では、沖縄戦で生き残った人達が、命懸けで人殺しのための基地は絶対造らせないと、座り込んでいます。私も2007年から毎年春秋各1 週間ずつ参加してきました。

これへの警察による不当弾圧は、平和の仲間の怒りを買っています。米軍基地問題は、わが国の安全保障の問題であり、この認識を深める上で座り込み現場は、よい学習の場になっています。

この対決が、立憲主義を破壊し「戦争法」を進める政府と、憲法に基づく平和と民主主義を守り発展させようとする市民と野党の共闘との闘いの最前線になっています。

3.「オール沖縄」を巡るアジア情勢

「オール沖縄」は、万国津梁の精神に基づき、平和の懸け橋となり、アジアに向けたダイナミズムで、人、物の流通のハブ国際都市として観光とIT産業で経済発展を目指しています。

折しも北東アジアでは、南北朝鮮間と米朝間の首脳対話が成功し、年内の朝鮮戦争の終結が明記され、在沖米海兵隊の駐留理由が無くなろうとしています。

他方、東南アジア諸国は、既にASEANとして域内の諸問題を平和的な対話で解決しています。

4.沖縄の民意に学んで

この好情勢の基に、我が国は、対米従属国から自主独立国になるため、翁長知事の全国知事会での日米地位協定の抜本改善提案を手掛かりとして、日米安保条約を止め平和的な日米友好条約に切替える展望が開けて来ています。

本土の我々が、オール沖縄の闘いに学んで、沖縄と連帯し、市民と野党の共闘を強め「戦争する国造り」と闘えば、平和で豊かな自主自立精神の誇りある日本を切開く展望が持てます。

皆さん、共に力を合わせて、頑張りましょう!

(日本科学者会議埼玉支部代表幹事 杉浦公昭)<投稿日、2019.5.19>

 

2.辺野古の米軍新基地に反対する闘いから見える日本発展の可能性

知人友人の皆さんへ
   先日、最近の沖縄の動きから学んだ若干を書いてみました。
本日は(その2)を添付してお送りいたしますので、
忌憚のないご批評を頂ければ幸いです。
敬具。
b. 添付ファイル内容:

辺野古の米軍新基地に反対する

オール沖縄の闘いから見える日本発展の可能性

 

杉浦公昭

  1. 「オール沖縄」は、どのようにして形成されたか

2015年、稲嶺市長に「オール沖縄」は、何故選挙に強いのか尋ねると、「沖縄の心」と答えました。

一方、辺野古座込みの熟年活動家は「辺野古の闘いの広がり」と応えました。

そこで、「オール沖縄」のルーツを求めて、戦後の米軍よるに基地建設土地強奪への闘争史を概観してみました。

沖縄は、1951年のサンフランシスコ講和条約で、日本の独立と引き換えに本土から切り離され、無権利の状態に置かれました。

1954年4月立法院は、米軍の土地買い上げに反対し、「四原則」(軍用地料一括払い反対、適正補償、損害賠償、新規接収反対)を採択し、米政府に陳情しました。

1955年3月、伊江島に武装米兵が上陸し、住民の家を焼き払い、銃剣とブルドーザーで土地を強奪しました。

さらに住民の逮捕・投獄・暴行・占領地内外での爆弾投下や機銃掃射などの蛮行を繰り広げました。

その結果、土地を奪われた農民の母親2人が栄養失調で死にました。

また、多くの農民が餓死寸前に陥りました。土地を強奪された農民は、生きるために、皆で基地に入り積極的非暴力の方針の下で、集団的な農耕を始めます。この闘いが、土地強奪反対闘争の源流となりました。

1956年米国は、沖縄立法院の陳情に応えてプライス現地調査団を派遣してきました。

このプライス勧告により米政府が、「四原則」を全面否定して、土地を二束三文で買い上げようとしたので、沖縄県民は、これを拒否しました。

同年7月、沖縄全住民は四原則貫徹を掲げて島民大会を開き、島民80万人の内50万人の参加を得て「島ぐるみ闘争」を成功させます。この「闘争」が高揚と停滞を繰り返し発展します。

沖縄県民は、欠陥輸送機オスプレイ配備時には、反対の「建白書」を政府に提出します。

一方、仲井眞知事は公約を裏切り「辺野古埋め立てを承認」します。

県民は、『建白書』を実現し、未来を拓く新たな「島ぐるみ会議」を立ち上げ、「オール沖縄」に発展させ、翁長知事を誕生させてきました。

以上概観してきたように沖縄の米軍基地は、戦後に強制接収されて造られました。

奪った物が、「世界一危険になったから、代替物をよこせ」と言う強盗を助ける日本政治こそが大問題です。

2.人殺しのための基地は造らせない非暴力の座り込み

保守政権は「戦争する国造り」の総仕上げとして憲法改悪を企んでいます。

一方、沖縄戦で辛うじて生き残ったオジイ、オバア達は、命懸けて、人殺しのための基地は絶対造らせないと、非暴力の座り込みをしています。この対決が、沖縄県名護市の辺野古の海岸で、自然環境破壊と米軍要塞基地新設を巡って闘われています。

これが、立憲主義を破壊し「戦争法」を進める政府と、憲法に基づく平和と民主主義を守り発展させようとする市民と野党の共闘との最前線での闘いになって居ます。

私も、戦争反対の実践として2007 年から毎年春秋各1 週間ずつ地元の新基地反対住民の非暴力直接行動としての座り込みに加えて頂き闘ってきました。

昨年は、腰痛を堪えて1 月の名護市長選と4 月の辺野古―500人結集に参加しました。その後、腰痛が悪化し、現場での直接的支援は困難になっています。

「オール沖縄」は、首長選で名護市長選以来負けが込みましたが、9月の知事選、10月の豊見城市長選、今年2月の県民投票、今年4月の衆院3区補選と勝ちが戻ってきました。

今後、辺野古で粘り強く座り込みを続ける人々が「オール沖縄」の団結を強め、日米政府の様々な分断工作を許さず『建白書』に結集した民意を守り切れば、自主自立精神の誇りある豊かな沖縄自治体が生まれるに違いありません。

それは自主独立の日本への先駆けとなり、日本発展につながって行くと考えます。

3.オール沖縄の闘いが切り開きつつある日本発展の可能性

翁長元知事は

「沖縄は、イデオロギーよりアイデンティテーの考え方で、平和の裡に沖縄のソフトパワーで、自然、歴史、伝統、文化、万国津梁の精神、世界の懸け橋になる、日本のフロントランナーとなる。

経済的にも観光とIT産業で伸びていき、平和の緩衝地帯として他の国々と摩擦が起きないような努力の中に誇りある沖縄を置くべきだと思う」と述べています。

デニー知事も

「日本の最南端の一地方から、世界中から人や物の集まるハブ国際都市へ。

古来からの琉球文化が花開く、平和を希求する島へ。

ウチナーンチュの伝統と文化を継承し、多様な個性が輝く、新時代の沖縄へ。

県民一人ひとりの可能性を引き出すことで、一人も取り残さず、すべての人が輝く、誇りある豊かな沖縄の今と未来を一緒につくっていきましょう!

青年の皆さん力をかしてください」と呼びかけています。

元山仁志郎氏は、

県民投票は、市民・若者主導の政治・社会的実績を残した」と強調し、「沖縄の若者の間に違いや分断や対立を乗り越えた『対話』の空気ができつつあるのは成功だった」と喜びました。

また「米朝会談」も同様に、世界は今、立場の違いを超えた「対話」こそ、重視される時代を迎えてもいます。

屋良朝博氏は、

「名護市辺野古に新たな米軍施設を造らなくても、普天間飛行場を返還させることは可能です。現代アジアのうねりを取り込み、文化、伝統、そして経済を再復興させる」と言いました。

高良哲夫氏は、

「選挙戦最大の争点は、安倍政権が目指す憲法9条改正を含めた『改憲を阻止すること』だ」と述べ、同時に「辺野古新基地建設反対の民意を参院選でも示し、工事を止めよう」とも述べました。

「建白書」実現で「辺野古を埋め立てなくても普天間基地は閉鎖・撤去できる」と強調しました。

4.まとめ

辺野古で「米軍要塞新基地は作らせず、勝つまで諦めない」と座り込み続ける人々は、「オール沖縄」に結集して頑張っています。

彼らは地方政治舞台で、未来を背負う子ども達のために、万国津梁の精神に基づき、平和の懸け橋となり、アジアに向けたダイナミズムで、人、物の流通のハブ国際都市として観光とIT産業での経済発展を展望しています。

その東南アジア諸国は、既にASEANとして域内の諸問題を平和的な対話で解決する東南アジア友好協力条約(TAC)を実践し、善隣友好・平等互恵の外交を進めています。

他方、北東アジアでは、折しも韓朝対話や朝米対話が進み、朝鮮戦争終結も明記され、在沖海兵隊の駐留理由が無くなろうとする情勢を迎えています。

そのため、対話否定・圧力一辺倒路線の安倍対朝外交は孤立し、今や前提条件無しの対話路線への転換を余儀なくさせられています。

この好情勢の基に、翁長知事の全国知事会での日米地位協定の抜本改善提案を手掛かりとして、我が国が対米従属国から自主独立国になるため、日米安保条約を止め、平和的な日米友好条約に切替える展望が開けて来ています。

本土の我々が、オール沖縄の闘いに学んで、沖縄と連帯し、市民と野党の共闘を強めオール日本で「戦争する国造り」と闘えば、平和で豊かな誇りある日本を開く展望が持てます。

共に力を合わせ頑張りましょう!

日本科学者会議埼玉支部代表幹事   < 2019.5.21>

 

日本と世界の市民に訴える

日本と世界の市民に訴える

みなさまへ  拡散お願いします  BCCにて  松元@札幌

■「知られざる核戦争:日本ファシズム」に渾身の警鐘、科学者矢ヶ﨑克馬:日本と世界の市民に訴える、アベ政権・「復興」オリンピックに痛打!
https://drive.google.com/file/d/1jimIvxb-LduaKlZZJvli4CqYQUOeCyJM/view?usp=sharing

◆ICRP体制に終止符を!https://drive.google.com/file/d/16snw3CYH2G6E0yJghVZu09bcQxNKHY_z/view?usp=sharing

MLホームページ: https://www.freeml.com/uniting-peace

憲法九条 1. 幣原漢詩(1946.3):憲法九条注釈:軍備より道徳, 2.幣原年頭雑感(1951)憲法九条意義強調, 3.SA9:憲法九条国連支持決議を

下記1は憲法九条の注釈として「平和への道はない、平和が道である」を日本政府最終案作成段階(1946年「3月6日案」・7日に各紙発表・国民驚いたが好評)で自ら漢詩に述べていることは自信・自負を示すもので重要ですねー幣原が根っからの軍国主義者であったら、軍備必要と考えていたのにGHQに九条を押し付けられたのならこの時期にこの内容を表明するとは考えられませんね(むしろれっきとした思想家・政治家と言えるでしょう。後に朝鮮戦争勃発後マッカーサーから頼まれて自分の発案をしたのなら、この時期にそれを予め予想してこんな言明をし、口実を造って置いたとも考えられませんね)。

 

魯参

 2019年の5・3憲法集会に参加して

 2019年の5・3憲法集会に参加して

皆さん
古川です

私は欠かさず憲法集会には参加してきていました。昨年より5000人多い65000人の参加者があったという。集会での二人の発言が心に残りました(5/4付しんぶん赤旗より)。

◾「辺野古」県民投票の会代表
   元山仁士郎さん

名護市辺野古の米軍基地建設の是非を問う県民投票では、反対が72%という圧倒的結果がしめされました。しかし、埋め立て工事は続いています。なぜ、沖縄の人々の民意は反映されないのか。民主主義とは何ですか。
  税金は根拠を示しながら人びとのためにつかう。法律はその趣旨にのっとって適用する。
沖縄の海、森をしっかり守る。お互いを尊重し話し合って決めていく。こんな社会をめざしていくべきではないですか。憲法には、そのことが書かれています。憲法を大事にしながら、一人ひとりを大切にする社会をつくっていきましょう。

◾ジャーナリスト・武蔵大学教授
   永田浩三さん

私は安倍首相と同じ1954年生まれ、戦後の民主主義教育、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義がどれほど大事なのかを授業で学びました。
  私が編集長を務めてNHKの日本軍「慰安婦」を扱った番組が放送される直前、官房副長官だった安倍首相がNHK幹部にちょっかいを出し、番組は大きく変えられてしまいました。私は告発できませんでしたが、いまはジャーナリストと市民の連帯がひろがっています。
  再び戦争の道を進んではいけません。心あるジャーナリストと市民との連帯で言論や表現の自由を守り、安倍政権を終わらせましょう。

志位和夫さんも同じ歳でした。
私、後期高齢者からみると、この世代の人たちはNationとPeopleの区別なく「国民」という言葉をよくつかっているなとおもいます。「9条守れ」と「憲法守れ」と同じ意味に」使っているように見えます。前文と離れて条文論争をしているようにおもえてなりません。

憲法には「憲法三原則」・「民主主義」・「立憲主義」の文字はありませんが前文においては、その内容をそのまま確認できるのです。

前文の中の「諸国民」はall  nationsですが、「国民」と書かれているのは皆Peopleだということです。
People=「ひとびと」と書き換えて前文を読みとっていって見ましょう。

➡️日本に生活するひとびとは、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動してこの憲法を確定しました。
ー<われらとわれらの子孫のために>ー
諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し(「基本的人権の保障」)、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることの無いようにすることを決意し(「戦争放棄」)、ここに主権が「ひとびと」に存することを確認して(「主権在民」)。
「の尊重」「平和主義」「国民主権」も日米同盟も軍隊とも共存して多数決の議会制民主主義でやっていく。2/3を占有できればなんでも民主主義と成ってしまっている。

しかし沖縄では、子孫のために、生まれてくるいのちのために、基地は残せない、海と森をしっかり守ろうが出発点となっている。

➡️そもそも国政は
ひとびとの厳粛な信託によるものであって、
その権威はひとびとに由来し、
その権力はひとびとの代表者がこれを行使し
、その福利はひとびとがこれを享受する。
of  the people、by the people、for the people ですね。

これは人類普遍の原理(「民主主義」)であり、この憲法はかかる原理に基づくものである。
われらはこれに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する(「立憲主義」ではないですか)

元山(27歳)さんたち20代は辺野古の県民投票を実現しました。

平和とは戦争を抑止するために日米同盟をくむことではなく

「一人も取り残さず、すべての人が輝く
今と未来を一緒につくっていきましょう!
青年の皆さん力をかしてください」(玉城デニーさん)です。

沖縄は「新時代(NEWERA)」が2018.9.30にはじまっています。

憲法前文実現ですね。

「天皇を戴く国家」三千年?。その前に一万年数千年の縄文がありました。さらに二万年間の旧石器かありました。
私たちには「いのちが歓び合う」世界を創る遺伝子がねむっています。

幼きこどもたちとともに育ちあい
ましょう。
それこそが
新時代!

古川ひろすけ

幣原喜重郎元首相が語った 日本国憲法 – 戦争放棄条項等の生まれた事情について(含:討論)

  日本国憲法(にほんこくけんぽう)
*この項目では、昭和22(1947)年に施行された「日本国憲法」をベースにしており、今後、憲法の改定があった場合も基本的には更新されません。
憲法関連ページ目次
幣原喜重郎元首相が語った
日本国憲法 – 戦争放棄条項等の生まれた事情について
 経緯 
 主な幣原の言 
 戦争放棄条項等の生まれた事情・全文 
 平野三郎の著書 
幣原喜重郎(1872-1951)
幣原喜重郎(1872-1951)
写真:幣原平和財団

1946年・昭和21年(今から73年前)に公布され、1947年・昭和22年(今から72年前)の5月3日から施行された「日本国憲法にほんこくけんぽう」の誕生に関わり、とりわけ「戦争の放棄」を謳った第九条の成立に大きな役割を果たしたとされる 幣原喜重郎しではらきじゅうろう 
「霞ヶ関の主」と呼ばれた外交畑の巨人である。

世にいわれる「幣原外交」は国際協調、恒久平和、共存共栄、対支不干渉の四原則に貫かれ、終始一貫して変わることがなかった。しかし軍国主義が台頭し始めるや、この平和外交は一般の風潮と背離するようになり、軍部の圧力におもねる徒らな強硬論が巷に氾濫していった。そうした嵐の中にも幣原外相は厳として動かず、いささかも平和主義を曲げなかった。やがて幣原外交は軟弱の標本とされ、腰抜け外交の異名から、果ては国辱外交、売国外交とまで、ありとあらゆる罵詈雑言を浴びせられるに至った。だが、牙をむいて迫る軍部を前に、山のごとくたちふさがっていた。

しかし、昭和六年、満州事変が勃発するに及んで退陣のやむなきに至った。(中略)

千駄ヶ谷の幣原邸の塀には国賊、売国奴の落書きが書きなぐられ、道行く人が邸内へ投石した。「水底の没人」となった彼は、外には南京陥落、真珠湾攻撃、シンガポール占領と、勝った勝ったの街のどよめきを聞きながら、十四年間をじっと堪えていた。

<br>
大政翼賛会にも最後まで入らず、野に下った「国賊」幣原が、戦後一躍総理大臣に返り咲いたのは昭和天皇の命であった。<br>
昭和20年10月6日、幣原に組閣の大命が下り、幣原は拝辞したが、重ねての天皇からのお召しに「幣原は陛下の両眼に光るものを見た」と平野は記している。かくして、その後「平和憲法」を生むことになる幣原内閣が誕生した。” href=”https://www.benricho.org/kenpou/shidehara-9jyou.html?fbclid=IwAR3ClOSV5_2Dc_jh4BYYeay1vqyRTulq1-SEHoxfeXUsdC8PaB6Iwypi6GI#cite-text-0-0&#8243; name=”cite-ref-0-0″>[1]元首相が、亡くなる直前に戦争放棄条項などが生まれた事情などについて語っている。 聞き手は衆議院議員であり、幣原の秘書官であった平野三郎[2]で、聞き取りは、幣原が亡くなる10日ほど前の、1951年・昭和26年(今から68年前)[3]の2月下旬に行われたとされる。

幣原は、『口外無用』として平野に語ったとされるが、平野は、「昨今の憲法制定の経緯に関する論議の状況にかんがみてあえて公にすることにした」とし、『幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について』と題されたその文書は、1964年・昭和39年(今から55年前)の2月に憲法調査会[4]事務局によって印刷に付され調査会の参考資料として正式に採択された。

これが、いわゆる「平野文書」で、現在は国立国会図書館憲政資料室に保管されている。

平野は、この文書を書いた経緯を、自身の著書『平和憲法の水源 – 昭和天皇の決断』(1993年・平成5年刊)で次のように記している。

 憲法調査会の審議が大詰めを迎えたある日、(中略)高柳会長[5]から面会の申し込みがあった。(中略)
高柳会長は重大な決意を込めて言った。
「私はたまたま憲法の番人の役目を仰せつかった。私は番人に徹する積もりです。私は少なくとも第九条は未来永劫ふれるべきではないと思っている。自衛権は本来的にあるという意見があるが、未だかつて自ら侵略と称した戦争はなく、すべて自衛戦争ですから、一つ歯止めを外したら結局は元の木阿弥に戻ってしまう」
高柳会長の話は、さらに天皇とマッカーサーに及んだ。
「(中略)天皇は何度も元帥を訪問されている。(中略)天皇は提言された。むしろ懇請だったかもしれない。決して日本のためだけでない。世界のため、人類のために、戦争放棄という世界史の扉を開く大宣言を日本にやらせて欲しい。(中略)天皇のこの熱意が元帥を動かした。もちろん幣原首相を通じて口火を切ったのですが、源泉は天皇から出ています。(中略)天皇陛下という人は、何も知らないような顔をされているが、実に偉い人ですよ」
最後に高柳会長は、「ところで、あんた、幣原さんから聞いた話を一つ書いてくれませんか」と言われた。
これは困った。たしかに話は聞いてはいるが、ただ聞いたというだけで具体的な資料はなにもない。私はお断りした。
それに対し、博士は、
「いや、あなたが幣原さんの秘書だったことは確かな事実だ。秘書なら話を聞く機会があって当然である。だからあなたの話なら、根拠がない訳ではない。実は調査会もそろそろ結論を出さねばならない。問題は、米国製か、日本製かということだが、幸い日本製だというマッカーサーの証言がある。しかし、アメリカの話である。どうしても日本側の証拠が必要だが、それがないので困っている。ついてはぜひ、あんたお願いします」
というのであった。
そこで、『幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について』という報告書を私は提出した。

【平野三郎の憲法調査会への『報告書』による、幣原喜重郎元首相の主な言】
(括弧内は平野の質問の要旨)

(第九条は現在占領下の暫定的な規定ですか、何れ独立の暁には当然憲法の再改正をすることになる訳ですか)
一時的なものではなく、長い間僕が考えた末の最終的な結論というようなものだ。

(軍隊のない丸裸のところへ敵が攻めてきたら、どうする訳なのですか)
それは死中に活だよ。一口に言えばそういうことになる。

 次の戦争は短時間のうちに交戦国の大小都市が悉く灰燼に帰して終うことになるだろう。そうなれば世界は真剣に戦争をやめることを考えなければならない。そして戦争をやめるには武器を持たないことが一番の保証になる。

 相手はピストルをもっている。その前に裸のからだをさらそうと言う。何と言う馬鹿げたことだ。恐ろしいことだ。自分はどうかしたのではないか。若しこんなことを人前で言ったら、幣原は気が狂ったと言われるだろう。正に狂気の沙汰である。しかしそのひらめきは僕の頭の中でとまらなかった。どう考えてみても、これは誰かがやらなければならないことである。恐らくあのとき僕を決心させたものは僕の一生のさまざまな体験ではなかったかと思う。何のために戦争に反対し、何のために命を賭けて平和を守ろうとしてきたのか。今だ。今こそ平和だ。今こそ平和のために起つ秋[6]ではないか。そのために生きてきたのではなかったか。

 僕は平和の鍵を握っていたのだ。何か僕は天命をさずかったような気がしていた。非武装宣言ということは、従来の観念からすれば全く狂気の沙汰である。だが今では正気の沙汰とは何かということである。武装宣言が正気の沙汰か。それこそ狂気の沙汰だという結論は、考えに考え抜いた結果もう出ている。要するに世界は今一人の狂人を必要としているということである。何人かが自ら買って出て狂人とならない限り、世界は軍拡競争の蟻地獄から抜け出すことができないのである。これは素晴らしい狂人である。世界史の扉を開く狂人である。その歴史的使命を日本が果たすのだ。

(他日独立した場合、敵が口実をつけて侵略したら)
その場合でもこの精神を貫くべきだと僕は信じている。そうでなければ今までの戦争の歴史を繰り返すだけである。然も次の戦争は今までとは訳が違う。僕は第九条を堅持することが日本の安全のためにも必要だと思う。

(憲法は先生の独自の御判断で出来たものですか。一般に信じられているところは、マッカーサー元帥の命令の結果ということになっています)
そのことは此処だけの話にして置いて貰わねばならないが、〈中略〉憲法は押しつけられたという形をとった訳であるが、当時の実情としてそういう形でなかったら実際に出来ることではなかった。そこで僕はマッカーサーに進言し、命令として出して貰うように決心したのだが、これは実に重大なことであって、一歩誤れば首相自らが国体と祖国の命運を売り渡す国賊行為の汚名を覚悟しなければならぬ。〈中略〉幸い僕の風邪は肺炎ということで元帥からペニシリンというアメリカの新薬を貰いそれによって全快した。そのお礼ということで僕が元帥を訪問したのである。それは昭和二十一年の一月二十四日である。その日、僕は元帥と二人切りで長い時間話し込んだ。すべてはそこで決まった訳だ。

 世界の共通の敵は戦争それ自体である。

  • (ここまで敬称を省略しています)

  • ここまでの平野氏による文書の内容と以下の資料は、国立国会図書館憲政資料室所蔵の「憲法調査会資料(西沢哲四郎旧蔵[7])」より、「資料請求番号165」の『幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について - 平野三郎氏記』を、当サイトが国立国会図書館複写サービスを利用して入手し引用したものです。
    国立国会図書館憲政資料室が所蔵する平野三郎氏による文書 - 幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について
    国立国会図書館憲政資料室が保管する平野三郎氏による文書
  • 資料の引用にあたっては、縦書きの原文を横書きに変更しました。また、閲覧される方の視認性に鑑み、「問」と「答」の段落に原文にはない装飾を加え、さらに本文中に改行を加えるなどしています。また、登場する人物などについて原文にはない脚注を付けています。
  • 「第一部」の、平野氏による「前文」に当たる部分に『内拘』という言葉が見られます。『なお、当日の幣原先生のお話の内拘については、このメモにもあるように、』の部分で、これは『内容』の誤植ではないかと思われます(ご利用の方からご指摘をいただきました)が、「憲法調査会資料」の原文がそのようになっているため、『拘』の字に「ママ」とルビを振り、『内(ママ)』と表記して原文のままとしました。
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【 戦争放棄条項等の生まれた事情について・全文 】


昭和三十九年二月

幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について

ー平野三郎氏記―

憲法調査会事務局


はしがき

 この資料は、元衆議院議員平野三郎氏が、故幣原喜重郎氏から聴取した、戦争放棄条項等の生まれた事情を記したものを、当調査会事務局において印刷に付したものである。
なお、この資料は、第一部・第二部に分かれているが、第一部・第二部それぞれの性格については、平野氏の付されたまえがきを参照されたい。

昭和三十九年二月

憲法調査会事務局

 

第一部

私が幣原先生から憲法についてのお話を伺ったのは、昭和二十六年二月下旬である。同年三月十日、先生が急逝される旬日[8]ほど前のことであった。場所は世田谷区岡本町の幣原邸であり、時間は二時間ぐらいであった。
側近にあった私は、常に謦咳[9]にふれる機会はあったが、まとまったお話を承ったのは当日だけであり、当日は、私が戦争放棄条項や天皇の地位について日頃疑問に思っていた点を中心にお尋ねし、これについて幣原先生にお答え願ったのである。
その内容については、その後間もなくメモを作成したのであるが、以下は、そのメモのうち、これらの条項の生まれた事情に関する部分を整理したものである。
なお、当日の幣原先生のお話の内(ママ)[10]については、このメモにもあるように、幣原先生から口外しないようにいわれたのであるが、昨今の憲法制定の経緯に関する論議の状況にかんがみてあえて公にすることにしたのである。

問  かねがね先生にお尋ねしたいと思っていましたが、幸い今日はお閑のようですから是非うけたまわり度いと存じます。

実は憲法のことですが、私には第九条の意味がよく分りません。あれは現在占領下の暫定的な規定ですか、それなら了解できますが、そうすると何れ独立の暁には当然憲法の再改正をすることになる訳ですか。

答  いや、そうではない。あれは一時的なものではなく、長い間僕が考えた末の最終的な結論というようなものだ。

問  そうしますと一体どういうことになるのですか。軍隊のない丸裸のところへ敵が攻めてきたら、どうするという訳なのですか。

答  それは死中に活だよ。一口に言えばそういうことになる。

問  死中に活と言いますと … … …

答  たしかに今までの常識ではこれはおかしいことだ。しかし原子爆弾というものが出来た以上、世界の事情は根本的に変わって終ったと僕は思う。何故ならこの兵器は今後更に幾十倍幾百倍と発達するだろうからだ。恐らく次の戦争は短時間のうちに交戦国の大小都市が悉く灰燼に帰して終うことになるだろう。そうなれば世界は真剣に戦争をやめることを考えなければならない。そして戦争をやめるには武器を持たないことが一番の保証になる。

問  しかし日本だけがやめても仕様がないのではありませんか。

答  そうだ。世界中がやめなければ,ほんとうの平和は実現できない。しかし実際問題として世界中が武器を持たないという真空状態を考えることはできない。

それについては僕の考えを少し話さなければならないが、僕は世界は結局一つにならなければならないと思う。つまり世界政府だ。世界政府と言っても、凡ての国がその主権を捨てて一つの政府の傘下に集るようなことは空想だろう。だが何らかの形に於ける世界の連合方式というものが絶対に必要になる。何故なら、世界政府とまでは行かなくとも、少くも各国の交戦権を制限し得る集中した武力がなければ世界の平和は保たれないからである。凡そ人間と人間、国家と国家の間の紛争は最後は腕づくで解決する外はないのだから、どうしても武力は必要である。しかしその武力は一個に統一されなければならない。二個以上の武力が存在し、その間に争いが発生する場合、一応は平和的交渉が行われるが、交渉の背後に武力が控えている以上、結局は武力が行使されるか、少なくとも武力が威嚇手段として行使される。したがって勝利を得んがためには、武力を強化しなければならなくなり、かくて二個以上の武力間には無限の軍拡競争が展開され遂に武力衝突を引き起こす。すなわち戦争をなくするための基本的条件は武力の統一であって、例えば或る協定の下で軍縮が達成され、その協定を有効ならしむるために必要な国々か進んで且つ誠意をもってそれに参加している状態、この条件の下で各国の軍備が国内治安を保つに必要な警察力の程度にまで縮小され、国際的に管理された武力が存在し、それに反対して結束するかもしれない如何なる武力の組み合せよりも強力である、というような世界である。

そういう世界は歴史上存在している。ローマ帝国などもそうであったが、何より記録的な世界政府を作った者は日本である。徳川家康が開いた三百年の単一政府がそれである。この例は平和をを維持する唯一の手段が武力の統一であることを示している。

要するに世界平和を可能にする姿は、何らかの国際的機関がやがて世界同盟とでも言うべきものに発展し、その同盟が国際的に統一された武力を所有して世界警察としての行為を行う外はない。このことは理論的には昔から分かっていたことであるが、今まではやれなかった。しかし原子爆弾というものが出現した以上、いよいよこの理論を現実に移す秋[11]がきたと僕は信じた訳だ。

問  それは誠に結構な理想ですが、そのような大問題は大国同志が国際的に話し合って決めることで、日本のような敗戦国がそんな偉そうなことを言ってみたところでどうにもならぬのではないですか。

答  そこだよ、君。負けた国が負けたからそういうことを言うと人は言うだろう。君の言う通り、正にそうだ。しかし負けた日本だからこそ出来ることなのだ。

恐らく世界にはもう大戦争はあるまい。勿論、戦争の危険は今後むしろ増大すると思われるが、原子爆弾という異常に発達した武器が、戦争そのものを抑制するからである。第二次大戦が人類が全滅を避けて戦うことのできた最後の機会になると僕は思う。如何に各国がその権利の発展を理想として叫び合ったところで、第三次世界大戦が相互の破滅を意味するならば、いかなる理想主義も人類の生存には優先しないことを各国とも理解するからである。

したがって各国はそれぞれ世界同盟の中へ溶け込む外はないが、そこで問題はどのような方法と時間を通じて世界がその最後の理想に到達するかということにある。人類は有史以来最大の危機を通過する訳だが、その間どんなことが起るか、それはほとんど予想できない難しい問題だが、唯一つ断言できることは、その成否は一に軍縮にかかっているということだ。若しも有効な軍縮協定ができなければ戦争は必然に起るだろう。既に言った通り、軍拡競争というものは際限のない悪循環を繰り返すからだ。常に相手より少しでも優越した状態に己れを位置しない限り安心できない。この心理は果てしなく拡がって行き何時かは破綻が起る。すなわち協定なき世界は静かな戦争という状態であり、それは嵐の前の静けさでしかなく、その静けさがどれだけ持ちこたえるかは結局時間の問題に過ぎないと言う恐るべき不安状態の連続になるのである。

そこで軍縮は可能か、どのようにして軍縮をするかということだが、僕は軍縮の困難さを身をもって体験してきた。世の中に軍縮ほど難しいものはない。交渉に当たる者に与えられる任務は如何にして相手を偽瞞するかにある。国家というものは極端なエゴイストであって、そのエゴイズムが最も狡猾で悪らつな狐狸となることを交渉者に要求する。虚々実々千変万化、軍縮会議に展開される交渉の舞台裏を覗きみるなら、何人も戦慄を禁じ得ないだろう。軍縮交渉とは形を変えた戦争である。平和の名をもってする別個の戦争であって、円滑な合意に達する可能性などは初めからないものなのだ。

原子爆弾が登場した以上、次の戦争が何を意味するか、各国とも分るから、軍縮交渉は行われるだろう。だが交渉の行われている合間にも各国はその兵器の増強に狂奔するだろう。むしろ軍縮交渉は合法的スパイ活動の場面として利用される程である。不信と猜疑がなくならない限り、それは止むを得ないことであって、連鎖反応は連鎖反応を生み、原子爆弾は世界中に拡がり、終りには大変なことになり、遂には身動きもできないような瀬戸際に追いつめられるだろう。

そのような瀬戸際に追いつめれても各国はなお異口同音に言うだろう。軍拡競争は一刻も早く止めなければならぬ。それは分っている。分ってはいるがどうしたらいいのだ。自衛のためには力が必要だ。相手がやることは自分もやらねばならぬ。相手が持つものは自分も持たねばならぬ。その結果がどうなるか。そんなことは分らない。自分だけではない。誰にも分らないことである。とにかく自分は自分の言うべきことを言っているより仕方はないのだ。責任は自分にはない。どんなことが起ろうと、責任は凡て相手方にあるのだ。

果てしない堂々巡りである。誰にも手のつけられないどうしようもないことである。集団自殺の先陣争いと知りつつも、一歩でも前へ出ずにはいられない鼠の大群と似た光景 ― それが軍拡競争の果ての姿であろう。

要するに軍縮は不可能である。絶望とはこのことであろう。唯もし軍縮を可能にする方法があるとすれば一つだけ道がある。それは世界が一せいに一切の軍備を廃止することである。

一、二、三の掛声もろとも凡ての国が兵器を海に投ずるならば、忽ち軍縮は完成するだろう。勿論不可能である。それが不可能なら不可能なのだ。

ここまで考えを進めてきた時に、第九条というものが思い浮かんだのである。そうだ。もし誰かが自発的に武器を捨てるとしたら ー

最初それは脳裏をかすめたひらめきのようなものだった。次の瞬間、直ぐ僕は思い直した。自分は何を考えようとしているのだ。相手はピストルをもっている。その前に裸のからだをさらそうと言う。何と言う馬鹿げたことだ。恐ろしいことだ。自分はどうかしたのではないか。若しこんなことを人前で言ったら、幣原は気が狂ったと言われるだろう。正に狂気の沙汰である。

しかしそのひらめきは僕の頭の中でとまらなかった。どう考えてみても、これは誰かがやらなければならないことである。恐らくあのとき僕を決心させたものは僕の一生のさまざまな体験ではなかったかと思う。何のために戦争に反対し、何のために命を賭けて平和を守ろうとしてきたのか。今だ。今こそ平和だ。今こそ平和のために起つ秋ではないか。そのために生きてきたのではなかったか。そして僕は平和の鍵を握っていたのだ。何か僕は天命をさずかったような気がしていた。

非武装宣言ということは、従来の観念からすれば全く狂気の沙汰である。だが今では正気の沙汰とは何かということである。武装宣言が正気の沙汰か。それこそ狂気の沙汰だという結論は、考えに考え抜いた結果もう出ている。

要するに世界は今一人の狂人を必要としているということである。何人かが自ら買って出て狂人とならない限り、世界は軍拡競争の蟻地獄から抜け出すことができないのである。これは素晴らしい狂人である。世界史の扉を開く狂人である。その歴史的使命を日本が果たすのだ。

日本民族は幾世紀もの間戦争に勝ち続け、最も戦斗的に戦いを追求する神の民族と信じてきた。神の信条は武力である。その神は今や一挙に下界に墜落した訳だが、僕は第九条によって日本民族は依然として神の民族だと思う。何故なら武力は神でなくなったからである。神でないばかりか、原子爆弾という武力は悪魔である。日本人はその悪魔を投げ捨てることに依て再び神の民族になるのだ。すなわち日本はこの神の声を世界に宣言するのだ。それが歴史の大道である。悠々とこの大道を行けばよい。死中に活というのはその意味である。

問  お話の通りやがて世界はそうなると思いますが、それは遠い将来のことでしょう。しかしその日が来るまではどうする訳ですか。目下の処は差当り問題ないとしても、他日独立した場合、敵が口実を設けて侵略してきたらです。

答  その場合でもこの精神を貫くべきだと僕は信じている。そうでなければ今までの戦争の歴史を繰り返すだけである。然も次の戦争は今までとは訳が違う。

僕は第九条を堅持することが日本の安全のためにも必要だと思う。勿論軍隊を持たないと言っても警察は別である。警察のない社会は考えられない。殊に世界の一員として将来世界警察への分担負担は当然負わなければならない。しかし強大な武力と対抗する陸海空軍というものは有害無益だ。僕は我国の自衛は徹頭徹尾正義の力でなければならないと思う。その正義とは日本だけの主観的な独断ではなく、世界の公平な与論に依って裏付けされたものでなければならない。そうした与論が国際的に形成されるように必ずなるだろう。何故なら世界の秩序を維持する必要があるからである。若し或る国が日本を侵略しようとする。そのことが世界の秩序を破壊する恐れがあるとすれば、それに依て脅威を受ける第三国は黙ってはいない。その第三国との特定の保護条約の有無にかかわらず、その第三国は当然日本の安全のために必要な努力をするだろう。要するにこれからは世界的視野に立った外交の力に依て我国の安全を護るべきで、だからこそ死中に活があるという訳だ。

問  よく分りました。そうしますと憲法は先生の独自の御判断で出来たものですか。一般に信じられているところは、マッカーサー元帥[12]の命令の結果ということになっています。尤も草案は勧告という形で日本に提示された訳ですが、あの勧告に従わなければ天皇の身体も保証できないという恫喝があったのですから事実上命令に外ならなかったと思いますが。

答  そのことは此処だけの話にして置いて貰わねばならないが、実はあの年(昭和二十年)の暮から正月にかけ僕は風邪をひいて寝込んだ。僕が決心をしたのはその時である。それに僕には天皇制を維持するという重大な使命があった。元来、第九条のようなことを日本側から言いだすようなことは出来るものではない。まして天皇の問題に至っては尚更である。この二つに密接にからみ合っていた。実に重大な段階にあった。

幸いマッカーサーは天皇制を存続する気持を持っていた。本国からもその線の命令があり、アメリカの肚は決っていた。ところがアメリカにとって厄介な問題が起った。それは濠州やニュージーランドなどが、天皇の問題に関してはソ連に同調する気配を示したことである。これらの国々は日本を極度に恐れていた。日本が再軍備をしたら大変である。戦争中の日本軍の行動は余りに彼らの心胆を寒からしめたから無理もないことであった。殊に彼らに与えていた印象は、天皇と戦争の不可分とも言うべき関係であった。日本人は天皇のためなら平気で死んで行く。恐るべきは「皇軍」である。という訳で、これらの国々はソ連への同調によって、対日理事会の票決ではアメリカは孤立化する恐れがあった。

この情勢の中で、天皇の人間化と戦争放棄を同時に提案することを僕は考えた訳である。

豪州その他の国々は日本の再軍備を恐れるのであって、天皇制そのものを問題にしている訳ではない。故に戦争が放棄された上で、単に名目的に天皇が存続するだけなら、戦争の権化としての天皇は消滅するから、彼らの対象とする天皇制は廃止されたと同然である。もともとアメリカ側である濠州その他の諸国は、この案ならばアメリカと歩調を揃え、逆にソ連を孤立させることが出来る。

この構想は天皇制を存続すると共に第九条を実現する言わば一石二鳥の名案である。尤も天皇制存続と言ってもシムボルということになった訳だが、僕はもともと天皇はそうあるべきものと思っていた。元来天皇は権力の座になかったのであり、又なかったからこそ続いてきたのだ。もし天皇が権力を持ったら、何かの失政があった場合、当然責任問題が起って倒れる。世襲制度である以上、常に偉人ばかりとは限らない。日の丸は日本の象徴であるが、天皇は日の丸の旗を護持する神主のようなものであって、むしろそれが天皇本来の昔に還ったものであり、その方が天皇のためにも日本のためにもよいと僕は思う。

この考えは僕だけではなかったが、国体に触れることだから、仮にも日本側からこんなことを口にすることは出来なかった。憲法は押しつけられたという形をとった訳であるが、当時の実情としてそういう形でなかったら実際に出来ることではなかった。

そこで僕はマッカーサーに進言し、命令として出して貰うように決心したのだが、これは実に重大なことであって、一歩誤れば首相自らが国体と祖国の命運を売り渡す国賊行為の汚名を覚悟しなければならぬ。松本君[13]にさえも打明けることの出来ないことである。したがって誰にも気づかれないようにマッカーサーに会わねばならぬ。幸い僕の風邪は肺炎ということで元帥からペニシリンというアメリカの新薬を貰いそれによって全快した。そのお礼ということで僕が元帥を訪問したのである。それは昭和二十一年の一月二十四日である。その日、僕は元帥と二人切りで長い時間話し込んだ。すべてはそこで決まった訳だ。

問  元帥は簡単に承知されたのですか。

答  マッカーサーは非常に困った立場にいたが、僕の案は元帥の立場を打開するものだから、渡りに舟というか、話はうまく行った訳だ。しかし第九条の永久的な規定ということには彼も驚ろいていたようであった。僕としても軍人である彼が直ぐには賛成しまいと思ったので、その意味のことを初めに言ったが、賢明な元帥は最後には非常に理解して感激した面持ちで僕に握手した程であった。

元帥が躊躇した大きな理由は、アメリカの戦略に対する将来の考慮と、共産主義者に対する影響の二点であった。それについて僕は言った。

日米親善は必ずしも軍事一体化ではない。日本がアメリカの尖兵となることが果たしてアメリカのためであろうか。原子爆弾はやがて他国にも波及するだろう。次の戦争は想像に絶する。世界は亡びるかも知れない。世界が亡びればアメリカも亡びる。問題は今やアメリカでもロシアでも日本でもない。問題は世界である。いかにして世界の運命を切り拓くかである。日本がアメリカと全く同じものになったら誰が世界の運命を切り拓くか。

好むと好まざるにかかわらず、世界は一つの世界に向って進む外はない。来るべき戦争の終着駅は破滅的悲劇でしかないからである。その悲劇を救う唯一の手段は軍縮であるが、ほとんど不可能とも言うべき軍縮を可能にする突破口は自発的戦争放棄国の出現を期待する以外ないであろう。同時にそのような戦争放棄国の出現も亦ほとんど空想に近いが、幸か不幸か、日本は今その役割を果たし得る位置にある。歴史の偶然はたまたま日本に世界史的任務を受け持つ機会を与えたのである。貴下さえ賛成するなら、現段階に於ける日本の戦争放棄は、対外的にも対内的にも承認される可能性がある。歴史のこの偶然を今こそ利用する秋である。そして日本をして自主的に行動させることが世界を救い、したがってアメリカをも救う唯一つの道ではないか。

また日本の戦争放棄が共産主義者に有利な口実を与えるという危険は実際あり得る。しかしより大きな危険から遠ざかる方が大切であろう。世界はここ当分資本主義と共産主義の宿敵の対決を続けるだろうが、イデオロギーは絶対的に不動のものではない。それを不動のものと考えることが世界を混乱させるのである。未来を約束するものは、絶えず新しい思想に向って創造発展して行く道だけである。共産主義者は今のところはまだマルクスとレーニンの主義を絶対的真理であるかの如く考えているが、そのような論理や予言はやがて歴史の彼方に埋没して終うだろう。現にアメリカの資本主義が共産主義者の理論的攻撃にもかかわらずいささかの動揺も示さないのは、資本主義がそうした理論に先行して自らを創造発展せしめたからである。それと同様に共産主義のイデオロギーも何れ全く変貌して終うだろう。何れにせよ、ほんとうの敵はロシアでも共産主義でもない。このことはやがてロシア人も気づくだろう。彼らの敵もアメリカでもなく資本主義でもないのである。世界の共通の敵は戦争それ自体である。

問  天皇陛下は憲法についてどう考えておかれるのですか。

答  僕は天皇陛下は実に偉い人だと今もしみじみと思っている。マッカーサーの草案を持って天皇の御意見を伺いに行った時、実は陛下に反対されたらどうしようかと内心不安でならなかった。僕は元帥と会うときは何時も二人切りだったが、陛下のときは吉田君[14]にも立ち会って貰った。しかし心配は無用だった。陛下は言下に、徹底した改革案を作れ、その結果天皇がどうなってもかまわぬ、と言われた。この英断で閣議も納まった。終戦の御前会議のときも陛下の御裁断で日本は救われたと言えるが、憲法も陛下の一言が決したと言ってもよいだろう。若しあのとき天皇が権力に固執されたらどうなっていたか。恐らく今日天皇はなかったであろう。日本人の常識として天皇が戦争犯罪人になるというようなことは考えられないであろうが、実際はそんな甘いものではなかった。当初の戦犯リストには冒頭に天皇の名があったのである。それを外してくれたのは元帥であった。だが元帥の草案に天皇が反対されたなら、情勢は一変していたに違いない。天皇は己れを捨てて国民を救おうとされたのであったが、それに依て天皇制をも救われたのである。天皇は誠に英明であった。

正直に言って憲法は天皇と元帥の聡明と勇断によって出来たと言ってよい。たとえ象徴とは言え,天皇と元帥が一致しなかったら天皇制は存続しなかったろう。危機一髪であったと言えるが、結果に於いて僕は満足し喜んでいる。

なお念のためだが、君も知っている通り、去年金森君[15]からきかれた時も僕が断ったように、このいきさつは僕の胸の中だけに留めておかねばならないことだから、その積りでいてくれ給え。

 第二部(省略)

「第二部」は、幣原氏がなぜ非武装平和主義という考えに到達したかなど、平野氏の記憶に残る幣原氏の世界観をまとめた一文で、平野氏は「まえがき」に次のように記している。

 私が幣原先生にお会いして憲法について伺ったお話の内容は、前記のように、メモにとどめておいたのであるが、当日のお話の中には、先生が、なぜ非武装平和主義といった、誰しも思い及ばないような考えに到達されるにいたったかということについての、先生の世界観というようなものも、多分に出ていたのである。以下は、このような先生のお考えがよくわかるよう、先生の世界観で記憶に残るものをも加えて、当日伺った戦争放棄条項の生まれた事情を一文にまとめたものである。
 底本:『憲法調査会資料(西沢哲四郎旧蔵)』(国立国会図書館憲政資料室)より、「憲法調査会事務局作成・幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について -平野三郎氏記-」(1964年・昭和39年2月)

《平野三郎氏による、平和憲法成立のいきさつなどを記した著書》

『平和憲法秘話 ― 幣原喜重郎その人と思想』 講談社 1972年(昭和47年)4月
『平和憲法の水源 ― 昭和天皇の決断』 講談社出版サービスセンター 1993年(平成5年)7月


平野氏は、『平和憲法秘話 ― 幣原喜重郎その人と思想』の「まえがき」と「あとがき」に次のように記している。

《『平和憲法秘話 ― 幣原喜重郎その人と思想』「まえがき」より抜粋》

この日本の宝は、決して外国から貰ったものではなく、幣原喜重郎というれっきとした日本人の手に成ったものである。
本書はこの事実を明確にし、この点の論争に終止符を打つべく書かれるものである。
私はこの憲法を産み出した幣原喜重郎その人の生涯と思想を紹介し、世の多くの人々の理解と共鳴を得たい。
そしてこの偉大な平和憲法が、うっそうたる大樹の如く永く日本の大地の上に繁茂すると同時に、やがて全世界に向かってこの精神が及び、人類永遠の平和の基礎となることを念願するものである。

《『平和憲法秘話 ― 幣原喜重郎その人と思想』「あとがき」より抜粋》

終わりに、枢密院顧問会議の情景を記して置こう。
それは枢密院そのものを廃止する最後の沈痛な会議でもあったが、そこで幣原首相が、政府の憲法改正案を説明した時である。
以下の説明中、第九条の段になるや、声涙ともに下る調子になり、首相の老いた両眼から、大つぶの涙の玉が落ちて頬をつたわるのを、並み居る顧問官たちが認め、一同顔を見合わせたという。

この涙こそ、憲法の真実が何であったかを語る、もっとも雄弁な証拠ではあるまいか。そしてこの涙の光と共に、日本国憲法という政治的傑作が、永久に光り輝く、と私は確信する。

 以下は、幣原首相の説明文である。

戦争放棄は正義に基づく大道でありまして、日本はこの大旗をかかげて国際社会の原野を独り進まんとするのであります。原子爆弾の発明は、世の主戦論者に反省を促しましたが、今後は更に幾十倍幾百倍する破壊力ある武器も出現を見るでありましょう。今日のところ世界はなお旧態依然たる武力政策を踏襲しておりますが、他日新たなる兵器の威力により、短時間のうちに交戦国の大小都市が悉く灰燼に帰するを見るに至りますれば、その秋こそ、諸国は初めて目覚め、戦争の放棄を真剣に考えるでありましょう。その頃は私は既に命数を終わって墓場の中に眠っているでありましょうが、その時、私はその墓石の陰から後をふり顧って、諸国がこの大道につき従ってくる姿を眺めて喜びとしたいと思うのであります。

 


 《脚注》


    1. ^幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)1872年(明治5年) – 1951年(昭和26年)
      1924年(大正13年)の加藤高明内閣で外務大臣に就任し、4度の外務大臣を歴任。第44代の内閣総理大臣(1945年・昭和20年10月9日 – 1946年・昭和21年5月22日)として新憲法の草案作りに関わり、制定時には、吉田茂内閣の国務大臣として憲法公布文に副署している。
      秘書官であった平野三郎の著書『平和憲法の水源』によれば、
      幣原は ー

      「霞ヶ関の主」と呼ばれた外交畑の巨人である。
      世にいわれる「幣原外交」は国際協調、恒久平和、共存共栄、対支不干渉の四原則に貫かれ、終始一貫して変わることがなかった。しかし軍国主義が台頭し始めるや、この平和外交は一般の風潮と背離するようになり、軍部の圧力におもねる徒らな強硬論が巷に氾濫していった。そうした嵐の中にも幣原外相は厳として動かず、いささかも平和主義を曲げなかった。やがて幣原外交は軟弱の標本とされ、腰抜け外交の異名から、果ては国辱外交、売国外交とまで、ありとあらゆる罵詈雑言を浴びせられるに至った。だが、牙をむいて迫る軍部を前に、山のごとくたちふさがっていた。
      しかし、昭和六年、満州事変が勃発するに及んで退陣のやむなきに至った。(中略)
      千駄ヶ谷の幣原邸の塀には国賊、売国奴の落書きが書きなぐられ、道行く人が邸内へ投石した。「水底の没人」となった彼は、外には南京陥落、真珠湾攻撃、シンガポール占領と、勝った勝ったの街のどよめきを聞きながら、十四年間をじっと堪えていた。


      大政翼賛会にも最後まで入らず、野に下った「国賊」幣原が、戦後一躍総理大臣に返り咲いたのは昭和天皇の命であった。
      昭和20年10月6日、幣原に組閣の大命が下り、幣原は拝辞したが、重ねての天皇からのお召しに「幣原は陛下の両眼に光るものを見た」と平野は記している。かくして、その後「平和憲法」を生むことになる幣原内閣が誕生した。

    2. ^平野三郎(ひらのさぶろう)1912年(明治45年) – 1994年(平成6年)
      1949年(昭和24年)から5期連続衆議院議員を努め、1966年(昭和41年)から岐阜県知事を3期歴任。衆議院議長であった幣原喜重郎元首相の秘書官も努めた幣原の側近である。1964年(昭和39年)2月に、幣原から聞き取ったメモを元にした『幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について』と題する報告書、いわゆる『平野文書』を憲法調査会に提出している。
    3. ^平野氏が幣原元首相への聞き取りを行い、また、幣原元首相が亡くなった1951年(昭和26年)は、「サンフランシスコ講和条約」が締結された年で、9月8日に署名され、翌年の1952年(昭和27年)4月28日に発効した。この条約によって、国際法上は、連合国諸国と日本の「戦争状態」が終結し、連合国は日本国の主権を承認した。
    4. ^内閣の憲法調査会
      憲法調査会法の規定に基づき1956年(昭和31年)6月11日に内閣に設置された委員会的機関である。構成は委員総数50人以内(うち国会議員30人以内、学識経験者20人以内)で、委員間の互選により会長1人、副会長2人が選出された。他に必要に応じ専門委員を増置するほか、常設の事務局が庶務を処理した。1964年(昭和39年)7月3日に内閣と国会へ「憲法調査会報告書」を提出し実質的な活動を終え、1965年(昭和40年)6月3日に廃止された。(出典:Wikipedia)
    5. ^高柳賢三(たかやなぎけんぞう)1887年(明治20年)- 1967年(昭和42年)
      大正・昭和期の代表的英米法学者として知られ、東京裁判での日本側弁護団の一人。内閣に設置された憲法調査会会長も務めた。新憲法擁護の基本線を踏まえながら自衛権などで政府見解と憲法を如何に擦り合わせるかに力を振るった。(出典:Wikipedia)
    6. ^秋(とき)
      「時」と同義で、『危急存亡の秋』などのように、重要な時期、大切な時機などを表す場合に「秋」とも書かれる。
    7. ^「西沢哲四郎旧蔵」資料
      1964年(昭和39年)7月の憲法調査会最終報告書提出の時期をはさんで調査会事務局長を務めた西沢哲四郎氏が所蔵していた同会関係の資料で、1986年(昭和61年)に国立国会図書館に寄贈された。
    8. ^旬日(じゅんじつ)
      10日、10日間のこと。従って、平野氏が幣原氏に話を聞いたのは、「急逝される旬日ほど前」と記されており、幣原氏が亡くなる10日ほど前のことであった。
    9. ^謦咳(けいがい)
      「咳払い」の意で、「謦咳にふれる」は「尊敬する人の話を身近に聞くこと」。
    10. ^内拘
      『内拘』は、文脈からして『内容』ではないかと思われるが、「憲法調査会資料」の原文がそのようになっているため、『拘』の字に「ママ」とルビを振りそのまま表記した。
    11. ^秋(とき)
      「時」と同義で、『危急存亡の秋』などのように、重要な時期、大切な時機などを表す場合に「秋」とも書かれる。
    12. ^ダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur)1880年(明治13年) – 1964年(昭和39年)
      アメリカの軍人で陸軍元帥。第二次世界大戦後に日本を占領した連合国軍の最高司令官。
    13. ^松本烝治(まつもとじょうじ)1877年(明治10年) – 1954年(昭和29年)
      幣原内閣の憲法担当国務大臣で、憲法問題調査委員会委員長。1946年(昭和21年)2月8日にGHQに提出した「憲法改正要綱」作成の中心となった。
    14. ^吉田茂(よしだしげる)1878年(明治11年) – 1967年(昭和42年)
      幣原内閣で外務大臣を務め、新憲法公布・施行時は内閣総理大臣。第45代、第48代〜第51代と総理大臣を歴任した。
    15. ^金森徳次郎(かなもりとくじろう)1886年(明治19年) – 1959年(昭和34年)
      第1次吉田内閣で憲法問題専任の国務大臣として新憲法の制定につくし、憲法公布とともに「新憲法普及会」の副会長を努めた。国立国会図書館初代館長。

 

  日本国憲法(にほんこくけんぽう)
*この項目では、昭和22(1947)年に施行された「日本国憲法」をベースにしており、今後、憲法の改定があった場合も基本的には更新されません。
ーーーーー
「mirokuほかのMLへ投稿:投稿はmirokuでのもの」
米国押し付け説・自衛権説など根拠なし
(幣原原案・戦争は皆「自衛」主張だから
理由にならず、戦争放棄保証は戦力放棄:
自衛権による戦争も戦力も持たないのが
憲法九条の立場):
ーーーーー
(それに対する反応・応答】:

大塚さんへ

小林です

3年ほど前、大塚さんにこの幣原証言などついてメールしました。

その際に、僕が付け加えた内容が朝鮮戦争前後の日本と世界の変化です。

国内では警察予備隊から保安隊そして自衛隊の誕生そして日米安保が成立していきます。戦犯が釈放され、いわゆる逆コースとよばれる現象が生じます。

背景には、米ソの対立が深まっっていく世界情勢があります。核兵器もアメリカに続きソ連・イギリス・フランス・中国などが保有し拡散してゆきます。

象徴天皇制・9条の平和主義それに日米安保が加わり、いわゆる三位一体的戦後の日本の構造ができていきます。

もし、この幣原証言を重視するならば、日米安保は改め、対米依存しない自主外交を展開してゆく必要がありませんか。そして幣原証言にある平和主義の旗を、令和の日本は高く掲げるということになると思います。

74年前の原点、幣原証言の戦争放棄・絶対平和を日本が世界によびかけてゆく姿勢に戻るということになりませんか。

大塚さんのやられている平和省をつくるという運動もこの方向であったと思います。

 

ーーーーー

小林さん、みなさん

早速のコメントを有難うございました。

以下のコメントを付してブログ、FB, 

Twなどに(拡散希望)で投稿しました。

(拡散希望)幣原原案の憲法九条の原意は政争放棄・戦力不保持:金・物・力の奴隷・亡者の血迷いから見れば命・心・和の主人・聖者の安住者は狂人に見えようとも世界終末の戦争は狂気・無能であるから、戦争放棄し、全て「自衛」の故に戦争するから、それを真に止めるのは戦力不保持のみが道(「平和への道はない:平和が道である。」・米国押し付け憲法説も、集団的自衛も自衛も、また世界第四位の軍事力の自衛隊を憲法に追記するのも憲法の原意にも一切衆生の願い・歴史の方向にも違反する‼):https://heiwasekai.wordpress.com/…/%E5%B9%A3%E5%8E%9F…/

幣原原案の意図は非常に明確ですね:

戦争放棄・戦力不保持の九条一・二項

はそれを明確に述べている。狂人とは

我見・我利・我慢の俗世の人間から見

ればの話で、命・心・和に安住する者

から見れば俗世凡人こそ狂人であり、

超俗賢者・聖人からは原爆・世界破滅

の危機が無くても至極当然の事ですね

(諸宗教の開祖・改革者は皆そうした)。

金・物・力の我利我利亡者・宿業機械

の異生(罪:分離病患)・凡人(大衆)

の不安(定)・恐怖心をどうしたら安心・

安住させることが出来るかが小林さんが

心配していた世界の不安(定)を解決す

る課題になりますね。

ーーーーー

琴 天音です。

私は、幣原証言については知りませんでしたので、

貴重な情報でした。

ありがとうございます。

 

今回のことはまた、平野三郎が天皇にどうやら強く親密感や尊敬の念を持っていた人のようですから、

平野文書は護憲のための重要な資料ではあるものの、一方では護憲派の中の天皇制・昭和天皇批判の立場の人にとっては、

それにアンチの人の残した文書ということで複雑なものがあるかもしれない、、、みたいなことも思いますがどうでしょ?

 

他にも思いもかけない人が、天皇に対して尊敬の念を抱いています。

何十年も前のことですが、私の姉がアメリカの大学で

経済を勉強していたときのことです。

姉に経済を教えていた先生の奥様は歴史学者でした。

その彼女が昭和天皇のことを「立派な人だ、尊敬している」

といったので、

姉は目の玉が飛び出るほど驚いたというのです。

 

奥様の父親はユダヤ人で収容所経験者でした。

その後ウィーンで外交官となり、

さらには国連の人権(human rights)部門で働くようになったとのこと。

まさかユダヤ系アメリカ人からそんな言葉を聞くとは思わなかったと、姉はいっていました。

 

私自身は、これからの天皇制についてはっきりした意見を持っていません。

 

天皇とは直接関係ありませんが、

やはりアメリカの大学で学んだ三男。

歴史専門でなくとも、アメリカの大学で学ぶものに

歴史の授業は必須です。

(それに対し、日本の大学はどうなのでしょうか?)

 

そのときに「日本の真珠湾攻撃はアメリカの戦略勝ち」

と教えているというのです。

そうせざるを得ないように仕組んだアメリカの戦略に

乗せられた日本。

 

日本が戦争の泥沼にはまっていったのは、

アメリカのせいにしようとは思いません。

けれど、

そのときからアメリカの見えない糸に操られた日本の姿があるような気がします。

 

それに関連して、軍事問題に対して私自身非常に迷う、分からないことがあります。多分、日本人の多くが言葉にできないけれど、感覚的にそれを感じているのではないでしょうか?

伝わりやすい言葉でまとめられないので、また次回に。

ーーーーー

魯参さん、小林さん、池田さん、みなさん

魯参さんが幣原証言と題して、憲法記念日に投稿して

くださったので、わたしも改めて精読しました。

迂闊にもわたしは3年前に小林さんが教えてくれるまでは、

幣原喜重郎氏から聴取した、このような平野三郎氏の文章

の存在を知りませんでした。

そして、最初に読んだ時は本当に感激しました。

特に以下の箇所でした。

ここまで考えを進めてきた時に、第九条というものが思い浮かんだのである。そうだ。もし誰かが自発的に武器を捨てるとしたら ー最初それは脳裏をかすめたひらめきのようなものだった。次の瞬間、直ぐ僕は思い直した。自分は何を考えようとしているのだ。相手はピストルをもっている。その前に裸のからだをさらそうと言う。何と言う馬鹿げたことだ。恐ろしいことだ。自分はどうかしたのではないか。若しこんなことを人前で言ったら、幣原は気が狂ったと言われるだろう。正に狂気の沙汰である。しかしそのひらめきは僕の頭の中でとまらなかった。どう考えてみても、これは誰かがやらなければならないことである。恐らくあのとき僕を決心させたものは僕の一生のさまざまな体験ではなかったかと思う。何のために戦争に反対し、何のために命を賭けて平和を守ろうとしてきたのか。今だ。今こそ平和だ。今こそ平和のために起つ秋ではないか。そのために生きてきたのではなかったか。そして僕は平和の鍵を握っていたのだ。何か僕は天命をさずかったような気がしていた。非武装宣言ということは、従来の観念からすれば全く狂気の沙汰である。だが今では正気の沙汰とは何かということである。武装宣言が正気の沙汰か。それこそ狂気の沙汰だという結論は、考えに考え抜いた結果もう出ている。要するに世界は今一人の狂人を必要としているということである。何人かが自ら買って出て狂人とならない限り、世界は軍拡競争の蟻地獄から抜け出すことができないのである。これは素晴らしい狂人である。世界史の扉を開く狂人である。その歴史的使命を日本が果たすのだ。

何度読んでもこれが作り話とは思えません。

幣原喜重郎が自ら執筆した本があります。

昭和26年に書かれた「外交五十年」という本です。

2015年に中央公論新社から電子出版されたのでそれを読みました。

その中で、終戦の玉音放送を聞いた後のところからの文章を

以下に紹介します。

image8.png

ーーーーー

魯参さま

 こんばんは。増田です。

 どうしようかと迷ったのですが…かなりの長文が必要になりそうですし、なによりも、9条「護憲」派にとっては

「9条発案者は日本人の幣原だった。マッカーサー=GHQに押し付けられたのではない」となるのは都合がいいです

し…と。

でも、やはり、「都合がいいか」「都合が悪いか」で歴史の事実=ファクトを偽造し、フェイク=ウソを拡散してはならない、と考

えますので、返信します。

 以下の理由で、私は「幣原、9条発案」説は幣原&マッカーサーが示し合わせた…というか、占領軍トップと被占領

者では力関係が全く違いますから、マッカーサーの指示(指令)に基づくフェイク情報だと断言していいと考えています。

(添付も同じ)

1、①「9条発案」の発想理由、②発想時期について、最初に書いたことと平野に語ったこととの相違!

①  発想理由について、

195095日~1114日まで61回にわたって、幣原が読売新聞に連載した回顧録『外交50年』(19514月 読売新

聞社刊、のち中公文庫 1986年)の記事になったものには「なぜ、『軍備全廃』を思いついたか」について、幣原は

次のように書いています。

(1945)815日に電車の中で『三十代ぐらいの元気な男』が『おれたちは知らん間に戦争に引き入れられて、知らん間

に降参する。怪しからんのはわれわれを騙し討ちにした当局の連中だ』」と言っていたのを「総理の職に就いたとき」つまり、1945

109日、「すぐに私の頭に浮かんだのは、あの電車の中の光景であった。これは何とかしてあの野に叫ぶ国民の意思

を実現すべく努めなくちゃいかん、と固く決心したのであった。」「それで…憲法の中に未来永劫そのような戦争をしな

いようにし…つまり、戦争を放棄して軍備を全廃して」…

 しかし、この1951年の228日に…310日に幣原が死ぬ「10日前」と平野が書いているので…幣原が平野に語った「

発想理由」は「原子爆弾」のみで、あの「聞け野人の声」の「『三十代ぐらいの元気な男』については一語もないのです…

そして、5011月に書いた記事には「「原子爆弾」については全く言及がありません。

 これは変です。奇妙です。「『原子爆弾』を考えれば軍備は無意味」と思ってたのなら、どうして195011月の読売新

聞に、そう書かなかったんでしょうか? 

 だいたい、「何のために戦争に反対し、何のために命を賭けて平和を守ろうとしてきたのか。」と幣原は言ってますが、

幣原が「戦争に反対し」「命を賭けて平和を守ろうとしてきた」っていう事実はありません。

確かに、「英米協調外交」で軍の派遣に反対したこともあったので、軍部には憎まれ、右翼に命を狙われたこともあっ

たことは事実ですが、幣原自身、帝国日本の国益に反すると思えば積極的に砲艦外交やっきたのです。真っ向から「

戦争に反対し」「命を賭けて平和を守ろうとしてきた」なんて事実はないので、これも真っ赤なウソです…

 一例をあげますと、19252月、上海において、在華紡で4万人余りのストライキが起き、4月に青島でも在華紡績の大ストライキ

が起こったとき、5月、幣原=日本政府は軍艦を青島に送り、陸戦隊上陸の準備をした上で、中国側に…この時は張作霖軍閥…

これを抑えなければ「我方において適当の措置を執ることあるべきも、その結果に対する責任は全然支那側にあるべき」と

「武力による威嚇」を行ってまいす。

そして、この幣原の砲艦外交によって、張作霖軍閥はストライキ労働者にすさまじい弾圧を行い、射殺6人、重軽傷多数を出

しました。

続いて上海で530事件が起こると…これはイギリスが弾圧したので、中国民衆はイギリスに対して憎しみが一番大きく向

かったんですが、幣原外相の「対支不干渉」外交と言いながら、一番たくさん軍艦を派遣したのは日本(18)…米17、英12、仏5

だったわけで…(以上『岩波講座 日本歴史20 現代(3)1963年 江口圭一・小野信爾「日本帝国主義と中国革命」

②  発想時期について
幣原は「そのことは此処だけの話にして置いて貰わねばならないが、実はあの年(昭和二十年)の暮から正月にかけ僕は風邪

をひいて寝込んだ。僕が決心をしたのはその時である。」と平野に語っています。いわゆる「人間宣言」…実際には「人間宣言、

してない宣言」ですが…の英訳・和訳で無理して風邪をこじらせ、マッカーサーからの指示で米軍医にペニシリンをうっても

らって、命を拾った時に考え付いたのだ、と言っているのですが…

 でも、変ですよね? 奇妙です。

 195011月の読売新聞には「「総理の職に就いたとき」つまり、1945109日に「すぐに私の頭に浮かんだのは、あの電車の中

の光景(815日、のことと書いている)であった。これは何とかしてあの野に叫ぶ国民の意思を実現すべく努めなくちゃいかん、

と固く決心したのであった。」「それで…憲法の中に未来永劫そのような戦争をしないようにし…つまり、戦争を放棄して軍備を

全廃」と公開しているのに、「これ内緒だからね」!? と口止めしてから平野に語ったのは、「9=軍備全廃」を「決心したのは」

「総理の職に就いたとき」の109日頃ではなくて、年末から正月にかけての時…

 確かに「「総理の職に就いた」1945109日に「あの野に叫ぶ国民の意思を実現すべく努めなくちゃいかん、と固く決心した」

けれど、なかなか思いつかなかった。やっと、この年の「年末から正月にかけて寝床の中で思いついたんだよ!」と無理付けすれ

ば、できなくはありませんけど。

 でも、それなら、なぜ、そうと正直に読売新聞に書かなかったのでしょうか? そう書いたって、この時、別に困る問題は起き

なかったでしょう。なぜ、「年末から正月にかけて、風邪で寝込んでいるときに、9条を思いついた」と1950年の11月には書かな

かったんでしょうか? 

 

 もしかしたら、1951228日に平野に語るのに「む~…どうも『総理の職に就いたとき』の109日に、「あの電車男」のこと

を思い出して、すぐに思いついた、というんじゃ、リアリティが弱い気がしてきた…そうだ! 年末から正月、寝込んでた時に、

「原子爆弾の脅威」を考えながら、思いついた! ってことにすれば、リアリティがより増すんじゃないかっ!(笑)…ってことだ

ったのでしょうか?

 つまり、この①・②から言えるのはウソにリアリティを増すための「後付けの理屈」ということではないか…だから、ほんの

数か月前に読売新聞に公表したことと違っていてもかまわないよ、だったのではないでしょうか…

2、リアルタイムの記録!

 当時の1級史料=リアルタイムの記録である『芦田均日記』(岩波書店 1986年公刊)1946222日付には、幣原が前日21日の

マッカーサーとの会談内容を閣議で以下のように語っています。

MacArthurは先ず例の如く演説を始めた。「…日本の為に図るに寧ろ第二章(草案)の如く国策遂行の為にする戦争を放棄すると声明

して日本がMoral Leadershipを握るべきだと思う。」幣原はこの時 語を挿んでLeadershipといわれるが、恐らく誰もfollowerとならないだろ

うと言った。マッカーサーは「followersが無くても日本は失うところはない」

幣原がもし本当に9条発案者なら、マッカーサーに「恐らく誰も(「軍隊の不保持=非武装」の)followerとならないだろう」などと

「反対の気持ち」をマッカーサーに言うはずもありません。

百歩譲って、当時の閣僚たちには、とても「軍隊の不保持=非武装」は理解できないだろうが、これは昭和天皇を護るために新憲法

には絶対に必要だと考える幣原が、わざと「自分は反対だったんだが、マッカーサーに押し付けられた」と閣僚には言い訳をして

「マッカーサーの外圧だから仕方ない」と閣僚には思わせるために芝居を打った、ということにしましょうか?

 では、豪外交官の『日本占領の日々 ――マクマホン・ボール日記――』(岩波書店 1992年公刊)は1946625日付でマッカー

サーから聞いた幣原とのやりとりを紹介しましょう。

「マッカ―サーは(私に)憲法に関する日本人とのやりとり(※たぶん、221日のこと)について、率直に正直に詳しく話したい、と

言った。重点は以下。

戦争放棄に関して、幣原はマッカ―サーに『どのような軍隊なら保持できるのですか』と尋ねた。

マッカ―サーは『いかなる軍隊も保持できない』と答えた。

 幣原が9条発案者なら、マッカーサーに「『どのような軍隊なら保持できるのですか』と尋ね」ることなど有り得ないでしょう。この時、

マッカーサーは、まだウソをつく必要など、全く無かったのですから…

 幣原は、『芦田均日記』や『マクマホン・ボール日記』が公開されるなんて、夢にも思わず死んでいます。

 実は、連合国最高司令部民生局、つまり、マッカーサーが本国に提出した『19459月~19489月までの報告』第三章「日本の新憲法」に

9条については以下のように書いています。(『国家学会雑誌』19516月号に訳出…国会図書館のコピーサービスで取り寄せ ※これによ

よると、この報告は1950年のたぶん9月~10月頃に公表されたものかと…宮沢俊義・芦部信喜さんたちの解説によれば、抄訳は『中央公論』

195011月号に出たらしいので…それで、報告されたのは194810月か11月ぐらい、朝鮮戦争の前!? でしょう。)

「第二章は憲政史上まさに一時期を画すべきものである。戦争の放棄と軍備の禁止によって、日本における軍部の権力と勢力は破壊され、軍

備の負担が日本国民にはなくなった。さらに、外交の手段としての交戦の威嚇も廃棄された。ここに、世界に捧げられた信義の標(しるし)―—

すなわち、侵略に対してみずから課した法律上の禁令があり、この結果、必然的に日本は、平和的な国際紛争の解決手段を採用しなくてはならな

くなる。」

 9条を発案したのが、本当に幣原なら、幣原自身の言葉で「大日本帝国の侵略・植民地支配(=戦争犯罪・人道に反する罪)を重ねてきたこ

とへの反省として、私は軍備全廃を考えた!」という言葉が自然と出てくるはずですけど、幣原は死ぬまで、そんな言葉は一語も発していませ

ん…もちろん、この平野に語った話の中にも、大日本帝国が犯してきた侵略戦争への反省の言葉は、一言もありません。

また、憲法学者の古関彰一先生は『憲法9条はなぜ制定されたか』(岩波ブックレット「幣原首相はGHQ案に反対だった」P14)『新憲法の誕

生』(中公文庫 「『戦争放棄』の発案者」P137))で「9条、幣原発案説」をハッキリと否定していらっしゃいます。

では、いつから、マッカーサーは、自分が9条発案者だったのに、それを「幣原が発案した」ことにしなければならなくなったのでしょうか?

3、朝鮮戦争で日本に再軍備を強制しなければならなくなったマッカーサーは「9条発案者」の役を幣原に押し付けたのでは?

 マッカーサーは、沖縄を軍事要塞化すれば日本本土は非武装でも大丈夫だと考えていたのですが、冷戦の激化でぐらつく中、1950625

の朝鮮戦争が勃発しました。東アジアでは冷戦が熱戦になったことより、日本から米軍を朝鮮に出動させなければならなくなって、それを補うた

めに同年7月8日マッカーサー吉田茂首相に対して書簡を送りました。「警察力増強を指令」です(袖井林二郎編訳『吉田茂=マッカーサー往復書簡集』

講談社学術文庫P535537)。

マッカーサーはこの書簡で「事変・暴動等に備える治安警察隊」として、75,000名の「National Police Reserve」を名目として吉田茂首相に「

再軍備」を強制します。

 ちなみに「許可する」とマッカーサーは、書いていますが、𠮷田は全くそんなことを要請してはいなかったのです。

 これ以前、米ソの対立の深まりによってアメリカ本国政府内、あるいは米軍内部では「日本を非武装化させたのは誤りだった」、つまり「マッ

カーサーは過ちを犯した」という声が高まっていたのではないでしょうか。

 現に1953年、来日した当時のニクソン副大統領やダレス国務長は公言しました。

「事実1946年に日本の非武装化を主張したのは日本人でなく、米国側であった。私は米国が犯したこの誤ちをここで率直に認めよう。」(毎日新聞 昭和28

1120日)

「私は『日本を戦後完全に非武装化したのは誤りであった』とのニクソン米副大統領声明に同意する。米国が日独両国に対してとった非武装化計画はその後

の情勢から見て極端すぎたと思う。」(同 1123日)

 つまり、マッカーサーにとっては「9条を作らせたのは誤りだった」という米国内の非難に対して「いやいや、あれは私の発案じゃなく、幣原の発案だったんだよ」

という必要があったのです。私は、この「警察予備隊」という名前での「再軍備指令」の後に「『発案者は君だ』ってことにしよう。大々的に、そ

う宣伝してくれ」とマッカーサーと幣原の間で密約があったのではないか、と考えています…絶対に証拠は残さないように口頭でのことでしょう

けど…

 この密約が成り立ったからこそ、マッカーサーは195155日、米上院においてにそれを公言し、それ以後は死ぬまで「9条発案者は幣原だった」と

言い続けたのではないでしょうか。

 では、幣原は、なぜ自から「私が9条発案者だ」と言わねばならなかったのでしょう? 幣原が、それを公言したのは前記したように『外交五十

年』(中公文庫)です。昭和261951)年32日付の「序」には…幣原は310日に死亡…からです。重複しますが大事なところですのであげます。

「憲法の中に、未来永劫そのような戦争をしないようにし、政治のやり方を変えることにした。つまり戦争を放棄し、軍備を全廃して、どこまでも民主

主義に徹しなければならんということは、他の人は知らんが、私に関する限り、前に述べた信念からであった。よくアメリカの人が日本へやってきて、

今度の新憲法というものは、日本人の意思に反して、総司令部のほうから迫られたんじゃありませんか と聞かれるのだが、あれは私に関する限り 

そうじゃない。決して誰からも強いられたんじゃないのである」(中公、P219

 後は、ことあるごとに「自分が発案者だ」と幣原は言い続けます、マッカーサーと符牒を合わせて。

 憲法制定にあたり、幣原が命を懸けていたのは…当時の日本の支配層は全部そうだったのでしょうけど…とにかく、なにがなんでも昭和天皇(天皇

制)を護る、ということでした。だから、昭和天皇(天皇制)を護ってくれたマッカーサーには絶対随順だったでしょう。当時、非常に貴重だった

ペニシリンをくれて肺炎になっていた幣原を救ってくれた恩義もあったでしょうし…

 ()(がき) 隆という幣原の友人は「幣原首相は売国奴にあらず」(『憲法研究(4)』196510月…国会図書館のコピーサービスで取り寄せ)の中で、

以下のように書いています。

(「昭和26年はじめ」つまり、1951年初めの幣原の述懐として)「『今度の憲法改正も、陛下の紹勅にある如く、耐え難きを耐え、忍ぶべからざるを忍

び、他日の再起を期して屈辱に甘んずるわけだ。これこそ敗者の悲しみといものだ』と しみじみと語り、そして 傍らにあった 何か執筆中の原稿

を指して「この原稿も、僕の本心で書いているのでなく 韓信が股をくぐる思いで書いているものだ。何れ 出版予定のものだが、お手許にも送るつもりだ

から 読んで下されば解る。これは 勝者の根深い猜疑と弾圧を和らげる悲しき手段の一つなのだ」

 「韓信が股をくぐる思いで書い」たという「この原稿」とは、『外交五十年』なのではないでしょうか。

4、9条発案者がマッカーサーであっても、日本国民は圧倒的多数が主体的に選んだ!

 私は「9条発案者がマッカーサーであったとしても、日本国民は、これを圧倒的多数で、主体的に9条を選んだ」という歴史事実こそ、強調すべきこ

とだと思います。

 日本国憲法は、マッカーサー=GHQが原案を日本政府に渡しました。そして、女性も初めて選挙権を行使した1946410日、敗戦後初の衆議院総

選挙の結果、選ばれた日本国民代表たちは、国会で活発に憲法案を議論しました。

 そして、第90回帝国議会・1946824日、衆議院本会議での「新憲法案採択」は4218でした。以下のURLの帝国議会会議録に賛成者・反対者の名

前が全員、載っています。

http://teikokugikai-i.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/090/0060/main.html

 反対者の8名は、柄沢とし子 志賀義雄 高倉輝 徳田球一 中西伊之助 野坂参三(共産党)、細迫兼光(無所属クラブ)、穂積七郎(新政会)です。

後者二人はのちに日本社会党の議員になりますから、理由は共産党と同じく「天皇制は残すべきではない」「自衛のための戦力は放棄してはいけない」と

いうところかと思います。

 また、これは貴族院に送られ、106日、本会議でいくつかの修正案を審議し、2/3以上で可決されたのです。

http://teikokugikai-i.ndl.go.jp/SENTAKU/kizokuin/090/0060/main.html

 この時、「こんな日本国憲法はイヤだ、反対だ」と主張することは全く自由でした。それなのに、国民代表の圧倒的多数は賛成したのです。つまり、9条も日本国

民は圧倒的多数が自分の意志で選んだ、と言えるのです。

 また、日本国憲法が1946113日に公布された翌年早々の194613日付で、マッカーサーは吉田茂首相に以下のような書簡を送っています。

「昨年1年間の日本における政治的発展を考慮に入れ、新憲法の現実の運用から得た経験に照らして、日本人民がそれに再検討を加え、審査し、必用とならば改正

する、全面的にして且つ永続的な自由を保守するために、施行後の初年度と第二年度の間で、憲法は日本人民並びに国会の正式な審査に再度付されるべきことを、連

合国は決定した。

もし、日本人民がその時点で憲法改正を必用と考えるならば、彼らはこの点に関する自らの意見を直接に確認するため、国民投票もしくは何らかの適切な手段をさらに

必用とするであろう。換言すれば、将来における日本人民の自由の擁護者として、連合国は憲法が日本人民の自由にして熟慮された意志の表明であることを

将来疑念がもたれてはならないと考えている」(『吉田茂=マッカーサー往復書簡集』P287288

つまり、マッカーサー=連合国は日本国憲法が施行される4か月も以前に「もし、この憲法はダメだ」と考えるなら、国民投票でもして「必用とならば改正

する」のも、OK! とハッキリ言っていたのです。

対して𠮷田の返事は16日付で「13日の書簡確かに拝受いたし、内容を仔細に心に留めました」と、たった、これだけ…でした。

つまり、日本支配層も、日本国民も日本国憲法に全く満足していたのです…𠮷田ら日本支配層にとっては天皇制が護持された日本国憲法は「改正する必要」は全

く無かったわけで、日本国憲法は「押し付け」憲法どころか「臣茂」としては満足の憲法だったのです。国民にとっては「戦争はもうこりごり」というとこ

ろから「もう戦争しないで済むんだ」という日本国憲法は大満足だったでしょう。

憲法9条発案者がマッカーサー=GHQであったとしても、それを「日本国憲法」として主体的に選び取ったのは日本国民であって、その時、日本国憲法は「押し付けられた」と

いうような屈辱的なものではなかった、という歴史事実を直視すれば、これは日本人にとって誇りでありこそすれ、何ら、臆する必要はないと思います。

「9条発案者は幣原だ」などという、マッカーサーのメンツ上から作り出されたウソを拡散するのは誤っている、というのが私の結論です。

ーーーーー

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小林さん、大塚さん、魯参さん

幣原証言、平野文書は、新発見でも何でもなくて、すでに約50年前に出ているものですから、

今日までに、この文書の内容は当然、一般の常識、憲法誕生の定説として通用するに十分な時間があったし、

憲法について論ずる場合に、左右かかわらず、議論の共有のベースとなっていて当然だったとボクは思うのですが、

どういう訳かその後もずーっと、「押しつけ憲法だ」という攻撃は続き、

今日ですらある意味、若い人たちを改憲主張に惹きこむための大きな論拠として機能しているかのようです。

そんなことを見るにつけ、ボクは思うんですが、結局は、われわれ日本人の論争はどうも堂々巡りというか、

押し問答好きというか、あるいは、“自分の主張に合う・都合良き論拠・モノ”を採用する傾向があるというのか、

その結果いつまでも「こうだ、いやそうじゃない」と押し問答に堕しがちではないかということです。

「ノンポリ市民の憲法論」にも書きましたが、例えば憲法の文章を、護憲派の人は美しい文章だといい、

改憲派に言わすと、日本語としては悪文じゃないかと貶し、、、など言う事にもそんなところが出ていますし、

そのほか、以前にもこのMLでちょっと問題になった、天皇がマックとの会見で「自分はどうなってもいい」と言ったのか、

言わなかったのか、というあたりの問題にしても、「言ったor言わない」の問題を飛び越えて、

極端な話、天皇嫌いの人の中には、「助けてほしい」と命乞いしたんだって、、という人も居るようで、

そんなある意味乱暴な話を採用する人もいる訳です。ファクトは一つのはずですが、つまりは自分の主張を

補強してくれるモノを重視採用し、そうでないものは“ガセネタ”として軽視するということならば、

こんなことでは本当の論議にはなりっこないなあ・・と思ってしまいます。

もう一つ、前に話題になった例をあげると、竜沢寺の玄峰老師と鈴木貫太郎、田中清玄などの出てくる終戦時の挿話、

“象徴”という言葉に関わる話なども、ボクなど、ふだん禅や静座に親しんでいるものですから、

知らぬ間にえらい禅僧を尊重する習性がついており、彼らが関係した終戦時の面白い挿話として、

ついつい重視してしまいますが、そうでもない人から見れば、そんな話は取るに足らぬと軽視されるのかもしれません。

今回のことはまた、平野三郎が天皇にどうやら強く親密感や尊敬の念を持っていた人のようですから、

平野文書は護憲のための重要な資料ではあるものの、一方では護憲派の中の天皇制・昭和天皇批判の立場の人にとっては、

それにアンチの人の残した文書ということで複雑なものがあるかもしれない、、、みたいなことも思いますがどうでしょ?

ともあれ、いろいろ考えると、もういい加減押し問答に落ちるのを断捨離?して、

たとえ百歩譲って、押しつけ・アメリカによる日本無力化の策謀・悪文だったとしても

そんな事にはあまりかかずらわないで、この憲法が両度の大戦被害と原爆誕生という人類史上未曽有の経験を絶好のチャンスに、

色んな条件が絡んで“奇跡的に生みだされたモノ”、というところをもっと強調して訴えた方がいいとボクは思って居ます。

これは先のボクの「憲法論」の基調でもありますが、そこのところをもっとうまく文章化し直す必要を感じているところです。

まだまだ駄目です。

ところで大塚さん、ずっと以前に、和田先生の著作中のどこかで、

今回話題にとりあげられた平野三郎について触れた文章を見かけたのですが

(それがきっかけでボクも一時平野氏の著作を集めたものでした)、

著作中のどこにあったのか探しても見つかりません。

さらりと触れただけで特に重々しく言及されているところでも無かったように思いますが、

何という著書だか分かりますか?平澤さんや村木さんにお聞きした方が分かりますかね?

                          池田

ーーーーー

増田さん、小林さん、天音さん、大塚さん、みなさん

今日は朝の坐禅の後禅センターの庭と畑の手入れで

一日過ごし遅い夕飯後皆さんのご意見を知りました。

幣原さんの著作と死の前の述懐はそれぞれ意図する

ところがあったでしょう。前者は戦争放棄・戦力不

保持の理由に大塚さんの引用部分に協調されている

ように一般向けに首相として民意が最も大切であり

それに抗して如何なる権力も最終的に強制はできな

いと様々な方向かれ書いていますが、権力(GHQ・

軍閥など)に対する警告も含んでいたのですね:

「これは 勝者の根深い猜疑と弾圧を和ら

げる悲しき手段の一つなのだ」

後者は「憲法米国押し付け論の勢力台頭に対する危

惧」からどうしても死ぬ前に(どうなるか判らない

書面ではなく信頼のおける人物に)真実を語らなけ

ればならない必要に迫られて述懐したものでしょう。

前者はコンテクストから(軍閥無謀・横暴も承知し

て)民意を第一の九条の理由にしたのでしょう。後

者はそのような根本立場に加えてマッカーサーと天

皇に対する説明から原爆が重要と考えて後に出て来

たものを述べたのでしょう(敗戦極貧状態での予算

・軍力などを考えても原爆など及びもつかない状況

から両方共重要な理由でした:だから違う理由では

なかったのです)。

「平和の為に生きた(生きる)」という幣原の意図

は(軍閥に押し切られた戦前のことではなく)首相

になった彼の決意と読むべきでしょう。彼の背景に

は「平和世界」ウェブサイトで書いたような広い文

化・伝統があり(憲法十七条・アショーカ法勅・仏

教など:沙門不敬王・帝師など王侯・将軍などより

賢者・聖者を上に置き、王を泥棒とするような直視

もあった)大和・不戦の発想は、原爆で敗戦受け入

れを決定し焦土惨敗の日本には理想と共に現実から

も戦争放棄・戦力不保持の理由がありました。大塚

さんが指摘されるように、マッカーサーに後からお

前の発案にしてくれと言われて考えだしたひらめき・

狂人案とは思われないものです。

一方マッカーサーは骨の髄からの軍人であり原爆の

使用で大統領と渡り合う武力主義者であり(西欧・

一神教の伝統からも)戦争放棄・戦力不保持などは

考えられないものでした。我意が通らなければ下野

して悔いない彼には弱小惨敗日本に瓶の蓋をする必

要もなく、例えそうだとしても、ニクソン副大統領

ごときの言で幣原にお前の案にしてくれと頼み込む

など考えられません。

小林さんが言われるように世界終末時計二分前の世

界に何をすべきか日本の使命は何かを考えるのが喫

緊の課題でしょう。

「平和世界」ウェブサイトでも書いてありますよう

に平和新憲法を一世紀近く守り抜こうとする日本人

の根底にはやはり大和・仏教・東洋などの広く深い

文化・伝統が生き続けているからでしょう。

 

ーーーーー

天音さん

琴さんの、「私自身軍事問題に関して、非常に迷う、分からない事があります」、

「多分日本人の多くが、言葉にできないけど感覚的にそれを感じているのでは?」というのは、

どんなことでしょうねー?また文章にしてください。

軍事問題、素人の僕なんかには分からないことだらけですが、

面倒な複雑な議論があっても、現下で確実に分かっている事はボクの中で

(多分、琴さんもそうだろうなとおもいます)ただ一つ。

簡単明快。「9条を勝手にいじるな」これです。

あとは、数日前、最近有名な東京新聞の女性記者・望月いそこさんの講演を聞いたのですが、

(政権側から随分いじめられて?いるようですが、いやー元気!エネルギッシュ!おもしろかったですよー!)、

彼女から聞いた話では、知らぬ間にもうかなり、安倍氏はトランプ氏に武器を大量に売りつけられているし、

中東あたりで、米国と合同軍事演習を重ねており、その辺ではもう日本の平和国家ブランドは壊れかけているとか。

僕らの税金を勝手に使って、ちゃくじつに軍拡のみちを歩いている?!そんな印象を受けて、

勝手な事をやられないよう、軍事費の動向などもチェックしておかなくては、、、。

不穏な動きあればみんなにアピールせねば、など思ったりしていますが、

そんな分野は今まで全く関係なく来た自分ですので、

改めてこんな事まで心配せねばならなくなったのかと、油断ならない時代だなと思い始めています。

天皇制についてはっきりした意見を持っていないとおっしゃっていますが、

ぼくもそんなものです。

時代錯誤の天皇主義者でも無ければ、強い天皇嫌悪の感情ももっていません。

「現状からの推移を見守り、天皇制をどうするかは将来世代に委ねる」という態度です。

どこかの国の王家のように、スキャンダル一杯の天皇家ということならば

誰もが一考するようになるでしょう。生まれつき人間はみな平等、という原則からすると、

共和政体などいう考えが出てくるんでしょうが、

ここまで国民の間に、受け止められている (けっこう親密感と共に)現状がありますから、

護憲の立場の人が、原則かざして、天皇制不合理を声高に言うとするなら、かえって改憲論者を利し、

良く分からない人を護憲から遠ざけることになってしまうのでは・・・?と心配になります。

ともかく一番の、急所は9条ですから、一点突破、天皇制談義や元号談義は

あまりかかずらうとせいぜい「奴らは、こんなに皆が喜んでいる新元号や、天皇を悪く言う“変な奴ら”・・・」

ぐらいにしか捉えられないんじゃないでしょうか?作戦上?まずいです、きっと。

天皇制などの問題は今の所は、別テーマとして、長い時間かけて冷静に議論し合うことにして、

ともかくも9条の尊さのみをアピールして、その一点で勝負だ、とボクなどは思うのです。

                          とり急ぎ、池田

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みなさん

幣原の戦争放棄・軍備廃止のアイデアとその理由
・時期が著書と告白と二つある点について、その
他について更に考えたことを記します:
著作では主権者大衆の意図に如何なる権力も抗し
得ないしその願いは平和・生命・生活などの為に
戦争放棄・軍備廃止すべきとしてあり(権力者:
マッカーサー・天皇への警告・釈明を含めて)、
告白は病気中に考えたことをマッカーサーに説明
し、GHQ提案に入れてもらい天皇にも了承しても
らった原爆脅威を語っていることは、病弱で死も
考えられる状況から仏教など伝統・文化の平和・
和の大局観はあったが、実際に憲法に入れる段階
になり、GHQ・皇室に対する説明・釈明と詳細の
規定などを考えた結果が実際の憲法編入の重要・
事実として原爆・年末時期として語られたものと
思われます(マッカーサーとの話し合い途中で、
軍備廃止が更に広範な戦力不保持になり、その際
「軍備ゼロ」の応答もあり、「威嚇」もしない等
も憲法に入り、天皇への釈明には象徴天皇制の話
・保障もあったと想われます)。
いずれにしても、二つの時期・理由は矛盾では無
く(軍部同調の苦い経験と民主・平和主義への転
換への東久邇内閣辞職後の新首相としての当初の)
全体政治原理の背景における全体原則からの主権
者の生命・生活の為の戦争放棄・軍備廃止から、
実際・具体的なGHQ/天皇への釈明・憲法規定上の
詳細規定などの必要からの原爆考慮・年末時期の
具体・実際の歴史的事実・時期となった政治全体
漠然の原初形から憲法特殊詳細の最終形への重点・
詳細の変遷・推移の複数・異期を表すものと見れ
ば良いでしょう(原爆は理論上米国以外にも開発
可能であり、釈尊が「(我見により)世界破滅」
予測しそれを防止の為その生涯を賭した(梵天勧
請参照)ように世界の命運を予測し得たし、理由
を全部列記すべきという規則がある訳でもないの
で幣原が嘘をついたということにはならないでし
ょう)。
魯参

 

ーーーーー
小林様
 増田です。返信、ありがとうございます。
>三人が一同に会したのでなく、幣原がマッカーサーと昭和天皇の間を往来しただけの記述
であったかもしれません。
 そうです。マッカーサー・昭和天皇・幣原が会見した歴史事実は無いです。私は授業で教え
なければならないので、憲法学者や歴史研究者の本を一生懸命読みましたが、誰も、そんなこ
とは書いてなかったので、もし、それが事実だとすれば「世紀の大発見!」として、全ての新
聞の一面を飾るとこ(笑)です。
>三人のやりとりが戦後の日本の出発点で、憲法九条の出発点かな?
 あのぉ…「三人のやりとり」とか、まるでお友達か仲間どおしみたいな感じですけど、当時の
力関係が理解されていないのではないでしょうか。
 マッカーサーと幣原・昭和天皇は占領軍と被占領者で、命令服従の関係しかありません。お友
達のように語り合える関係のように思うのはお伽噺を事実と信じるようなものです。
 幣原が、公開されることなど夢にも思わなかった『芦田均日記』(岩波書店 1986年)を添付
しますが、日本国憲法草案がGHQから渡された後の、内閣・天皇のものすごく緊白した「やりと
り」が、とても印象的です。
 昭和天皇は、この憲法は嫌で嫌でしょうがなかったようですが「幣原総理は 陛下が、今となっ
ては致方あるまい と仰せられて、(※日本国憲法、作成)勅語案の御裁可を得た旨を述べられた。」
 それでもなんとか「皇室典範改正の発議権を留保できないか、又 華族廃止についても 堂上華族
だけは残す訳には行かないかと もうされた」とあがいたようですが、無駄な抵抗でした。
 ついでに(笑)『日本占領の日々―マクマホン・ボール日記』(岩波書店 1992年)の1946年6月25
日の記事も添付します。幣原は、なんとか「自衛のための軍は、いいよ」と言わせたかったようです
ね。
 政治家は小心なド庶民と違って、平然と嘘を吐きます。
 幣原は最初に「自分が9条発案者だ。それは1945年8月15日に電車の中で叫んでいた男に応えよう
と10月9日に総理大臣になった時に考え付いたのだ」という読売新聞記事は1945年9月5日~11月14
日の間(幣原『外交五十年』中公文庫、解説)で、読売から刊行されたのが4月、3月2日付で彼は序を
書いてます…その8日後に死去)。その短い序の中で彼は次のように書いてました。
「ここに掲ぐる史実は仮想や潤色を加えず、私の記憶に存する限り正確を期した積もりである。」!?
 魯参さんは、幣原が平野に語った「幣原9条発案」の年月日も場所も動機も最初の公表と違っている
ことについて、懸命に推理されていらっしゃいましたが、そうすると、この序文との整合性はどうなる
でしょう?
 でも、幣原の真っ赤なウソはこの中にもたくさんあるんです。

「満州事変」のところに、なんて書いてあるかというと、以下です。1931年(昭和6年)919日の朝、私は駒込の自宅で、朝飯の卓上で新聞を読んでいた。フト目に映

ったのは柳条溝における日満衝突の記事であった。すぐに外務省に電話をかけた。…飯を中途で止して、

外務省に駈けつけた。そして問題に関する電報をすっかり調べたが、日華軍衝突の真相ならびに今後の

情勢は判明しない。」(中公、P176)

 

 全く、よ~言い(書き)ますなぁ…「今後の情勢は」ともかく、「問題に関する電報」は奉天の林総

領事から幣原外務大臣宛に、実に正確に打たれていました。ちなみに奉天919日午前発で本省919

午前着の電報は以下でした。

「満鉄 木村理事ノ内報二依レバ 支那側二破壊セラレタリト伝エラルル鉄道箇所修理ノ為満鉄ヨリ保線工

夫ヲ派遣セルモ 軍ハ現場に近寄セセシメサル趣ニテ、今次ノ事件ハ 全ク 軍部ノ計画的行動ニ出タルモノ

ト想像セラル。」(『日本外交年表 竝 主要文書』下、P181 1966年)

 日本人の誰よりも早く! …昭和天皇よりも早く!?…幣原外務大臣には「日華軍衝突の真相」は、日本

「軍部ノ計画的行動ニ出タルモノ」と「判明し」てたんですよっ!?

 こんなふうにね、ばれないと思えば…幣原は、自分の死後に外務省が自分のウソがばれる電報を公開す

るなんて夢想もしなかったんでしょうね…いっくらでも、幣原はウソを吐いて(書いて)いるのです。

 政治家は美辞麗句をこれでもかっ⁉ って吐き続けながら、自己の利益=当時の政治家には国体護持=
天皇制死守のためには、どんな嘘でも平然と吐き続けることができました。
 そういえば、昭和天皇は自己の地位の保証のためには沖縄県を差し出すことも厭わない政治家でした(
「沖縄売渡しメッセージ」は1947年9月20日付。日本国憲法施行は5月3日)

増田様、皆さま

小林です

増田様のご質問への返答です。

平野三郎の『平和憲法の水源昭和天皇の決断』講談社出版サービスセンターではないかと思います。確認しようと思いましたが、この書籍がすでに私の手元になく、色々考えているうちに、三人が一同に会したのでなく、幣原がマッカーサーと昭和天皇の間を往来しただけの記述であったかもしれません。

増田様の真摯な問いに充分答えられずに申し訳ございません。

いい加減なことを書いてしまいました。

ただ、私が言いたかったことはこの三人のやりとりが戦後の日本の出発点で、憲法九条の出発点かな?ということです。

また、増田様の下記の御意見ですが

この時、「こんな日本国憲法はイヤだ、反対だ」と主張することは全く自由でした。それなのに、国民代表の圧倒的多数は賛成したのです。つまり、9条も日本国民は圧倒的多数が自分の意志で選んだ、と言えるのです。

9条も日本国民は圧倒的多数が自分の意志で選んだ、と言えるのです。」

これには私もそうだろうと思います。

「退位する明仁天皇への公開書簡 –日本に本当の民主

主義を創るために–」も読ませて頂きました。勉強になりました。

 

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天音さん

天音さんの語る「9条と日米安保」、ちょっと楽しみにしています。

詩人の天音さんがどんなことを言われるんだろ?そんな気持ちです。

その他にもよくいわれる問題、日米地位協定ってのもありますよね?

ボクなど、日米安保の条文も地位協定そのものも読んでいないほんとの、ほんとのノンポリ。

ですから、それらのことを取り上げて、色々書くのはとてもむりなんです。

でも、九条が大事だ!ということだけは語れる。

その気持ちだけでも、十分、改悪しようとする人に立ち向かえると思って居ます。

ハハハ、単純ですね。

だから、詩人の琴さんの書くもの、ちょっと楽しみです。

でも早く書きあげようなどと無理はしないでくださいね。

みっちりゆっくり美しい言葉で書いてください。

 

ーーーーー

みなさん、

琴天音です。

安倍政権の9条改憲を論ずる前に、日米関係について考えてみました。

池田さん、私は日米安保って書いていましたね。初めに小林さんのおっしゃる自主外交について述べようと思ったので、小林さんのその後の日米安保という言葉に引きずられてしまいました。

私がミロクの皆様に日米安保を語るなんて、恥ずかしくて。

いっぺんには書けないので、2回に分けて書きます。

多くの日本人が核戦争には反対するのに、

憲法9条改正に対して反対を渋るのはなぜなのか、

ということを考えてみました。

1回目は

・自主外交

・半導体産業からみた戦後の日米関係

 私は2017年、2018年に詩誌「飛揚」65,66号――視点社――

 に「戦後日本の半導体における興亡と衰退」を

執筆しました。

米関係を見る一つの材料になればと思います。

何十ページにもわたる長いものだったので、

そのほんの一部をごくごく短くまとめました。

参考文献は省略しました。

 

余談ですが、「憲法誕生記」ーー金子勝 立正大名誉教授――も、「飛揚」64,65,67号に掲載されています。

彼は鈴木安蔵の弟子です。

 

日米関係-1

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みなさん、

 

このタイトルに違和を観じたというところから、はじめます。

由来ということばの意味をたしかめるために、3種の辞典にあたってみました。

 

A.岩波『国語辞典』2011年版

  古くからある物事が今まで経てきた筋道

  そこからおこり、経てきていること(例:ギリシアに由来する建築)

 

B.三省堂『大辞林』1980年版

  ある物事よりおこり、経てきたること。

  そのおこりや過程、いわれ、来歴。

 

C.小学館『国語大辞典』1981年版

  物事がそれにもとづいて現れ出ること。

  そのよってきたるところ。

  ことのおこち。いわれ。来歴。

 

いずれも大同小異ですが、どの意味にとってみても、日本国憲法第九条の「由来」を幣原証言に求めるのはムリだと、わたしは考えます。

由来というのではなく、日本国憲法第九条の淵源は、といえば、カントの『永遠平和のために』あたりに求めるほうが妥当でしょうね。

 

もしも、日本国憲法第九条はアメリカ合州国政府から押しつけれれたものではなく「日本人」の「発案」なのだと主張したいのなら、

幣原発言をもちだすのはやぶ蛇ですし、だいいち、「日本人の発案」であろうがなかろうが、そんなことは、まったくどうでもいいことでしょう。

カンジンなのは、そこになにがどう書かれてあるかであり、それ以外ではないのですから。

 

とはいえ、日本国民が世界でまたとないすばらしい成文憲法をつくったと言いたくなるきもちがわからないではない。

しかし、それでは了見がせますぎます。だれがどこまで影響をおよぼしたかを「研究」することに異はとなえないけれど、

その成立の「いきさつ」が「どうであろうと、いいものはいい。

それに、この憲法が成立した時点で、「日本国民」が熱烈に歓迎したのは事実のようです。

 

なのに、なぜ、このいま、それを壊滅させて、明治憲法さながらの、「憲法」の本質とはおよそ無縁なばかりか、

憲法が憲法でありうる根拠をくつがえすようなものを「憲法」の名においてむりやりつくりあげようとしている

安倍政権の策謀に「日本国民」が敢然と異議申立をなしえないでいるのか?

 

きわめて残念なことではあるけれど、この憲法もまた、所詮、わたしたちたみくさがみずからの手でつくりあげたのではなく、

「あたえられた」ものであったというころに、その原因が胚胎されていたのだとおもいます。

とはいえ、この憲法はわたしたちのものであると明確に宣言する権利を、わたしたちがうばわれていることにはなりません。

そう宣言するためには、しかし、この憲法の精神をしかとみずからの行動によって立証しなければならないでしょう。

 

ところで、幣原証言についていえば、これって「証言」と言いうるのかしら?

増田さんが、いっしょうけんめい、その周辺の事実まで紹介してくれているので、重複するようなことは避けて、

ここでは、カンジンカナメのことをひとつだけ言っておきます。

 

いつかも言ったような気がするのですが、なにごとかが「のべられて」いるばあい、つねに、念頭におかなければいけないのは、

いつ、どこで、だれが、だれにむかって、どういう意図をもって語っているのか、を見定めることだと、わたしは考えています。

 

一般に、「歴史」とは権力者が「書いた」ものだと言われます。

まず、古代から中世といった時期には、たみくさは文字を読むことも書くこともできなかった。

読み書きができることそれ自体が権力者である証左だった。

当然のことながら、書かれた歴史とは権力者の歴史でしかなかった。

 

さて、幣原喜重郎というひとは、その経歴から見ても、戦前からの支配層に属する官僚・政治家です。

まぎれもなく、「大日本帝国」支配権力の一員であり、戦後は日本国の支配権力の一部でした。

このひとが、戦後の内閣を組織しえたのは、吉田茂とおなじように、軍部に組みしない数少ない政治家のひとりであったからですが、

だからといって、民主主義を体現しえていたとは言えないでしょう(吉田茂とおなじように)。

だからこそ、また、裕仁天皇が強く組閣を懇請しもしたのです。

カンジンナことがひとつあります。

このひとや吉田茂の「反戦」とは、あくまで、アメリカ合州

国や大英帝国をはじめとする欧米諸国と戦争することへの反対であって、

アジアに対する、具体的には中国に対する「植民地主義的進出=侵略」には無関心であったということです。

一例をあげれば、1920年代の「幣原外交=国際協調路線」とは、あくまで対英米との協調路線であったから、

当時他民族の支配に抗して立ちあがった中国民衆に対しては、「既得権益」を守るために武力による弾圧もいとわなかった。

この「既得権益」という概念そのものが植民地主義的なものであることには気づいていない。

この点では、天皇裕仁とおなじです。

 

なにが言いたいのか?

「大日本帝国」という名の国家がほろびた(はず)ののち、あたらしくできたはずの日本国という名の国家に、

旧「大日本帝国」の支配層の一部が、あらたな支配層としていすわった(よこすべりした)こと、

このことが、戦後のこの国家の

ありようを、どれほどゆがめたか。

たみくさの側からすれば、自分自身の力で、旧体制を払拭して、まったくあたらしい原理にもとづく国家を

つくりあげることができなかった、ということです。

ドイツやイタリアの民衆にはできたことが、日本の民衆にはできなかった。

戦後民主主義に関してわたしがのべたことと、そっくりおなじことが、ここでもあらわれています。

 

いつ、どこで、だれが、だれにむかって、どういう意図で、発言しているのか?

もういちど問います。

すくなくとも、このいま、つぎの事実は確実に判明しています。

あの「敗戦」・「占領」という事態にあたって、旧「大日本帝国」の支配層が、なによりもこころをくだいていたのは、

「国体」を「護持」することでした。そして、「国体の護持」とは、あけすけに言えば、裕仁という名の天皇を

殺させない、つまり、その生命を「護持」することでした。

裕仁という名のひと自身も、自己の生命をまもることに汲々としていた。

 

その旧「大日本帝国」支配層の願望と、GHQという占領軍中枢(その背後にはアメリカ合州国政府がいた)の占領政策とが、

旧「大日本帝国」支配層にとっては「幸運」なことに、おなじ方向を向いていた。

しかも、たれあろう裕仁天皇自身が、生命をまっとうするばかりか天皇という地位からもしりぞかないために、

このいま、わたしたち「日本国民」を無用にくるしめているアメリカ軍の駐留を容認するどころか積極的に要望し、

かつまた、沖縄を米軍に売り渡すという挙にでていたことをも、わたしたいは知っている。

天皇が、幣原が、マッカーサーに「会う」ことにしたのは、なんのことはない、

天皇裕仁の生命と地位を安泰にするため(国体護持のため)であったのです。

 

幣原の回想だけでなく、あの時代に枢要な地位を占めていたひとたち(むろん裕仁天皇をもふくめて)の回顧録

の内容を、批判的にではなく読むことは、かえって、真実から遠ざかることになるでしょう。

下世話な言いかたをするなら、「眉に唾をつけて」読むべきでしょうね。

 

ひこ

—–

ひこさん、小林さん、みなさん

 

「由来」はA、B、C共通でCの「よってきたるところ」

が「由って来たるところ」を言い換えて表現している

ことで憲法九条の発案と経過ということで何ら問題に

なることは無いでしょう。

 

カントの「永遠平和のために」は予備条項から確定条

項にいたる「平和締結(休戦)の後に来る永遠平和は、

漸進的に解決されて目標に絶えず接近していく課題」

でいわば永遠準備の何時達成できるか判らない段階を

示したもので九条のように即刻決断実行するものです。

「戦力」とは常備軍のみならずカントが認めた自衛の

民兵を認めたりそ他の戦力に転換できる(例えば原発・

通信・情報その他の)知識・技術・材料・資力等一切

不保持ですからカントにもその前駆思想のイエスやィ

ザヤなどにも(原罪・業を認め個人存在が前提の西欧

思想伝統には)無いものでしょう。

 

幣原が「狂人」の考えというのは「業」「吾我」(罪

=分離病患)を前提とする思想・立場から見ればとい

うことで、それを超えた「止業」・「無我」(聖=全

体健全)という仏教(原罪を認めないむしろ無・道・

仁などこそ原初的とする東洋にも止業=涅槃まで至ら

ないにしてもある程度共通の)地盤(文化・伝統)に

立ち正覚・覚悟で肚をくくる無手勝流に打って出たも

のでしょう(この辺小林さんの死生を超えた不異・不

畏やその他の人達の武道・諸道が関連すると思います)。

 

この様な文化・伝統が社会に広く浸透していたからこ

そ憲法九条制定の後も支持者が多く、その解釈拡張に

よる実質軍備世界第四位といわれ基地容認米国隷従で

も建前は変えなかった来歴があるのだと思われます。

業・我前提の個人主義・人間主義・制度主義の西欧的・

一般的社会には核・戦争・金権などは変えられず、無

我・真諦・超俗などの東洋的・特殊的社会(島国・小

国)には命・平和・涅槃を可能にする所があるのでは

無いでしょうか。

 

我見・我利・我慢(高慢)に執着する限り核・戦争・

金権などは千年河清を待つ如しで無我・共生・共栄

を優先させて世界終末二分前を避けることが緊急・緊

要になっている秋ではないでしょうか?

 

西欧の小争(吾我闘争)が革新で東洋の大和は(全体

平和)は旧弊であるというのも「眉に唾をつけて」読

む必要があるのではないでしょうか?

ーーーーー

ひこさん、魯参老師、みなさん

小林です

74年前の焦土となった東京で占領軍の代表マッカーサー元帥と昭和天皇そして幣原首相この三人のやりとりがあった。戦後日本のスタートです。マッカーサーの立場は圧倒的な優位な立場で日本をいかに上手に統治するか、アメリカの利益にかなうようにという軍人の立場です。天皇は皇室の安泰、国体護持があったでしょう。天皇制と9条の平和主義は違うことがらですが、この二人のやりとりの中では取り引き材料ということになります。日本史の中では天皇を守るのは武士たる征夷大将軍ですから、74年前は征夷大将軍はマッカーサー元帥です。しかも、彼は天皇制の維持が日本の統治上便利であると判断した。アメリカの国益にかなうとその時の国際情勢からそう思った。

この二人の間に立ってマッカーサーと交渉したのが幣原首相です。政治交渉ですから損得の駆け引きでしょう。日本は日本の立場を守る、アメリカは自国の国益第一です。

しかし、妙なことがおきます。非武装という発想です。74年前の現実はやはり戦争はコリゴリだという雰囲気は日本国内はあったでしょう。第二次世界大戦直後は、やはり平和を希求する気持ちが世界的にもあった。しかし、米ソ対立が目の前にあったことも事実。幣原の軍隊を捨てるという安全保障の常識から飛び離れた9条の発想が出てきて、「おまえは狂ったのか?」とマッカーサーに思われるくらいに幣原の頭を占めるようになった。しかし、幣原はその狂ったような突拍子もない発想が74年前の世界情勢の中である現実性をもつということに気が付いた。マッカーサーと天皇の間を行き来しつつしているうちに、彼は9条のもつ現実的有効性に思い至るようになった。マッカーサーは幣原の軍隊のない国という突拍子もない発言に驚き、あきれるが考えてみるとアメリカにとっても都合のよい話と74年前はそう思った。そのことにより天皇制を維持させることも可能になる。天皇に戦争責任ありと主張する国を説得できるとも考えた。天皇にとってもそれは皇室の護持につながり悪い話ではない。三者三様に思いをめぐらせて、9条平和主義そして象徴天皇制という戦後の原点のようなものができてゆく。平野三郎の『平和憲法の水源-昭和天皇の決断』講談社出版サービスセンター講談社出版サービスセンタから、私は当時を思いそんなふうに考えてみました。もちろん平野三郎は幣原の考えを感動の面持ちで書いています。幣原がどんな人物か、どんな思想かは研究に値すると思います。また昭和天皇の実像も研究に値します。諸説あってよろしい。マッカーサーについても諸説あってよい。しかし、戦後の日本のスタートはこの三人のやりとりから始まった。そしてこのやりとりは不明な点もかなりある。このやりとりについても現代史の研究に値する。ですが、この三人のやりとりは憲法9条のできてくる過程として、はずせない。ここから戦後日本の第一歩が始まる。と僕は考えました。平野は幣原の9条への思いを感動と驚きをもって書いています。その信憑性、幣原、平野への疑いがあろうがなかろうがこの三人のやりとりは9条を考える際には外せないと平野氏の著作から僕は思ったのです。

ーーーーー

なさん、

小林さんが今年の2月3日に投稿した「戦後74年の虚妄」がいいてがかりになるとおもうので、とりあげます。
まず、つぎの部分。

《平和と民主主義の大切さは、この時期に自己形成したものには自明であり、正しいものという前提があります。
そして人は個人として尊重されるという価値観があります。人権の尊重ですね。しかし、この平和と民主主義的価値観の前に
根源的な問題が私にはあるように思えます。高度経済成長期に自己形成してゆく戦後世代の人生観の根底には
何があるのでしょうか。平和・民主主義はよいとして、その価値観を支えていく思想に確かな人生観があるのでしょうか。
もっと言うと死生観があるのかということです。》

なるほど。戦後にうまれそだち、この国家の教育方針がこのいまのように「愛国心」涵養へと変質する以前の学校で
学んでおとなになっていたひとたちの実感として、そうだろうなあとおもいます。

しかし、このわたしにとっては、平和も民主主義もけっして「自明」ではなかった。
「国のため=テンノウヘイカのため」に「いのちを捧げる」ことこそが「生きがい」であると
おしえられ、そう信じこんでそだったのに、ある日とつぜん、それはまちがっていたとつげられ、
それにかわる「人生観」として「あたえられた」共産主義的人間像も、万人への献身も、 

すんなり受けいれることはできなかった。
つまるところ、自分自身がどう生きていくべきかは、
だれにもおしえてもらえずに、自力で獲得していかなければならなかった。
だから、平和も民主主義も、けっして、あたえられたものではなかった。
自分自身で意識的にえらびとったものだった。

これは、「内地」にいて、アメリカ軍の占領下で、民主主義を「おしえられて」そだったひとたちとは、
まったくことなった体験です。
そのわたしから見ると、「戦後」という形容詞を冠して語られる「民主主義」があとかたもなく
この社会から消えてしまったのは、当然のなりゆきであったように見えます。

「平和と民主主義の大切さ」は、小林さんだけでなく、戦後の、日本国の体質がまだ変質していなかった時期に
自己形成をとげたひとたちにとっては、たしかに「自明」であったにちがいありません。 

そのことに、いささかもうたがいをさしはさむ気は、わたしにはありません。
ただ、あの時期に「そだった」おとこたちおんなたちのだれもがそうであったのだとは言えないでしょう。
小林さんのようなひとは、むしろ、少数であったのかもしれません。

「自由主義史観」が猖獗をきわめようとするけはいが見えんはじめたころ、わたしは、『「自由主義史観」を解読する』(天野恵一編、
社会評論社1997)に「これは『左翼』への罰ではないか?」というタイトルの文章を寄稿しています。
そのなかで、白井愛の詩「神隠し」を引用しています。

《収奪ということばが消えた
わたしたちの列島から

列島の農民が
田畑も
牛も
水も
魂も
まるごと
収奪されているときに

収奪ということばが消えた
わたしたちの列島から

列島の漁民が
海も
魚も
浜も
魂も
まるごと収奪されているときに》

そのあとで、わたしは、つぎのように書いています。

《私自身、なんども体験していることなのですが、たとえば講演や授業などで、じつは現代の「神話」でしかないものに私たちが
いかに呪縛されているかを「解明」し「検証」していくと、そのあとで、かならずといっていいほどに、こういう質問を受けるんです。
「よくわかりました。それでは、私たちはどうしたらいいのでしょう?」
 それを考えてもらいたいために、私は、私の話を聞いてくれているひとびとの面前で、問題の本質を解明しようとしたのでは
ありませんか。それも、図式化することをできるだけ避けながら。
 この国の戦後民主主義教育の最大の欠陥は、真の意味で自立した思考を身につけさせることに失敗したことでしょう。
「自分の頭で考えなさい」と、しきりに教師は言ったけれど、生徒たちがほんとうにそういう力を養っていけるように、彼らを
挑発し、うながすようなやりかたを、とってきたのだろうか? だいいち、教師たち自身、自立した考えかたなどできないままで、
「自分の頭で考える」という教義(ドグマ)を押しつけてきたのではなかったか?
 自立できない、だれかに、なにかに、たよらないではいられない。そういうひとびとの生きかたこそ、藤岡流のデマゴギーの
温床」なのではないでしょうか?》
(註:藤岡とは藤岡信勝のこと。教義にはふりがながついているが、ここではつけるづべがないのでカッコにいれた。)

もうひとつ、引用ついでに。
《白井愛の『キキ 荒野に喚ばわる』のなかに、精神病院に閉じこめられた「狂人」の手になる、鬼気迫る詩があります。

 戦争は 平和の罰
 戦争は 幸福の罰
 戦争は 共犯(なれあい)の罰
 戦争は 特権の罰
 戦争は 卑屈の罰

    センソウサンセイ
    カクヨコイ
    キミタチゼツメツダイサンセイ
    ドウセワタシハコロサレル》

小林さんは、ちゃんと、自分のあたまで考えている。
しかし、そういうひとたちばかりがそだっていたのなら、どうして、このいまの、このていたらくになってしまっているのか?!

この列島にくらしてきたひとたちにとって、「民主主義」は「平和」は、「おしえられた」「あたえられた」ことでしかなかったのではないか?
すくなくとも、自力でかちとったものではなかった。「肉体化された(アンカルネ)」ものではなかった。
だから、こうもやすやすとぬぎすてることができた。
小林さんが語っているつぎのことも、このことと関係がないとはおもえない。

《人は生まれて死んでいくという事実がありますからね。
平和と民主主義を守るために命をかけられる人は、まーこの問題はどうでもよいかな? 

しかし、そうでない人は多くいます。よく三無主義とかいうことばがあったように戦後民主主義の根底にニヒリズムが
ありませんか。何であれ人は無になって死んでゆくのです。つまり、死んだら終わり。 

そのように生死をとらえた時、戦後の民主主義に育った我々の心の奥にニヒリズムを胚胎している
ということになりませんか。無になってゆくというのは個人主義を基本とした世界観人生観では何か
救いがないという思いが出てきませんか。》

なるほどねえ、と、ここでもおもいます。
ただ、ニヒリストと自称するわたしにとっては、こんな感情をニヒリズムと呼んでほしくはないなあ。
むろん「受動的ニヒリズム」と言われる姿勢もありはしますが、既成のすべての価値を根底的に否定する姿勢から、
逆に、自分自身で価値をつくりだそうと、瞬間瞬間を懸命に生きる姿勢も出てきますからね。
わたしなりの表現で言うと、すべてに絶望する、と、その絶望の先には希望しかない。 

小林さんの言う二ヒリズムとは、俗流のニヒリズムのような気がします。ニーチェが泣きますよ。
これは、むしろ、シニスム(英語ではシニシズム)ではないか?
わたしは、よく、こういう言いかたをします。
わたしはニヒリストではあるがシニストではない。
(ニヒルではあるがシニックではない。)

「霊魂不滅」なんぞという「ヨタ話」でゃない、「生死を乗り越えていける私」、「消滅しない私、死んでも死なない私」
「生きている今、実感できる不生不滅の私」に、和田重正『もうひとつの人間観』(柏樹社、1975)を媒介として
到達しえたという、その心境もよくわかります。

ま、わたしは、すこしちがう感覚をもっているのですがね。
わたしが死ぬとともに、つまり、このわたしの心臓が鼓動をやめ肉体が腐乱しはじめるとともに、
わたしの精神も消滅するのだ、と考えています。
ただ、そのわたしは、記憶されているかぎりは生きている。
ちょうど、いま、白井愛が、死後14年を経たいまなおわたしのなかで生きているように。
それも、しかし、このわたしの死とともに消滅するかもしれない。

小林さんの言う「公共性に配慮した個人の重視」という考えかたにも、和田さんの影響がありますね。
いまのこの日本国のなかでは、明治以来かわらずに、「公」と「私」とはあきらかな対立概念でしかないので、
「公共」という概念を、とりわけ政権の側がもちだすことには極度の警戒心をもたないわけにはいかない。
しかし、ことば本来の意味としての「公共性」とはそんなものであるはずがない。
千葉大の小林さんたちがはじめた「公共哲学」は、そのことば本来の意味における「公共性」を
わたしたちの手に奪還するという実践的課題とむすびついています。
和田さんが提唱している「全体は個を包み、個は全体を包む」という考えかたにもそれは通じます。

ま、わたしは、すこしちがう感覚をもっているのですがね。
わたしが死ぬとともに、つまり、このわたしの心臓が鼓動をやめ肉体が腐乱しはじめるとともに、
わたしの精神も消滅するのだ、と考えています。
ただ、そのわたしは、記憶されているかぎりは生きている。
ちょうど、いま、白井愛が、死後14年を経たいまなおわたしのなかで生きているように。
それも、しかし、このわたしの死とともに消滅するかもしれない。
ひこ

ーーーーー

ひこさんへ

小林です

ひこさんの投稿なされた文章に、ひこさんの精神というか強烈な自我を感じます。戦後の日本の社会をしぶとく生きてきたヒコさんを想像します。骨太さというかな,そんなものを感じます。やはり、ひこさんにとっては白井愛さんが大きいのでしょうか。彼女との関係が自分を裏切れない、誤魔化せないといった生きる姿勢になっているのでしょうか。男と女の問題は、徹底的に私的なことです。そこに天下・国家・政治の入る余地はないでしょう。ですから、そこにおいて、ひこさんはきわめて非政治的人間ということになります。そこには、国家という風景はないということになります。

そこから、政治にかかわるエセ指導者・権力者を許すことができないというひこさんの姿勢がでてくるのでしょうか。

 

「ま、わたしは、すこしちがう感覚をもっているのですがね。
わたしが死ぬとともに、つまり、このわたしの心臓が鼓動をやめ肉体が腐乱しはじめるとともに、わたしの精神も消滅するのだ、と考えています。
ただ、そのわたしは、記憶されているかぎりは生きている。
ちょうど、いま、白井愛が、死後14年を経たいまなおわたしのなかで生きているように。
それも、しかし、このわたしの死とともに消滅するかもしれない。」

「ただね、自分のなかにある「強烈なエゴ」をいちがいに否定したり乗りこえたりするよりまえに、その「エゴ」とはどういう性質のものかを見定めておくほうがいいとおもうのですね。」

 

これから私は親鸞について少しずつこのミロクに書いていこうと思います。

親鸞について書いていく中で上記のひこさんの文章に対して、僕の考えを書こうと思います。身体論については道元について触れてゆく中で自分の考えを書こうと思います。

 

 

『亜人間を生きる――白井愛 たたかいの軌跡』

 

ひとりの人間がもうひとりの人間とともに生きようと決意し、

どこまでともに生きえたのか、生きえなかったのか? 

これは完全に私的なことです。

しかし、「私的なことは政治的である」をもじって、

わたしは、「私的なこと」のうちにこそ「普遍的なこと」があると考えています。

ですから、あえて、完璧に私的な関係の軌跡を追及したこの本を、

できれば読んでみていただきたいと考えているのです。

 

この部分を僕はあえて非政治的と表現しました。でも、たぶん私とひこさんの言うことはそんなに変わらないのだと思います。

ーーーーー

小林さん、みなさん、

 

おどろきました。というより、衝撃を受けた。かなしいおもいでいっぱいです。

敗戦時12歳で、純粋培養された天皇崇拝・愛国・軍国少年であったわたしが、

敗戦後の旧「大日本帝国」植民地で、それまで侮蔑し虐げてきた漢民族・満州民族・朝鮮民族のひとたちが、

一挙に、支配民族になり、大和民族は被支配者の立場におかれることいなったという体験と、

かつての被支配民族からの「報復」と「赦し」をともに体験するという経緯を経て、

やっとのおもいで、自力でつかみとってきた民主主義と平和の思想からすれば、

まるで想像もつかないほど「すなお」で「しあわせ」で「やさしいこころね」の「おとな」が、

それも、そろそろ老境に達しようとしているのだという事実を知らされたのですからねえ。

 

《幣原がどんな人物か、どんな思想かは研究に値すると思います。また昭和天皇の実像も研究に値します。諸説あってよろしい。マッカーサーについても諸説あってよい。しかし、戦後の日本のスタートはこの三人のやりとりから始まった。そしてこのやりとりは不明な点もかなりある。このやりとりについても現代史の研究に値する。ですが、この三人のやりとりは憲法9条のできてくる過程として、はずせない。ここから戦後日本の第一歩が始まる。と僕は考えました。平野は幣原の9条への思いを感動と驚きをもって書いています。その信憑性、幣原、平野への疑いがあろうがなかろうがこの三人のやりとりは9条を考える際には外せないと平野氏の著作から僕は思ったのです。》

 

 

わたしが根底的に違和を感じているのは(これまで縷々とそのおもいを綴ってきているのに、結局はとどいていないのかなあ)、

天皇という地位にあったひと、旧「大日本帝国」の支配者層の一員であったひと、そういうひとたちの「回想」を、

いささかの疑念もさしはさむことなく、「すなお」に、文字通りに浮けとっているというこの一点です。

 

裕仁天皇は、つい先刻まで「大日本帝国」という名の国家の最高権力者であったひとです。

幣原氏は、その天皇の君臨する政府の外務大臣をつとめるほど枢要な地位にあった官僚政治家です。

その彼が内閣を組織しえたのは、たれあろう裕仁天皇の強い懇請があったからです。

精神的には、幣原氏と裕仁天皇とのあいだには強いきづながあった。

 

こういったひとたちは、しもじもの旧「臣民」、戦後は「国民」に昇格したたみくさ(庶民たち)とは、

まったくことなる別な世界にくらしていたのです。

「汝臣民飢えて死ね。朕はたらふく喰っておるぞ」という横断幕(か、のぼりか?)は、

この日々の食いものを手に入れるのに必死になっていたたたみくさ(庶民たち)の「なまのこえ」なのでした。

 

 

こういうひとたちの回想を、それが、そのひとたちにとってはどれほど真摯で率直な告白であったとしても、

そのまま、なんら疑問も批判もなしに信ずるということは、わたしには想像を絶することでしかない。

 

もうすこしちがった視角から、これらの回想によってつたえられてくる事実を照しだしてみましょう。

裕仁天皇も幣原氏も、けっして、一個人、ひとりの市民として発言し行為しているのではありません。

「大日本帝国」という名の国家を背に負って、アメリカ合州国をはじめとする「連合国」政府の代表である

GHQのマッカーサー将軍と、「一国の運命・処遇」に関する「交渉」をおこなっているのです。

その裕仁天皇と幣原氏の背後には日本列島にくらしているもろもろのたみくさ(庶民)は存在していない。

幣原氏の心情を書き記した平野氏も、おなじレベルに生きているひとでした。

 

あえて言います。

 

「戦後の日本のスタート」が「この三人のやりとりから始まった」といった認識が、いったい、どこから、どのようにして出てきうるのか?

「そしてこのやりとりは不明な点もかなりある」。しかし「このやりとりについても現代史の研究に値する」と言いきることができるのか?

むろん、どのようなことであろうと、現実にあったことについては、歴史学が研究対象とします。

しかし、小林さんがここでのべているのは、そうういうレベルでのことではなく、無視できない重要な事実であるから、

ぜひとも研究してほしいというのぞみです。

 

そこからは、とうぜん、「この三人のやりとりは憲法9条のできてくる過程として、はずせない」という認識がうまれる。

そして、「ここから戦後日本の第一歩が始まる。と僕は考えました」とまで断言なさる。

「平野は幣原の9条への思いを感動と驚きをもって書いています」といわれる。

当然でしょう。だから書きとめて後世にのこそうとくわだて。じじつそうしたのですから。

この平野氏の記述の「信憑性」、幣原・平野という人物「への疑いがあろうがなかろうが」、

「この三人のやりとりは9条を考える際には外せない」と小林さんはおもった。

それは「平野氏の著作から」得た感触だった。

 

小林さんのこの感触を、あやまっていると非難するつもりは毛頭ありません。

ただ、わたしよりかなりあとにこの世に生を受けたひと(たち)にとっては、

幣原氏と裕仁天皇との言動を、それをこのようにつたえた平野氏の言説を、

こんなふうに感じとるのだという事実に、わたしは衝撃を受けたのでした。

 

よけいなことをつけくわえるなら、

渡辺清さんが『砕かれた神』(評論社、1977)と『私の天皇観』(辺境社1981)のなかで

切々と吐露しているおもいを、小林さん(たち)はどのように受けとるのかしら?

あるいは、吉田満さんの『戦中派の死生観』(文藝春秋社、1980)や『散華の世代から』(講談社、1981)

にこめられているおもいを?

 

ひこ

ーーーーー

ひこさんへ

先に出した「ひこさんへ」は10日金曜日の文章へのものです。

前後してちぐはぐなことになり申し訳ありません。

以下の内容のメールは「ひこさんへ」のメールを出した後に読みました。

「悲しい思いをさせた」ということでしたので込んでいます。

このメールについてはもう少し考えた上でご返事します。

ーーーーー

魯参さん、みなさん、
わたしが言おうとしたのは、日本国憲法の「由来」を「幣原発言」に(「のみ」とは言っておられないのでしょうが))求めるのは
適当ではなかろうという一点です。
幣原氏が、主観的に、衷心、不戦・戦力不保持・交戦権の否定ねがっていたとしても、です。
もし「由来」を求めとしたら、ひとつではないはずでしょう?。
《この様な文化・伝統が社会に広く浸透していたからこ
そ憲法九条制定の後も支持者が多く、その解釈拡張に
よる実質軍備世界第四位といわれ基地容認米国隷従で
も建前は変えなかった来歴があるのだと思われます。》
日本民族の大多数に関して、あの1945から1952年の時点で、
おっしゃるような「文化・伝統」が、「社会に広く浸透していた」とは、
わたしには、とうてい、想像もつきません。
もしそうであったなら、そもそも、それ以前に、
「満州」「中国大陸」への「植民地主義的進出=侵略」もおこらなかったでしょうし、
その帰結としての「大東亜戦争」に突入することもなかったでしょし、
「敗戦後」の混乱のなかで、あれほど、あられもない利己主義をむきだしにすることも
なかったでしょうから。
いずれにせよ、しかし、日本民族の「文化・伝統」を問題としてとりあげるさいには、
極度の細心さと厳密さとが要請されるはずだと、すくなくともわたしは考えています。
《業・我前提の個人主義・人間主義・制度主義の西欧的・
一般的社会には核・戦争・金権などは変えられず、無
我・真諦・超俗などの東洋的・特殊的社会(島国・小
国)には命・平和・涅槃を可能にする所があるのでは
無いでしょうか。》
菅孝行をひきあいにだしたあの身体論は、デカルトのコギトに発する哲学(人生観)を
否定するところから、西欧自身がうみだしていったものです。
西欧的なものと東洋的なものとを、このように「対照的に」とらえることそれ自体は、
あやまってはいないけれど、しかし、その「ちがい」を強調しすぎると、
かつて日本浪漫派が通った轍を踏むことになりかねません。
戦時中にこども時代をすごしたわたしには、じつは、こういった、それ自体まっとうな議論に
接するだけで、PTSDがうずきだすのです。
《我見・我利・我慢(高慢)に執着する限り核・戦争・
金権などは千年河清を待つ如しで無我・共生・共栄
を優先させて世界終末二分前を避けることが緊急・緊
要になっている秋ではないでしょうか?》
これまた、まったく正しい。
ただ、このことにもとづいて、「西欧の小争(吾我闘争)」と
「東洋の大和(全体平和)」とを対立的に提示されると、
やはり、トラウマがよみがえる。
前者が「革新で後者が「旧弊」であるとなどといった認識をしているひとが、いま、
現実にいるのかしら?
ひこ
ーーーーー
魯参様
 増田です。
 この問題の発端は、あなたが平野の言ったことを事実と思い込まれて「幣原9条発案」説を拡散
されたことにあります。「それはウソなので、拡散しない方がいい」と私は申上げ(書き)ました。
 私は9条を高く評価するものです。現にそれを実行・実現して「国際社会において、名誉ある地位
を占め」るに至っているコスタリカという国もあるのですし…本来、日本国はその道を行くはずだっ
たのであり、それはマッカーサーと昭和天皇によって捻じ曲げられまてしまいましたが…決定的だっ
たのは朝鮮戦争ですけど…今後、その道を進むしかないはずだ! と私は思います。
 けれど、それは事実の上に立たなければならないと思うのです。いかに善意からであろうとソの
砂上の上に堅固な楼閣は築けません。
 幣原が9条発案者ではないことは『芦田日記』と『マクマホン・ボール日記』が証明しています。憲
法学者で、そんなことを主張している人は一人もいないのではないでしょうか。憲法史がご専門の古関
彰一氏『新憲法の誕生』(中公文庫)は、かなり前に書かれたものですが、必須の基本文献です。
 本当に「幣原が9条発案者だ」ということを証明する為には、①幣原の側からと、②マッカーサーの側
からとの証拠が出てこなくてはなりません。
①幣原内閣が「大日本帝国政府が作成した日本国憲法原案」を発表した1946年4月17日以前に幣原自身
が「自分が9条を発案した」ということを書いているもの、あるいは、第三者が、幣原がそう語るのを聞
いた、という物証。
 この日以降は、GHQが原案を作成した、という事実は公然の秘密ではあったにしても…なにしろ、2月
1日に暴露された松本原案と180度違っているんですから…極秘中の極秘であって…2月26日から活動を始
める極東委員会は1946年12月26日のモスクワ協定で「日本の憲法改正に関する事項は極東委員会の決定
事項」と定められてましたし…何が何でも日本=幣原内閣が憲法原案(9条を含め)を作成したことにしなけ
ればならなかったのです。
 即ち幣原は日本国憲法制定経緯について、1946年4月17日以後はウソを吐き続けるしかなかったのです。
②マッカーサーが「9条発案者は幣原だ」と1950年の朝鮮戦争以前、あるいは1951年5月5日の米上で証
言する以前でもいいですけど、そう言っていた、ということを自身が書いているとか、それを第三者が聞い
た、という物証。
 魯参さんは、この2点に関するものを見つけられないと思います。憲法学者も歴史学者も、そんなものは見
つけることはできないのですから…
>大和・共有などの傾向は底辺に生きていたのでは無いでしょうか
 ひこさんが「日本民族の大多数に関して、あの1945から1952年の時点で、おっしゃるような『文化・伝統』
が、『社会に広く浸透していた』とは、わたしには、とうてい、想像もつきません。
 
 もしそうであったなら、そもそも、それ以前に、『満州』『中国大陸』への『植民地主義的進出=侵略』
おこらなかったでしょうし、その帰結としての『大東亜戦争』に突入することもなかったでしょし、『敗戦後』
の混乱のなかで、あれほど、あられもない利己主義をむきだしにすることもなかったでしょうから。」
と歴史事実を挙げていらっしゃるのに、魯参さんが、なお、こういう主張をなされることが、私には理解できま
せん。
 これは魯参さんの主観的願望に過ぎないのではないでしょうか? 私も、もちろん、主観的にはそうであったな
らば嬉しいことだ、とは思います。
 でも、1894年の日清戦争時の・東学農民の殺戮・旅順虐殺から台湾征服時、抵抗する原住民の虐殺~南京虐殺、
中国・東南アジア各地での天皇の軍隊による凄惨な殺戮・女性に対する性的暴行の数々の前に、また、敗戦後の数
々の悲惨な…ほんの一例は戦争孤児たちに対する一般民衆の仕打ち等…を前に、魯参さんは、いったい何を証拠に
「大和・共有などの傾向は底辺に生きていた」と言われますか?
 
 敗戦によって、いきなり、日本民衆の「大和・共有などの傾向は底辺に生きていた」という状態が出現した証拠
はどこにあるのですか? 日本の民衆が日本国憲法を大歓迎したのは「大和・共有などの傾向は底辺に生きていた」
からではなく、戦争の被害に遭って死傷・財産の消失などの辛酸をなめた為「ああ、もう、戦争しないで済むんだ」
という、あくまでも「戦争被害を、もう受けなくて済む」という喜びからではないでしょうか。
 でも、朝鮮・台湾・中国・東南アジアの人々の加害への「大和・共有などの傾向は」日本民衆の生活の「底辺に
生きて」はいなかったのではありませんか? だから、今もなお、徴用工大法院判決に闇雲に反発する日本民衆の心
情が「底辺」からも出現するのではないでしょうか?
「日本民族の伝統・文化」なるものを安易に持ち出すべきではないと私は考えます。
 
 日本国憲法は、ひこさんが言われるように、昭和天皇・幣原をはじめとして、それまでの支配層から軍部をいた
戦時の「日本支配層はGHQから押し付けられた」のです。日本民衆は、敗戦時、9条を提起できる力は無かったの
です。もちろん、鈴木安蔵などの憲法案をGHQ憲法原案作成者が参考にしたのは歴史事実ですが、この憲法研究会の
憲法案でさえも「軍備放棄」は入って無かったのです。
 残念ですけど、それは歴史事実です。
 でも「押し付け」をいうなら、あの、天皇絶対・無民主主義・無基本的人権の大日本帝国憲法たるや、民衆へ
の「押し付け」度はGHQの比ではなかった、という歴史事実があります。
 日本国憲法は…沖縄県民、朝鮮半島・台湾出身者…当時は大日本帝国臣民…を排除した上ではありますが、女
性も含めた帝国議会で公に討論し、反対することも全く自由な中で国民代表の圧倒的多数で選び取ったのですが、
帝国憲法は日本民衆には全く公に討論どころか、いきなり、明治薩長成り上り政府によって「押し付けられた」
のですから…
 「押しつけだから憲法改正せよ」とアベをはじめとする悪しき極右勢力が主張し、何も知らない国民が騙され
そうな現状ではありましても、でも、それに対するに「いや、幣原が9条を発案したんだ」というウソを対置す
のは無責任ではないでしょうか?
 魯参さん、あなたが「幣原9条発案」説を拡散されたところに「こういう意見もあります」ということで、私
の「9条発案者は幣原ではない」をご紹介いただけないでしょうか。
ーーーーー

増田さん、みなさん

増田さんの批判とそれに続く討論は下記に転載
されています:
憲法九条の幣原発案説をウソとする増田さんに
対して当方が承服しないことは当方反論の第一
第二に投稿してあります(10月首相就任時に野
の声を想いだして、大衆の支持なしに権力は独
走できず国力・財政などからも戦争放棄・軍備
廃止を願ったが、12月になり実際憲法成文化の
過程でマッカ―サー・天皇への交渉・説明過程
で 実際政治からも原爆の重要性を強調し「戦力・
威嚇など」文言も確定したが、その疑義は問題
になったー芦田・マクマホンの件はこれらと関
係し、又GHQ側の意向の方が通りやすいと思い
疑義・質問・応答:日本leaderでは多国followか
など)。大略発送の時期と詳細決定の時期が異
なることはウソにはならずその間の質疑応答等
もウソの根拠にはならない。
様々な記録・物証に対してウソと言うならば、
そう言う人にウソの挙証責任があり、それらの
記録・物証がウソでないと証明する必要はない。
ウソであることをより多くの人に認めて欲しい
ならば当方の投稿MLに投稿して反応・賛否の両
論を期待されては如何でしょうか?
軍隊・軍人・兵卒などの行動が即一般大衆の心
情・行動であったとするのは部分を全体とし、
針小棒大、あるいは自己絶対化の幣に陥らない
よう群盲撫象の警告に傾聴したいものと思います。
魯参
ーーーーー
魯参さん、
あなたが観じ考えていることに、わたしは、いまさら言うまでもないことですが、共感し同意しています。
そのうえで、しかし、わたしの目からすると、1868年から現在にいたる「大日本帝国」と「日本国」という
ふたつの名をもち、断絶した二つの国家のように見えていながらじつは連続しているとしか
すくなくともわたしにはとらえられない、そういった国家のありようを許容してきたわたしたちの歴史に対する
あなたの感じかた考えかたにほのみえる甘さあるいは認識の浅さを、わたしは指摘しているのです。
たとえば、このメールでのつぎの部分。
《戦前の国家主義・軍国主義・植民主義・侵
略主義は西洋の物真似・一部の近視眼が大
きかったし、戦後の物欲主義・金権主義・
エコノミックアニマル振りもやはりその傾
向があったし、集団主義・事勿れ主義の悪
い面が引きずられた所はあったが、大和・
共有などの傾向は底辺に生きていたのでは
無いでしょうか?》
西欧の「物真似・一部の近視眼が大きかったし」と指摘しておられる戦前・戦中の
支配者・権力者層とこれを思想的にさせていた知識層の全体を見渡せば、
かれらはけっして「一部の近視眼」などと言えたものではなかった、と、すくなくとも
わたしは考えています。
むしろ、1945年夏の敗戦にいたるまでこのわたしたちの国家をみちびいてきた中心思想
およびその担い手たちの全体が、西欧帝国主義・植民地主義に追いつけ追いこせというスローガンで
統一されていた、まさに、これこそが「時代の態勢」であった、と見るほうが妥当であって、
これを「一部の」と言ってきりすててしまうと、この時代の真実がかくされてしまいかねません。
「戦後の物欲主義・金権主義・エコノミックアニマル振り」にしたって、
べつにことあららしいことではなく、明治以降この国を覆うことになった「趨勢」が
そのまま顕現したと見るべきでしょう。
そのような「狂態」の「底辺」に、しかし、「大和・共有などの傾向」が「生きていた」
と見たいきもちは十二分にわかりますが、これとて、やはり、願望の域を出てはいないとおもいます。
現実を直視することが必要です。いかに、見たくもないことばかりであったとしても。
民族の「美点」として、このようなところを再発見し、それが何万年もまえに、
この列島に人間がすみついたころから連綿とつづいている「文化・伝統」であると見なすことを、
一概に否定しようとはおもわないけれど、それでもやはり、この民族の「どうしようもなく愚かな」部分をも
見落としては、正確な認識とは言えないでしょう。
《また西欧に
個人の自覚による民主主義・革命主義・平
和主義が成功して日本・東洋には育たなか
った、と言った見方には賛成できないとい
うことが先の投稿の最後に述べたことの意
味です)。》
むろん、この批判をわたしもともにしています。
わたし自身、フランスではレジスタンスができたのに、「大日本帝国」治下のインテリゲンツィアは
なぜ、「転向」によって天皇制にからめとられていったのかを、自分自身の問題として、
どうしても明らかにしなければならないとおもいさだめていたときに、
このような見解にかたむいていたことが、現にありますので、
これはその自省をもこめての批判です、すくなくともわたしにとっては。
ひこ
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ひこさん、みなさん

共感・同意を有難うございます。
甘さ・浅さについては反論します。
大日本帝国・日本国が底辺で連続
しているのは勿論、弥生・縄文時
代から、渡来以前・人類誕生・生
類発生・宇宙誕生までの底流を考
えに据える必要があるでしょう:
それが分化や止業を言う理由です。
宇宙・生命が先か個我・器官が先
か:海があって泡があるのか、逆
か?業・人が先か空・命が先か逆
か等々問題は多々ですね。
愚かさは日本人に限らず、宿業の
なせる業でしょう。自由は自我に
由るのか自己に由るのか?自他は
万法・真諦の一部ですから依自は
依法を先としなければなりません。
freedom=priya-dhaman (beloved
domain)は法(dharma)を先として
考える必要があるのではないでし
ょうか?

 

魯参
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下記1は憲法九条の注釈として「平和への道はない、平和が道である」を日本政府最終案作成段階(1946年「3月6日案」・7日に各紙発表・国民驚いたが好評)で自ら漢詩に述べていることは自信・自負を示すもので重要ですねー幣原が根っからの軍国主義者であったら、軍備必要と考えていたのにGHQに九条を押し付けられたのならこの時期にこの内容を表明するとは考えられませんね(むしろれっきとした思想家・政治家と言えるでしょう。後に朝鮮戦争勃発後マッカーサーから頼まれて自分の発案をしたのなら、この時期にそれを予め予想してこんな言明をし、口実を造って置いたとも考えられませんね)。

 

魯参

 

オットン・ソリスさん長崎講演のお知らせ

オットン・ソリスさん長崎講演のお知らせ

 

みなさま

 

こんにちは。

Jumpのメンバーである杉浦ひとみさんたちの招きで、

コスタリカの元・大臣であるオットン・ソリスさんが来日する

ことになり、長崎でも講演会を開催します!

ソリスさんは、ノーベル平和賞を受賞したアリアス大統領のもとで

政治経済企画省の大臣をつとめ、2015年には「コスタリカと日本の

国民にノーベル平和賞を」という法案をコスタリカ国会に提案して

全会一致で可決されました。東京では6月8日の14-17時に

聖心女子大学で講演、名古屋~山口講演をへて、6月11日に

長崎へ来られます。

平和憲法を持ち、軍隊を捨てた国コスタリカ。「武力に頼らない国

づくり」について、日本での改憲の動きになどついてお話して

いただくほか、核兵器廃絶高校生一万人署名活動の高校生との

対談も行ないます。みなさま、ぜひお越しください~。

  • 6月11日(火)18~20時半 長崎歴史文化博物館ホール

 入場料1000円(学生無料)

  • 主催 「コスタリカに学ぶ講演会実行委員会」

 

西岡由香

 

チラシ.jpg

 

忘れない、1945年4月1日のことを:     海が戦争で埋められないように。

4月1日

 

みなさま

 

こんにちは。先月、沖縄に行ってきました。

 

1945年4月1日。

沖縄の読谷村の海岸に米軍が接近。エメラルドグリーンの海は、海面が見

えないほど多くの艦船で埋め尽くされました。さとうきび畑にふりそそぐ

銃弾の雨。米軍は10万発の砲弾を撃ち込んだあといっせいに上陸。

読谷村のチビチリガマで集団自決が起きたのはその翌日でした。

 

いま、読谷村のチビチリガマには、最近「肝試し」と称してガマを荒らした

少年たちが、沖縄の彫刻家といっしょに彫ったというお地蔵さまが並べられ

ていました。くろぐろとしたガマの中では今でも遺骨が眠っています。

犠牲者の多くが子どもだった。どんなにか、怖かっただろう。苦しかっただろう。

チビチリガマの300メートル先に「さとうきび畑の歌碑」がありました。

森山良子さんの歌の歌詞が刻まれ、10分以上のメロディが流れます。

この場所は、米軍が上陸後、民家を壊して飛行場にした所。長崎に原爆を

投下したB29は、帰りの燃料が切れたため、この飛行場に緊急着陸したと

記録が残っています。

今でも、まわりの海岸からは砲弾の破片が出てくるそうです。家を新築

する時には、不発弾がないか調べるために金属探知機が不可欠だとか。

戦争は、一度始まったら終わりません。「戦闘状態」は終わっても。

その土地で、人の記憶や人生の中でずっと終わることはない。被爆者の方

の話、沖縄の方の話から実感します。

新元号になっても、「新しい時代」とメディアが書いても、いつでも心の中は

「ざわわ」。

次に海が戦争で埋められないように。

忘れない。1945年4月1日のことを。

 

西岡由香